【完結】姫の前

やまの龍

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第四章 葵

第15話 せっかちな男の子

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「阿波局さまに、もういつ出てきてもおかしくないのではないかと言われました。案外と早く産まれてきてしまうかも知れませんね」

 そう言ったら、コシロ兄はあからさまに嫌な顔をして

「今月いっぱいは我慢しろ」

 そう言った。それから、それでは足りないと思ったのかヒメコのお腹に指を突き付けてもう一度言う。

「いいか、今月いっぱいは我慢するんだぞ」

そう言われても、と思うが、コシロ兄の真面目な顔がおかしくてヒメコは笑った。

 と、その夜いつもの痛みとは違う痛みが襲って来る。コシロ兄は急ぎの用で御所に上がっていた。

「トモ?」

 お腹に声をかけるが動きがない。

「フジ!」

 眠っていたらしいたフジが慌てて駆け込んでくる。

「起こしてしまってごめんなさい。どうしよう。何だか産まれてしまいそうな気がするの」

 フジは藤五を呼んだ。

「比企のご両親にお伝えして、お産婆さんを呼んで来て!」

 騒ぎに起きたらしい金剛も駆け寄る。

「母上、お産はまだもう少し先ではなかったのですか?」

頷くも痛みが襲って来て返事が出来ない。

 金剛はヒメコに黒く冷たい石を渡して言った。

「これを神功皇后の月延石つきのべいしと思って、もう少し堪えてください」
「月延石?」
よくわからないけれどヒメコはそれを握って息を吐いた。

 やがてお産婆さんが到着する。ヒメコの顔を見るなり言った。

「まぁ、まだ平気そうだがね。ここで産むのかい?別に産屋があるなら、痛みの谷間の内にそちらに移動しておきな」

「はい、隣に」

 そろそろと立ち上がり、歩き出す。外へと出た所で、パチンと何かが弾ける気配がした。

「やれやれ、せっかちな子だね。ほれ、しっかり歩きな。まだ下りてくるまでにはもう少しかかるからね。でも油断して落っことすんじゃないよ」

「え、落とす?」

「たまにいるんだよ。準備が整ってないのに落としてしまう子が。痛んでもまだ力むんじゃないよ。息をたくさん吐いて、石にでも噛り付いて我慢しな」

「はい」

 答えた途端に痛みがやって来て、ヒメコは先程金剛から手渡された黒い石をかじった。お産婆さんが呆れた顔で笑い出す。

「あんた、馬鹿かね。本当に石を噛るなんて、歯が欠けたらどうすんだい」

 石にでも噛り付いてと言ったのに。恨めしげにお産婆さんを見ながら、ようよう産所へと辿り着くが、また痛みがやってくる。必死で知らんぷりして逃したら少し痛みが消えた。

 寄せては返す波のようだ。波と凪の狭間を抜けて、やっとのことでヒメコが奥の部屋に入るとお産婆さんはその戸の前に仁王のように立った。

「女衆はお湯をじゃんじゃん沸かして。男衆は産屋から遠く離れて待ってな」

 フジや比企の両親に指図してバンと戸を締め切る。

「私が声をかけるまでけっして開けるんじゃないよ」

 ヒメコはその声をどこか遠く聞きながら、神話や昔話と同なのだなとぼんやり考えていた。と、また痛みの波がやってくる。落っことしたら大変。力まないように視線をあちこちに飛ばして痛みを堪えようとする。でも最大級の大波に呑み込まれそうになる。お産婆さんをヒタと見つめたら、お産婆さんはクッと片方の口の端を上げた。

「そうだね、もういいよ、好きなように力みな」

許しが出てホッと安心する。グッと掌を握り締めたら、金剛に渡された月延石がグシャッと潰れてサラサラの砂になってしまった。

しまった。どうしよう?

