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第四章 葵
第6話 隠し事
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その日は久々に調子が良かった。外の空気を吸いに出ようかと思った時、神棚が目に入る。榊が少しだけ斜めになっているのが気にかかった。踏み台を持って来て位置を戻す。
足を下ろした時、ふわりとした物に爪先がぶつかった。
「あ、タンポごめんね」
避けて降りようとした時、踏み台がグラついた。
「あ!」
ヒメコは床へと落ちかける。咄嗟にお腹を庇って手をつく。お腹と腰は守ったが手首が痛い。
「あいたたた」
横座りしたヒメコに、丁度外から戻って来たフジが駆け寄った。
「お方様、どうかされたのですか?」
「御免なさい。足を踏み外して手をついたらぐねってしまったみたい」
フジの顔が青くなる。
「お腹は?」
「平気よ。ぶつけてはいないわ」
フジは頷いて息をついた後に強い口調でヒメコに言った。
「今が一番大切な時。ややこが流れたら悔やんでも悔やみきれません。動きたくなるかもしれませんが、今はけして無理してはなりません。さぁ、早く床へお下がりください。少なくとも今日いっぱいは床から起き上がられませんよう。わかりましたね?」
滅多に見ぬフジの剣幕に、ヒメコはコクコクと首を頷かせて床へと戻った。
「母上」
声をかけられてヒメコは目を上げた。金剛が座っていた。
「ごめんなさい。タンポのせいで。どうしよう」
膝の上に固く握り締められた拳。その上にポロリと涙を零す金剛。ヒメコは上掛けの下から手を出して金剛の手に触れた。
「タンポのせいではないのよ。私が不注意だったの。お腹は打ってないし平気よ。さ、泣かないで。この子が心配してしまうわ。お兄ちゃんが泣いてるって」
言って金剛の手を握り、自分の腹へと導く。
「この子は貴方の弟になるのですから強い子です。大丈夫ですよ」
「弟?本当に?」
ヒメコは頷いた。確信はないけれど男の子の気がしていた。金剛はそっと口の端を持ち上げて目を閉じた。その口は何も言葉を発しなかったけれど、祈ってくれているのを感じた。うん、大丈夫。この子は護られている。無事だ。
でも、その夜、ツキンという微かな痛みがあり、僅かな出血がある。ヒメコはそれを隠そうとした。
その翌日の昼、久しぶりにコシロ兄が戻ってくる。
「父上、お帰りなさいませ」
手をついて挨拶する金剛の声が聞こえる。ヒメコも出迎えに出ようとしたが、フジの声が聞こえた。
「お方様は今は床に伏せっておられます」
「具合が悪いのか?」
「ご懐妊ではないかと」
フジか答えた直後に、コシロ兄が戸を開けて入って来た。
「お帰りなさいませ」
ヒメコは起き上がって頭を下げる。
「ややこが出来たと。まことか?」
問われ、ヒメコは黙ってコシロ兄を見上げた。
コシロ兄が僅かに不審な顔をする。
「どうした?」
ヒメコは答えられずに黙ったまま、上掛けを喉元までたぐり寄せた。
どうしよう?流れてしまったかも知れないと言うべきだろうか。でも言葉にしたら、それが本当になりそうで怖い。言いたくない。
コシロ兄は黙ったままヒメコを見ていた。ややして口を開く。
「隠さなくていい。どちらでも良い」
言いかけるもどうにも口が重い。
「わからないのです」
それだけを答える。そう、わからない。まだわからない。それは嘘ではない。だって出血はそんなに多くなかった。痛みもあまりない。
コシロ兄はヒメコの隣に腰を下ろした。
「そうか。とにかく起き上がらずに休んでいろ。俺は今から伊豆に行かねばならん」
「伊豆へ?江間ですか?」
「ああ。父が富士での巻狩りの宿所の設営を請け負う事になった。江間からも人や材木を出して準備せねばならない。他にも気になることがあるので一度行ってくる。弥生には戻る」
