【完結】姫の前

やまの龍

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第四章 葵

第18話 菜月の騒動

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 翌月、金剛は狩の為に藤五と共に伊豆の江間へと向かった。

「江間では、河越の次郎重時が犬を準備して待っている。彼は弓も巧みだから、よく倣うと良い」

 元気に返事をする金剛。

「本当はお前も江間に連れて行きたかったが、俺は今、鎌倉を離れられないからもう少し待ってくれ」

 コシロ兄にそう言われ、ヒメコは頷いた。コシロ兄の側に居られるなら何処でも良かった。

 金剛らが出かけて一月近く経ったある日、阿波局が江間の屋敷を訪ねて来た。トモの顔を見るなり喜んで抱き上げる。

「まぁ、本当。父が御所中、あちこちに連れ回してたようで噂には聞いてたけど美しい子だわ。意思の強そうな目元がいいって噂は
本当ね。きっと将来は美丈夫になって、御所の女官連中を泣かせるようになるわね」

「え、いやだ。そんなろくでもない」

 つい口にしたら阿波局が笑った。

「でも、ま、良かったじゃない。おかげで父もすっかり丸め込めたし。あの狸親父ったら、千幡君が生まれてからずっと万寿の君の勢力と張り合おうとしてたけど、そろそろ諦めついたんじゃないかしら?万寿の君もそろそろ元服だしね。そう言えば、その添い臥しの役に姫御前の名が上がってたけど受けるの?」

「え?添い臥しって何ですか?」

 初耳だ。阿波局が笑い出した。

「いやねぇ、元服したら妻を娶って後継ぎを儲けなきゃでしょ?だから年上の女性が指南役として添い寝するのよ。と言っても、まだ万寿の君はお子さまだし、京の公家同様、形ばかりの儀式だけどね。でも大抵はその後に正室として迎える姫君を添わせるのが普通だけどね。ほら、源氏物語でも、光源氏の元服の夜に、葵の上が共寝してたでしょ」

「へぇ」

 ぼんやりと返事してからハッと気付く。

「添い臥し?共寝?冗談じゃありません!そんな役、お受けしません!絶対に嫌です!」

 叫ぶ。
何でそんな所に自分の名が上がらなくてはならないのか。

「よねぇ。将軍様は万寿の君の正室に源氏の姫を迎えさせるおつもりよ。でも、どうも比企能員殿は自分の娘を妻にさせたいみたいで、それで揉めてる間に出て来た話のようよ。ま、単なる噂だし、将軍様と大姉上には、姫御前が冗談じゃないって怒ってたって伝えておくわ。でも今は二人ともそれどころじゃないけどね」

 そう言ってため息をつく阿波局。

「何かあったのですか?」

「この所、大姫様のお具合が悪かったのよ。それで私もこちらにお祝いに来るのが遅れたの。ま、それ以外にも色々あってね。とにかく御所が落ち着かなくて」

「それ以外って何があったのですか?」

 何気なく問うたら阿波局はヒメコにずり寄って、八月に入ってから鎌倉界隈で起こったことを事細かに説明してくれた。

 まず、八月初めに頼朝の弟、源範頼が謀反の疑いをかけられた。対し、範頼は頼朝に起請文を書いて許しを請うたが、頼朝は書面に難癖を付けて範頼を糾弾した。

 その挑発に乗って範頼側が動き、頼朝暗殺を実行に移した。範頼の家人の中でも武に優れていた当麻太郎が頼朝の寝所の床下に忍び込み、その床の隙間から頼朝の命を狙ったのだ。だが前もって留め置かれていた結城朝光らによって当麻太郎は拘束された。

 だが、尋問されても当麻は何も喋らず、薩摩の国へと配流される。それから少しして範頼も伊豆へと送られ、範頼の家人で曽我兄弟の弟とされる京の原小次郎は処刑された。

  また、曽我兄弟のもう一人の弟は既に僧になていたが、兄らの仇討ちや範頼との関連を問い正す為に鎌倉に召し出された所、頼朝の前に引き出される前に自刃して果てた。
 次に、範頼の家人らが浜辺の小屋に籠って戦支度をしているとの噂が立ち、それを小山らが鎮圧しに兵を出すという騒ぎも起こった。

そうして、それらが終わって落ち着くかと思った頃に、頼朝挙兵以来の重臣である大庭景義、岡崎美実らが突然出家を遂げた。理由は明らかにされなかったが、噂では謀反の疑いをかけられた為という。

