【完結】姫の前

やまの龍

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第四章 葵

第13話 しづ心

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 金剛が手をついて頭を下げた。

「母上、私はこれからこれを持って富士野へ行って参ります」

「貴方一人では無理でしょう。誰か供を」

でも藤五はコシロ兄の供をして不在。どうしよう?アサ姫に誰か助けを借りようか。悩んだヒメコの前で金剛は首を横に振った。

「供は不要です。高三郎殿を追いかけます。江間までは行ったことがありますし、早駆け用の立派な馬を御台さまより賜ったので、すぐに彼に追い付けます。母上は江間の屋敷から出ずにお待ち下さい」

 言って飛び出して行く金剛。慌てて追おうとするがフジに止められた。

「お方様、金剛君は大丈夫です。藤五がしっかり仕込みましたし、何より賢いお子。無事に御台さまからのお役目を果たしてお戻りになります。念の為、下男をこれから江間の屋敷に向かわせますので、お方様は殿のお子の為にも安んじてお待ちしましょう」

 ヒメコは頷いて腰を下ろした。ボコンとお腹を蹴られる。

「ごめんなさい」

ヒメコは謝ってお腹を優しくさすった。

 そうだ。私が動じてはいけない。このお腹の中のトモを護ることが今のヒメコに出来る唯一のことだった。

 ヒメコは静かに歌い出した。金剛がよく歌ってくれる和歌。

久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」

和歌にはまだ馴染みの薄いヒメコでも容易に情景が浮かぶ和歌。

 春、八重様の亡くなった静かな日を思い出す。

 桜も人も皆いつか散るもの。急ぐように死に向かうもの。

 その散り際に静かな心で逝くことが出来たら。見送ることが出来たら、どんなに幸せだろうか。

 そう考え、ヒメコは心を富士へと飛ばした。
どうか、皆がしづ心(静かで穏やかな心)でいられますように。

 それから六日経って金剛は戻ってきた。

「母上、将軍も父上もご無事です。直に戻るから待てとのお言葉を頂いて参りました」

 ヒメコは胸を撫で下ろした。

「そのことは御台さまには?」

「はい。お伝えして来ました」

 息を切らしながらもにっこりと穏やかに微笑む金剛を見上げ、ヒメコは手を伸ばした。

「よくやり遂げました。立派なオオマスラオにお育ちになりましたね」

 その頭を撫でようとして、もう嫌がられるだろうかと引っ込めかけたヒメコの手に、金剛は猫のように頭をコツンとぶつけ、

「近く、父上にお許しを頂いて狩をしに江間に行こうと思います。でもそれを終えて元服するまでは、私はまだ金剛です」

 ヒメコは頷いて金剛の頭を優しく撫でた。

「よく休むのも立派な武将のつとめ、でしたよね。もう平気ですから安心してゆっくりお休みなさい」

 はい、と小さな返事が聞こえたと思ったら、すぐに安らかな寝息が聞こえ始める。ヒメコは蒸し暑い部屋でハタハタと扇を軽くゆっくりと動かして金剛へと風を送った。

 その後、頼朝やその他御家人衆が鎌倉に帰着したのが六月の半ば。

 コシロ兄が屋敷に戻って来たのは、それからまた少し経ってのことだった。

「ご無事でのお戻り、嬉しゅうございます」

大きくなったお腹を抱えてヒメコが迎えに出たらコシロ兄は微かに目元を緩めたが、その表情はすぐに固くなった。

「留守の間、変わったことはなかったか?」

「はい。父母がたまに訪れて新しく建てられている建物の様子を教えてくれました」

「私は明朝からまた御所に詰める」

 それだけ言って背を向けるコシロ兄。ヒメコは急いで声をかけた。

「あの。闇討ちがあって何人か死傷者があったと聞きました」

 ヒメコの言葉にコシロ兄は目を険しくして振り返った。ヒメコは慌てて言葉を継ぐ。

「申し訳ありません。どうしても富士の様子が気にかかり、金剛に文を持たせて御台さまからお返事をいただきました」

「そうか。だが五人丸のお陰で将軍は助かった」

「五人丸?」

「そなたが隠して連れて行けと言った五人の相撲取りの小舎人童達だ。内の一人が五郎丸と言うらしいが、とりあえず五人纏めて五人丸と呼んでいる。彼らが一斉に曽我時到の足に飛びかかった為に曽我時到を取り押さえられ、将軍はご無事だった」

「そうでしたか」

 ヒメコは胸を押さえた。

「お役に立ててよろしゅうございました。でも一体何があったのですか?」

 ヒメコの問いにコシロ兄は話したくなさげに顔を背けたが、ややして諦めたように口を開いた。

「先月二十八日の未明に曽我の兄弟が工藤祐経殿の寝所を襲い、工藤祐経殿を斬り殺した。その場で兄の祐成は新田忠常殿によって成敗されたが、弟の時到は駆け去って将軍の宿所まで到達し、将軍と対峙した。だが一瞬足が止まった隙に五人丸らがその足に飛びかかり、曽我時到は取り押さえられた。そして翌日、時到を詮議した結果、彼らは実父である河津祐泰殿の仇討ちをしたことがわかった」

 簡潔にそう説明した。

「実父の仇討ち?でも将軍のお命も狙われたのですよね?」

 曽我の兄弟が頼朝を怨んでいるのではないかとアサ姫は呟いていた。その勘は当たっていたのだろう。でも事が終わった筈なのにコシロ兄の口はひどく重かった。

「将軍は親の仇討ちを成し遂げるとは感心なことだとお許しになろうとした」

「仇討ちが感心なこと?」

 ヒメコは思わず問い返す。

「それはまことに将軍が仰ったのですか?」

 コシロ兄は小さく頷いた。

「でもそんな事を言ったら、仇討ちを奨励するようなものではないですか」

「将軍家は此度の事件は孝行息子らの美談として、さっさと終わらせたいのだ」

「美談?」

ヒメコは首を横に振った。納得がいかなかった。仇討ちを赦すばかりか、それを奨励するような真似をしたら、頼朝など一体どれだけの人に命を狙われるか知れたものではないのに。

 でもそれは逆に言うと、仇討ちの標的にされることを些細と思うほどに気にかかる何か別の問題を抱えているということ。

「では、此度のことをさっさと終わらせて、将軍様は次に何をなさるおつもりなのでしょうか?」

 そこで思い出す。

「あの。金剛が、『参州殿現る』という文を富士に届けた筈ですが、もしやその件でしょうか?」
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