134 / 225
第四章 葵
第11話 神のたすけ
しおりを挟む
それからヒメコは屋敷内で金剛に和歌を教えて貰ったり、絵を描いたりと、のんびりした時を過ごした。金剛はたまに出掛けて行っては御所の様子を教えてくれた。もう身体も大きくなって、前に忍び込んだあの穴は通れないだろうし、大蔵御所は火事で建て直された。どうやって御所に忍びこんでいるのかと尋ねたら、顔馴染みの門番が居るらしい。宋銭か土産でこっそり通してくれるのだとか。八幡姫も彼の番の時に出入りしているとのこと。子どもらの賢さ逞しさが頼もしい。狩が終われば万寿の君は元服。それより一つ下の金剛は翌年に元服となるだろうか。時が経つのは早いものだと思う。
「母上、御台さまは何かご心配ごとがあるのでしょうか?」
ある日、金剛が八幡姫を伴って帰って来るなり、そう問うた。八幡姫が継ぐ。
「今日ね、富士から急ぎの使いがやって来たの。けれど母上は突然怒り出して、そんなことで急ぎの使いなど出すな!と使者を追い返したのよ」
「ご使者の口上はお聞きになりました?」
「万寿が狩で初めて鹿を射止めたって内容よ。なのに母上ったら『万寿は武将の子。野の鹿や鳥を得たくらいで軽々しく急使を出すなど煩わしい』って使いを急いで富士野に追い返したの。あまり母上らしくない対応だったわ。母上は何か別の使いが来ると思ってたのじゃないかしら。それが何なのか、姫御前なら知ってるのではない?」
ヒメコは黙った。
何か異変が起きると匂わせてしまったヒメコ。アサ姫は頼朝の安否をずっと気にかけている筈。そこへ急ぎの使いが来たと聞けば、悪い報せかと想像してしまうのは当たり前。それでつい使者に当たってしまったのだろう。アサ姫にも使者にも悪いことをしてしまったと思う。
「姫御前?」
声をかけられ、ヒメコは顔を上げた。
「実は少し前に悪い夢を見たのです。だから警戒を、と将軍様と御台さまにお伝えしました。それで御台さまはずっと富士のご様子を案じておられるのです」
「悪い夢?」
ヒメコは俯いた。
あの夢の中で聞いた雨の音がするような気がして天を仰ぐ。でも鎌倉はここずっと晴天続き。このままでは作物が育たないのではないかと心配になる程に今年は雨が少なかった。
「母上、大丈夫ですよ。父上も叔父上も、また海野幸氏殿、望月重隆殿も富士に共に行っておられるのですから。そんなに難しい顔をしているとお腹の中のトモに障ります」
「トモ?お腹の中の子?もう名前が決まってるの?」
八幡姫が首を傾げるのに金剛がさらりと答えた。
「呼びかけるに名がないと不便なので、皆でトモと呼んでるのです。友のようにずっと共に居て欲しいと仮で付けた名です。呼びかけると応えてくれるますよ。ほら、姫さまも呼びかけてみてください」
「応えるって、お腹の中から返事でもするの?」
八幡姫は不審顔ながらヒメコの腹に顔を近付けて声をかける。
「トモぉ、あんたは男?」
途端、ヒメコの腹がポコンと動いた。八幡姫が飛び上がる。
「やだぁ、なんか今動いた気がするわ」
ヒメコは八幡姫の手を取って腹に当てた。八幡姫は暫くじっとしていたが難しい顔をして言った。
「うーん、動いてるような動いてないような。よくわからないわ。姫御前、さっきのはお腹が空いてお腹が鳴っただけなんじゃないの?」
皆で笑う。
帰りしな、八幡姫は言った。
「男の子ならトモトキね。父上の朝の字を貰うのでしょう?」
鋭い。ヒメコはやんわりと笑って手を振り八幡姫を見送った。名を継ぐ。名誉なことだ。でも時に重い枷となることもあるだろう。それでも名は贈り物。贈り主の心を継いで生きる糧になってくれる。
ふと、アサ姫が気にしていた曽我兄弟のことを思い出す。
祐の字は工藤氏の通字とアサ姫は言っていた。祐の字は右に器を持って神に祈る姿を表し、神のたすけを意味している。彼ら兄弟に、そして関わる全ての人に神の助けがありますように。