 ヒメコはそれらの事柄を唖然として聞いた。

「まさか、そんなに沢山のことがこの一月の間にあったなんて」

 それらがこの春からの狩に関連した一連の企みだとしたら、頼朝が危惧していたように、やはり此度の狩の裏では、かなり大掛かりな謀反の計画が遂行されていたことになる。

「それで、大姫様のお具合はどうなのですか?」

阿波局は肩を竦めた。

「今は少し落ち着いたらしいけどね」

 その物言いにどこか何かが引っかかる。

 じっと阿波局を見つめたら、阿波局はフゥとため息をついてヒメコの耳に口を寄せた。

「お気の毒に。大姫様は死霊に恋煩いしてると噂されてるわ。義高様を慕う余りに夜も眠れず読経三昧。食も取れなくなって、それで倒れたらしいの」

「恋煩い?義高様に?」

 もう義高殿が亡くなって十年。それに先月会った時には元気そうだったのに。

「ええ、女官たち皆が言ってるわ。何というか凄絶な美しさがあるんですって。大姫様が、義高殿の名を切なそうに呼んでいるのを聞いたって女官もいるし、ブツブツと誰かと話をしているのを聞いたって言ってた子もいるわ。大姫様は義高殿の亡霊に取り憑かれてるのよ。大姉上は心配して、あちこちに祈祷を頼んでは参拝してるし、そんなこんなで今、御所は落ち着かないの。それに比べてここはいいわね。産屋にしていた隣の土地も譲り受けて広く建て直したのでしょう?広々して落ち着くわ。赤子のいる気配がまたいいのよね。それだけで華やぐわ」

 のんびり話して寛ごうとする阿波局の前ににじり寄ってヒメコは首を横に振った。

「大姫様が義高殿に取り憑かれているだなんて、そんなまさか」

「でも、そうやって大姫様のお具合が悪いので、範頼殿とその家人らの刑は減らされたらしいわ。本当は配流ではなく追討の命が出る所だったらしいのよ。でも範頼殿は大姫様からは叔父上にあたるし、少しでも怨霊の祟りを和らげようと思っての祈願なんでしょうね」

——あ。

思い出す。範頼の妻は藤九郎叔父の娘で、ヒメコからは従姉妹にあたる。確か男児が二人居た筈。その子らはトモにとってははとこの間柄になる。義高殿と八幡姫もはとこの間柄。

 ヒメコは立ち上がった。

「私、行かなくては」

「え、どこへ?」

「比企へ」

「比企?でもこの子は?」

「連れて行きます」

「でも、まだ首がしっかりとは座ってないのでしょう?おんぶは無理よ」

ヒメコは胸元をバッと開けると胸元にトモを入れ、その上から着物を羽織った。それから阿波局に頼む。

「ごめんなさい、手伝ってください。私をこの帯でグルグル巻きにして欲しいのです」

「それはいいけど、危ないわよ、おやめなさい」

「でも行かなきゃ!」

 その時、バンと戸が叩かれた。

「何をしている」

 コシロ兄だった。

「比企へ行くのです」

 コシロ兄の目が光る。

「何をしに?」

「祖母に会いに行きます」

「何の為に」

「範頼殿のお子らを助けて貰うのです」

「わざわざお前が行く必要はない。俺が行く。お前は鎌倉で待っていろ」

「嫌です」

「何故?文でもいいだろう。どうしてもと言うなら、俺が今から行ってくる」

「では、私も共に連れて行って下さいませ」

「トモが落ちたらどうする!」

「落としません!どうしても今行かないといけないんです!」

「だが!」

「無理を言ってることは承知しています。でも今すぐでないと駄目なんです」

 無茶苦茶を言っているのは承知していた。でも、何故かすぐに比企に行かなくてはと思った。
「なら、私がトモを預かってましょうか?一晩二晩なら何とかなるわよ。行ってらっしゃい」
阿波局がヒラヒラと手を振る。

「お前は口を出すな!」

 コシロ兄が怒鳴るが阿波局は首を捻った。

「ヒメコ様がこういう風に言い出したら、誰が何を言おうと聞かないのは、誰よりよく小四郎兄が知ってるんじゃないの?何かあるのよ。諦めて行ってらっしゃい。さ、トモ。おいで。私はあんたの叔母よ。仲良くやろうじゃないの」

ヒメコの胸元から引き剥がされた途端にトモは泣き出した。

「おぉ、おぉ、あんたいい声ねぇ。こりゃあ利かん坊だわ。いいわよ、じっくり話を聞いてあげるわよ」

 ヒメコはぺこりと頭を下げると急いで袴を履いて屋敷を出た。馬を引き出して跨り、首を廻らす。駆け始めたらすぐにコシロ兄が追い抜いた。

「何かあれば声を出せ」

 それだけ言って前を駆け行く。

 ヒメコは黙ってコシロ兄を追いかけた。

何でだろう。何故こんなに心が急くのか。

 その理由は比企郡の吉見観音の近くに来てわかる。

 普段は静かな山村の観音堂なのに、今日はいやにザワついていた。






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