 でも悩む暇もなく波の合間から何かがグングン迫ってくる。

 何回目かの波が来た時、ヒメコはその波にたゆたった。

——ヒュルヒュルヒュル。スポーン。

 火山が噴火する時って、火山の神さまはこんな気分なんだろうか?昔、富士のお山が噴火した時、富士の女神の木花咲耶姫さまはこんな気分だったのかもしれない。

 産み出す。押し出す。送り出す命。

 いつか痛みよりも快さにヒメコは酔いしいれていた。

 やがてお産婆さんが声を上げる。

「いいよ、女だけお湯を足しに入っといで」

 お産婆さんが外にかけた声で、ハッと意識が戻る。

 でも赤子の泣き声がしない。

 代わりにパアン、パアンと何かを叩く音がする。

「ほれ、泣け!息をするんだよ。これからは自分でやらなきゃ生きてけないんだ。そら、覚悟を決めな!」

——パーン!

とどめの一発のような気合の入った音が響き、ややして赤子のくぐもった泣き声が聞こえた。

——ホェア、ホェア、ホェア。

「やれやれ、せっかちかと思えば頑固でしようのない子だねぇ。でも小柄な割には太くて良い声だ。寅の刻生まれだし、この子は勇敢な武将になるだろうよ」

 そうしてヒメコの胸の上に赤いものが乗せられる。ほっこりと温かい固まり。

 そうか、赤いから赤子なんだ。

 そんなことを考えながらしげしげとその赤い固まりを見つめる。

 その時、開けられた戸から朝日が差し込んで来た。

 光に晒された赤い固まりには薄い柔らかな毛が生えていた。そして見える小さな肩と握りしめられた小さな拳。人の子だ。無事に産まれたんだ。チュンチュンと雀が楽しげに囀る声が聞こえる。

 朝という漢字がよく似合うと思った。

 ヒメコはそっと声をかけた。

「トモ、おはよう」

 赤子がずりずりと這い上ってくる。

 ふと、タンポのことを思い出した。猫の子は毛に覆われているけれど、人の子はほとんど覆われていない。ヒメコは赤子をそっと持ち上げて自分の胸元へと入れた。

——あったかい。

 ヒメコは目を閉じた。温石みたいにあったかいけれど、もっとグニャグニャで頼りなげで、でも強烈な存在感を持っている。俺はここに居るぞ、と叫んでいるかのようだ。気配を隠すコシロ兄とはまるで真逆。男の兄弟が居なかったのでよく分からないけれど、男の子は皆そういうものなんだろうか?金剛が産まれた時はどうだったっけ?

 そうだ、金剛が心配しているだろう。渡してくれた、えーと、神功皇后の何とか石を握り潰してしまった。謝らなくては。フジも叩き起こしてしまった。今頃休めているだろうか?あとは、えーと。お産で気が昂っていなからだろうか。寝ずに夜を明かしたのに頭が冴えて意識があちこちに飛ぶ。

 そう言えば江間の屋敷を出たのは夜だった。コシロ兄はまだ戻っていないのだろうか。

 江間の屋敷。思い出すと懐かしい。

 狭いけれど南に庭があって、隣に比企の父の屋敷があって。隣の大路を駆けていく馬の蹄の音がして。近隣の町衆の暮らしの音が聞こえて、煮炊きの香りが届いて。

 ずっとここでの暮らしが続くと思ったのに。そう思い出してヒメコはそっと溜息をついた。

 それから首を傾げる。

——え?

続くと思ったのに、何?

 記憶が混乱する。私は今どこに居るの?

「ヒミカ!」

 呼びかけられて目を覚ます。

 目の前にコシロ兄がいた。

「無事か」

 問われて頷く。

「はい」

 何が?と聞きそうになる。

胸の上にあった温かい固まりが消えている。夢の世界にいたようだった。

「あの、殿。今って何刻ですか?」

「今か?戌の刻くらいだ」

「え、戌?やだ、ごめんなさい。私ったら眠ってしまったみたいで」

 慌てて起き上がろうとするが、肩を押さえられた。

「落ち着け。眠っていいんだ。赤子は無事に眠っている。ほら」

 白い布に包まれた小さな子がコシロ兄の腕の中にいた。

「抱くまで父になれぬと言ったろう?だから無理を言って抱かせて貰った」

「無理を言って?」

 問い返したら、ああと返事があった。意外に負けず嫌いなのかも知れない。もう十年以上想い続けて結婚もしたのに、まだ知らないコシロ兄がいる。ヒメコは嬉しくて笑った。

「お帰りなさいませ」

 言ったら目尻に唇が降ってきた。

「無事で良かった」






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