弥生は一月も先。
「気になること?」
問い返したが、コシロ兄は何も答えず、軽く咳払いをして立ち上がる。
「いや、気にしなくていい。留守の間、もし不安なら比企の父君の屋敷に戻っていて構わない。では行ってくる」
そのままコシロ兄は出かけて行った。昨年結婚してからは、それ程長く鎌倉の屋敷を開けることは無かったけれど、コシロ兄の本来の所領は伊豆の江間。他の御家人の北の方と同じように、いずれヒメコも伊豆の江間に落ち着くことになるのだろう。コシロ兄の何か言いにくそうな顔を思い出す。もしかしてヒメコにややこが出来ていなければ、そろそろ移るという話をするつもりでいたのかもしれない。
でも。
ヒメコは自らの腹に左手を添わせた。
今は動いてはいけない。この子を守らなくては。
「母上、左手をお出し下さい」
請われて出す。その手首にひんやりとした布があてがわれた。金剛がヒメコの手首に湿布をあて、クルクルと器用に包帯を巻いていく。
「弟切草で作った湿布です。腫れと痛みを取ってくれるのだと教えられました」
小さくてあたたかな柔らかい手。
「有難う」
ヒメコは潤む目をそっと細めて金剛の形の良い額を見つめた。優しい子。この子が心穏やかに過ごせますよう。安心して背を任せられるような心強い仲間にたくさん出逢えますよう。仁王の加護を受けた子。どんな苦難が待ち受けているかわからない。でも仲間がいたらきっと乗り越えていける。
ヒメコは自らの腹をさすった。
どうか無事で。無事で産まれてきて金剛を助けてあげて。
それからヒメコはひたすら床で横になって過ごした。出血はあれ以降なかった。痛みも途絶えた。食事もとれるようになった。だから平気。この子は大丈夫。ヒメコはそう信じて、日がな声明を唱えながら過ごした。時折フジに日を尋ねる。コシロ兄が出かけてから二十日程が経っていた。
「お方様、その後出血はございませんか?」
フジに問われ、出血していたことを気付かれていたことを知る。
頷くヒメコに、フジは一度産婆さんに診ていただきましょうと言った。やがて現れた老女はヒメコを見て笑った。
「初めての子かい?怯えた顔して」
「あの、一回痛みがあって出血してしまったのです。その後は出血もなく落ち着いているのですが」
ビクビクと伝えたヒメコに老女は微かに笑ってヒメコの腹を指差して言った。
「あんた、母親になるんなら本当は分かってるんだろ?そこにちゃんと居るってことをさ」
ああ。
ヒメコは息を吐いた。
「はい」
涙が溢れる。
「はい、確かに居ます。有難うございます」
あたしは何もしてないよ。そう言って老女は帰って行った。後でフジが教えてくれた。
「この辺りでは頼りになる婆様で、私の妹が流産した時に助けてくれたので、無理を言って引っ張って来てしまいました。私らのような下々の者を診ている人なので、お方様を診ていただくには相応しくないかとは思ったのですが、申し訳ございません」
頭を下げるフジに、ヒメコはいいえと首を横に振った。
「あのお婆様のおかげで、この子は無事産まれることが出来ると確信出来ました。フジ、有難う。出血のこと隠していて御免なさい」
フジはにっこりと微笑んで、隠してもわかりますよ。足がモゾモゾ動いておいででしたから。そう答えた。
「足がモゾモゾ?」
不思議に思って問い返したら、
「人は隠し事があると足がモゾモゾ動くのだと。私の母はそう言ってました」
「そう言えば私もそれで嘘がバレて叱られたことがありました」
幼い頃、何回も祝詞を上げるのが面倒で数を誤魔化したことがあった。でも祖母はそれを見逃さず、倍の数、奏上させられることになって懲りた。
どうして嘘をついているとわかるのかと尋ねたヒメコに、祖母は笑って答えた。
「そりゃわかるさね。隠し事があると心がやましくなる。心にやましいことがない時とは動きが違ってくるからね」