全ての人に、とは難しいことを承知しながら、それでもヒメコは祈った。
凶報が鎌倉に入ったのはその十日後の夕方だった。
「早駆けの馬が通った音がしたので少し様子を見て来ます」
金剛はそう言って出掛けて行った。僅かに雨の気配。でもお湿り程度の小雨で、稲の生育には到底足らないだろう。今年は本当にどうしたのだろうか。
やがて金剛が戻って来た。
「御所には入れませんでした。ただ、中は変に騒がしく明かりも常より煌煌と多く焚かれていて様子が変です」
ヒメコは小机を引き寄せて文を書き始めた。金剛に渡して言う。
「金剛、明朝にこの文を持って阿波局様をお訪ねなさい。江間義時の室からの急ぎの文だと門番に見せて。これを見せれば、どこの門からでも入れる筈です」
翌朝早く出掛けて行った金剛が戻ったのは昼前だった。
「工藤祐経殿が富士で討たれたそうです。その他何人か死傷者が出てるようですが、その中に海野幸氏殿の名がありました」
「殿と将軍様は?」
「ご無事と思われますが、これ以上の詳細がわからなくて」
「御台さまはどうされてます?」
「阿波局様にお会いするだけでやっとの状況だったので、何とも」
ヒメコは立ち上がった。でも金剛が立ち塞がる。
「母上、いけません。父上とお約束したのをお忘れですか?」
「でも」
「私が行って来ます。次は御台さま宛に文を書いて下さい」
ヒメコは金剛を見送って南の庭に面した廊に出た。雨が降り始めて来ていた。
「母上、御台さまは何かご心配ごとがあるのでしょうか?」
ある日、金剛が八幡姫を伴って帰って来るなり、そう問うた。八幡姫が継ぐ。
「今日ね、富士から急ぎの使いがやって来たの。けれど母上は突然怒り出して、そんなことで急ぎの使いなど出すな!と使者を追い返したのよ」
「ご使者の口上はお聞きになりました?」
「万寿が狩で初めて鹿を射止めたって内容よ。なのに母上ったら『万寿は武将の子。野の鹿や鳥を得たくらいで軽々しく急使を出すなど煩わしい』って使いを急いで富士野に追い返したの。あまり母上らしくない対応だったわ。母上は何か別の使いが来ると思ってたのじゃないかしら。それが何なのか、姫御前なら知ってるのではない?」
ヒメコは黙った。
何か異変が起きると匂わせてしまったヒメコ。アサ姫は頼朝の安否をずっと気にかけている筈。そこへ急ぎの使いが来たと聞けば、悪い報せかと想像してしまうのは当たり前。それでつい使者に当たってしまったのだろう。アサ姫にも使者にも悪いことをしてしまったと思う。
「姫御前?」
声をかけられ、ヒメコは顔を上げた。
「実は少し前に悪い夢を見たのです。だから警戒を、と将軍様と御台さまにお伝えしました。それで御台さまはずっと富士のご様子を案じておられるのです」
「悪い夢?」
ヒメコは俯いた。
あの夢の中で聞いた雨の音がするような気がして天を仰ぐ。でも鎌倉はここずっと晴天続き。このままでは作物が育たないのではないかと心配になる程に今年は雨が少なかった。
「母上、大丈夫ですよ。父上も叔父上も、また海野幸氏殿、望月重隆殿も富士に共に行っておられるのですから。そんなに難しい顔をしているとお腹の中のトモに障ります」
「トモ?お腹の中の子?もう名前が決まってるの?」
八幡姫が首を傾げるのに金剛がさらりと答えた。
「呼びかけるに名がないと不便なので、皆でトモと呼んでるのです。友のようにずっと共に居て欲しいと仮で付けた名です。呼びかけると応えてくれるますよ。ほら、姫さまも呼びかけてみてください」
「応えるって、お腹の中から返事でもするの?」
八幡姫は不審顔ながらヒメコの腹に顔を近付けて声をかける。
「トモぉ、あんたは男?」
途端、ヒメコの腹がポコンと動いた。八幡姫が飛び上がる。