そうしてヒメコの足を指差した。
「誰でも一番わかりやすく出てしまうのは足癖さ。頭から一番離れてる場所だからかね。足先の動きを見りゃ大抵のことがわかるよ」
足を下ろした時、ふわりとした物に爪先がぶつかった。
「あ、タンポごめんね」
避けて降りようとした時、踏み台がグラついた。
「あ!」
ヒメコは床へと落ちかける。咄嗟にお腹を庇って手をつく。お腹と腰は守ったが手首が痛い。
「あいたたた」
横座りしたヒメコに、丁度外から戻って来たフジが駆け寄った。
「お方様、どうかされたのですか?」
「御免なさい。足を踏み外して手をついたらぐねってしまったみたい」
フジの顔が青くなる。
「お腹は?」
「平気よ。ぶつけてはいないわ」
フジは頷いて息をついた後に強い口調でヒメコに言った。
「今が一番大切な時。ややこが流れたら悔やんでも悔やみきれません。動きたくなるかもしれませんが、今はけして無理してはなりません。さぁ、早く床へお下がりください。少なくとも今日いっぱいは床から起き上がられませんよう。わかりましたね?」
滅多に見ぬフジの剣幕に、ヒメコはコクコクと首を頷かせて床へと戻った。
「母上」
声をかけられてヒメコは目を上げた。金剛が座っていた。
「ごめんなさい。タンポのせいで。どうしよう」
膝の上に固く握り締められた拳。その上にポロリと涙を零す金剛。ヒメコは上掛けの下から手を出して金剛の手に触れた。
「タンポのせいではないのよ。私が不注意だったの。お腹は打ってないし平気よ。さ、泣かないで。この子が心配してしまうわ。お兄ちゃんが泣いてるって」
言って金剛の手を握り、自分の腹へと導く。
「この子は貴方の弟になるのですから強い子です。大丈夫ですよ」
「弟?本当に?」
ヒメコは頷いた。確信はないけれど男の子の気がしていた。金剛はそっと口の端を持ち上げて目を閉じた。その口は何も言葉を発しなかったけれど、祈ってくれているのを感じた。うん、大丈夫。この子は護られている。無事だ。
でも、その夜、ツキンという微かな痛みがあり、僅かな出血がある。ヒメコはそれを隠そうとした。
その翌日の昼、久しぶりにコシロ兄が戻ってくる。
「父上、お帰りなさいませ」
手をついて挨拶する金剛の声が聞こえる。ヒメコも出迎えに出ようとしたが、フジの声が聞こえた。
「お方様は今は床に伏せっておられます」
「具合が悪いのか?」
「ご懐妊ではないかと」
フジか答えた直後に、コシロ兄が戸を開けて入って来た。
「お帰りなさいませ」
ヒメコは起き上がって頭を下げる。
「ややこが出来たと。まことか?」
問われ、ヒメコは黙ってコシロ兄を見上げた。
コシロ兄が僅かに不審な顔をする。
「どうした?」
ヒメコは答えられずに黙ったまま、上掛けを喉元までたぐり寄せた。
どうしよう?流れてしまったかも知れないと言うべきだろうか。でも言葉にしたら、それが本当になりそうで怖い。言いたくない。
コシロ兄は黙ったままヒメコを見ていた。ややして口を開く。
「隠さなくていい。どちらでも良い」
言いかけるもどうにも口が重い。
「わからないのです」
それだけを答える。そう、わからない。まだわからない。それは嘘ではない。だって出血はそんなに多くなかった。痛みもあまりない。
コシロ兄はヒメコの隣に腰を下ろした。
「そうか。とにかく起き上がらずに休んでいろ。俺は今から伊豆に行かねばならん」
「伊豆へ?江間ですか?」
「ああ。父が富士での巻狩りの宿所の設営を請け負う事になった。江間からも人や材木を出して準備せねばならない。他にも気になることがあるので一度行ってくる。弥生には戻る」
弥生は一月も先。
「気になること?」
問い返したが、コシロ兄は何も答えず、軽く咳払いをして立ち上がる。
「いや、気にしなくていい。留守の間、もし不安なら比企の父君の屋敷に戻っていて構わない。では行ってくる」
そのままコシロ兄は出かけて行った。昨年結婚してからは、それ程長く鎌倉の屋敷を開けることは無かったけれど、コシロ兄の本来の所領は伊豆の江間。他の御家人の北の方と同じように、いずれヒメコも伊豆の江間に落ち着くことになるのだろう。コシロ兄の何か言いにくそうな顔を思い出す。もしかしてヒメコにややこが出来ていなければ、そろそろ移るという話をするつもりでいたのかもしれない。
でも。
ヒメコは自らの腹に左手を添わせた。
今は動いてはいけない。この子を守らなくては。
「母上、左手をお出し下さい」
請われて出す。その手首にひんやりとした布があてがわれた。金剛がヒメコの手首に湿布をあて、クルクルと器用に包帯を巻いていく。
「弟切草で作った湿布です。腫れと痛みを取ってくれるのだと教えられました」
小さくてあたたかな柔らかい手。
「有難う」
ヒメコは潤む目をそっと細めて金剛の形の良い額を見つめた。優しい子。この子が心穏やかに過ごせますよう。安心して背を任せられるような心強い仲間にたくさん出逢えますよう。仁王の加護を受けた子。どんな苦難が待ち受けているかわからない。でも仲間がいたらきっと乗り越えていける。
ヒメコは自らの腹をさすった。
どうか無事で。無事で産まれてきて金剛を助けてあげて。
それからヒメコはひたすら床で横になって過ごした。出血はあれ以降なかった。痛みも途絶えた。食事もとれるようになった。だから平気。この子は大丈夫。ヒメコはそう信じて、日がな声明を唱えながら過ごした。時折フジに日を尋ねる。コシロ兄が出かけてから二十日程が経っていた。
「お方様、その後出血はございませんか?」
フジに問われ、出血していたことを気付かれていたことを知る。
頷くヒメコに、フジは一度産婆さんに診ていただきましょうと言った。やがて現れた老女はヒメコを見て笑った。
「初めての子かい?怯えた顔して」
「あの、一回痛みがあって出血してしまったのです。その後は出血もなく落ち着いているのですが」
ビクビクと伝えたヒメコに老女は微かに笑ってヒメコの腹を指差して言った。
「あんた、母親になるんなら本当は分かってるんだろ?そこにちゃんと居るってことをさ」
ああ。
ヒメコは息を吐いた。
「はい」
涙が溢れる。
「はい、確かに居ます。有難うございます」
あたしは何もしてないよ。そう言って老女は帰って行った。後でフジが教えてくれた。
「この辺りでは頼りになる婆様で、私の妹が流産した時に助けてくれたので、無理を言って引っ張って来てしまいました。私らのような下々の者を診ている人なので、お方様を診ていただくには相応しくないかとは思ったのですが、申し訳ございません」
頭を下げるフジに、ヒメコはいいえと首を横に振った。
「あのお婆様のおかげで、この子は無事産まれることが出来ると確信出来ました。フジ、有難う。出血のこと隠していて御免なさい」
フジはにっこりと微笑んで、隠してもわかりますよ。足がモゾモゾ動いておいででしたから。そう答えた。
「足がモゾモゾ?」
不思議に思って問い返したら、
「人は隠し事があると足がモゾモゾ動くのだと。私の母はそう言ってました」
「そう言えば私もそれで嘘がバレて叱られたことがありました」
幼い頃、何回も祝詞を上げるのが面倒で数を誤魔化したことがあった。でも祖母はそれを見逃さず、倍の数、奏上させられることになって懲りた。
どうして嘘をついているとわかるのかと尋ねたヒメコに、祖母は笑って答えた。
「そりゃわかるさね。隠し事があると心がやましくなる。心にやましいことがない時とは動きが違ってくるからね」
そうしてヒメコの足を指差した。
「誰でも一番わかりやすく出てしまうのは足癖さ。頭から一番離れてる場所だからかね。足先の動きを見りゃ大抵のことがわかるよ」
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