「やだぁ、なんか今動いた気がするわ」
ヒメコは八幡姫の手を取って腹に当てた。八幡姫は暫くじっとしていたが難しい顔をして言った。
「うーん、動いてるような動いてないような。よくわからないわ。姫御前、さっきのはお腹が空いてお腹が鳴っただけなんじゃないの?」
皆で笑う。
帰りしな、八幡姫は言った。
「男の子ならトモトキね。父上の朝の字を貰うのでしょう?」
鋭い。ヒメコはやんわりと笑って手を振り八幡姫を見送った。名を継ぐ。名誉なことだ。でも時に重い枷となることもあるだろう。それでも名は贈り物。贈り主の心を継いで生きる糧になってくれる。
ふと、アサ姫が気にしていた曽我兄弟のことを思い出す。
祐の字は工藤氏の通字とアサ姫は言っていた。祐の字は右に器を持って神に祈る姿を表し、神のたすけを意味している。彼ら兄弟に、そして関わる全ての人に神の助けがありますように。
全ての人に、とは難しいことを承知しながら、それでもヒメコは祈った。
凶報が鎌倉に入ったのはその十日後の夕方だった。
「早駆けの馬が通った音がしたので少し様子を見て来ます」
金剛はそう言って出掛けて行った。僅かに雨の気配。でもお湿り程度の小雨で、稲の生育には到底足らないだろう。今年は本当にどうしたのだろうか。
やがて金剛が戻って来た。
「御所には入れませんでした。ただ、中は変に騒がしく明かりも常より煌煌と多く焚かれていて様子が変です」
ヒメコは小机を引き寄せて文を書き始めた。金剛に渡して言う。
「金剛、明朝にこの文を持って阿波局様をお訪ねなさい。江間義時の室からの急ぎの文だと門番に見せて。これを見せれば、どこの門からでも入れる筈です」
翌朝早く出掛けて行った金剛が戻ったのは昼前だった。
「工藤祐経殿が富士で討たれたそうです。その他何人か死傷者が出てるようですが、その中に海野幸氏殿の名がありました」
「殿と将軍様は?」
「ご無事と思われますが、これ以上の詳細がわからなくて」
「御台さまはどうされてます?」
「阿波局様にお会いするだけでやっとの状況だったので、何とも」
ヒメコは立ち上がった。でも金剛が立ち塞がる。
「母上、いけません。父上とお約束したのをお忘れですか?」
「でも」
「私が行って来ます。次は御台さま宛に文を書いて下さい」
ヒメコは金剛を見送って南の庭に面した廊に出た。雨が降り始めて来ていた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。


魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

異世界転移しましたが、面倒事に巻き込まれそうな予感しかしないので早めに逃げ出す事にします。
sou
ファンタジー
蕪木高等学校3年1組の生徒40名は突如眩い光に包まれた。
目が覚めた彼らは異世界転移し見知らぬ国、リスランダ王国へと転移していたのだ。
「勇者たちよ…この国を救ってくれ…えっ!一人いなくなった?どこに?」
これは、面倒事を予感した主人公がいち早く逃げ出し、平穏な暮らしを目指す物語。
なろう、カクヨムにも同作を投稿しています。
野鍛冶
内藤 亮
歴史・時代
生活に必要な鉄製品を作る鍛冶屋を野鍛冶という。
小春は野鍛冶として生計をたてている。
仕事帰り、小春は怪我をして角兵衛獅子の一座から捨てられた子供、末吉を見つけ、手元に置くことになった。
ある事情から刀を打つことを封印した小春だったが、末吉と共に暮らし、鍛冶仕事を教えているうちに、刀鍛冶への未練が残っていることに気がつく。
刀工華晢としてもう一度刀を鍛えたい。小春の心は揺れていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる