125 / 225
第四章 葵
第2話 葵の花
しおりを挟む
そのままコシロ兄は向こうを向いてしまった。
ヒメコは目を開けたまま、まんじりともせず時を過ごす。
でもそれはコシロ兄も同じだったようで、ややして溜め息が聞こえた。
「起きているのだろう?」
問われ、はいと答えて起き上がる。
「気が立っていた。変な話をして済まなかった」
ヒメコは首を横に振ってコシロ兄の隣に移った。
「いいえ、私は嬉しゅうございました」
コシロ兄が眉を顰める。
「私は貴方のお顔を見て、そのお声を聴けるだけでも嬉しかったのですが、そのお心の内を見せて頂けて、やっと妻になれたのだなと安堵いたしました」
「安堵?」
怪訝な顔をするコシロ兄に、ええと頷く。
「今までずっと私が我儘を言ってコシロ兄を困らせて来ました。だから今度はコシロ兄が私を困らせてくれていいのです。愚痴でも弱音でも何でも聞きますから、どうぞ安心してお任せください。何でも受け止めますから」
胸に手を置いてそう言ったら、コシロ兄は口を引き結んでヒメコを睨みつけ、向こうを向いて横になってしまった。
「あの?」
おずおずと声をかける。コシロ兄が身じろいだ。
「悪いが今日は余裕がない。離れていてくれ」
言われたけれど、その身から立ち昇る暗い陰が気になる。
「あの、お加減が悪いのでは?」
その肩に触れる。
途端、コシロ兄が身を起こした。
「離れていろと言ったろう」
「でもお具合が悪そうなので」
熱をはかろうと伸ばした手が払われ、逆の腕を掴まれる。
あ、と思った時には押し倒されて口を塞がれていた。
熱の塊のような凄まじい気がヒメコを包む。肌を啄まれ吸われた時、ヒメコは噛み殺されるかと思った。その手は冷たく堅い。ヒメコを拒否するようにその目はヒメコを見ない。でもヒメコは戸惑いながらも受け入れようと目を閉じた。だがその瞬間、コシロ兄は身を離して向こうを向いて伏してしまった。
「あの」
声をかけるも返事はない。
ヒメコは部屋の隅に仄かに灯された灯明の明かりを頼りに真上の梁を眺めた。まだ新しい木の香り。どこからか聞こえてくる近隣の屋敷の中の音や外を通る人の声。馬の気配。それらの一つ一つに耳を澄ませているうちにヒメコはいつの間にか眠ってしまっていた。
気付いた時にはコシロ兄の気配は無くなっていた。ヒメコには上掛けが掛けられていた。閉じた蔀戸の隙間から漏れる陽の光。
慌てて身を整えて部屋の外へと飛び出す。
「おはようございます」
フジの笑顔に迎えられ、江間の屋敷を見渡す。
「あ、あの、コシ、いえ、殿は?」
「今しがたお出かけになりました」
ヒメコは追いかけようとして履物を探した。でもフジに腕を掴まれ止められる。
「お方様は今日より暫くはお外にお出になりませんよう」
「え、何故?」
「何故も何もございません」
「でも」
フジの手を外そうとするが、強く押し留められる。
「お方様は昨日江間に入られたばかり。婚儀の直後に外にお顔を出してはなりません」
「見送りたいだけです」
でもフジは頑なに首を横に振った。
「いけません。とにかくこの三日はお姿を晒さぬようお願いいたします」
三日。
結婚した身で軽々しく動いていけないのはわかる。
でも。
果たしてコシロ兄は今日戻って来てくれるのだろうか。
ヒメコはそんな不安を感じて外へと通じる戸の向こうから聞こえる町の人々の賑わいに耳を傾けた。
昨晩のコシロ兄は今まで見たことのないような怖い顔をしていた。体調が悪いのではないか。それとも何か気に触るようなことを言ってしまったのか。思い悩むが外に出ることは出来ない。
早く無事に帰って来て欲しい。そう祈りながら床の木目を目でなぞる。
「母上、おはようございます」
明るい声にハッと振り返れば金剛がきちんと手をついて座っていた。
「あ、おはようございます」
慌てて挨拶を返す。
すると金剛が微笑んだ。
「ございます、はもう付けないでください」
「ごめんなさい。つい癖で」
謝ったら金剛はヒメコの目の前に薄い桃色の花を差し出した。夏用の薄物の着物のように透き通って波打ち広がる花弁。その中央には鮮やかな菜の花色に輝く花芯。たおやかな風情ながら凜とした佇まいに目を奪われる。
「まぁ、なんて綺麗」
「この夏、庭に咲いた葵の花です。もうてっぺんまで咲いてしまったのですが、そのてっぺんの一番綺麗な一輪を母上に」
少し恥ずかしそうに目線を斜め下に泳がせながら、きゅっと口の端を持ち上げ、得意げな顔でヒメコを見上げる金剛。
「ありがとう」
ヒメコは両手を広げて金剛の手ごと薄桃色の葵を受け取る。
萎みかけていた心に日が射したように感じた。
「フジ、取り乱して御免なさいね。ちゃんと大人しくしてますから」
言ったら、フジは優しく微笑んだ。
「お腹が空きましたでしょう。朝餉にしましょうね」
そう言って、膳を運んで来てくれた。
立ち上がろうとしたヒメコだが、身体があちこち痛くて動けない。
「あ、お方様はそのままで。さ、金剛君もどうぞ」
言われ、大人しくその場にて箸を取る。
「御免なさい。明日はきちんと起きますので」
江間の屋敷で朝を迎えるのは初めてのこと。
「殿はいつも朝はお早いの?」
問えば、フジはええと頷いた。
「お戻りにならないことも多かったですし、食事は取らないか、その辺にある物を適当につまむ程度でしたから、目につく所に干し肉や木の実など、すぐ口に出来て携帯も出来るような物を常に用意しておりました。木の実がお好きなので、今朝もそれを手にお出になりましたが、いつもより少ししかお持ちにならなかったので、きっと今日は早めにお戻りになると思いますよ」
「そうなのね」
ぼんやり答えてから思う。自分は普段のコシロ兄の暮らしを殆ど知らない。何を好み、何が苦手で、どんなことに気を遣い、どんな時に喜ぶのか、怒るのか、何も知らない。
その瞬間、
「私を困らせてくれていいので」そう口走ってしまった昨晩の自分を思い出した。
「何てこと」
ヒメコは自分の頬を押さえた。
自分は確かにコシロ兄の妻となった。でもまだ彼のことを殆どと言っていいくらい知らない。なのにあんなことを言ってしまうなんて。
自分の思い上がりと幼さ、至らなさに顔から火が出る思いがする。
コシロ兄が怒って当たり前だ。
ヒメコは目を開けたまま、まんじりともせず時を過ごす。
でもそれはコシロ兄も同じだったようで、ややして溜め息が聞こえた。
「起きているのだろう?」
問われ、はいと答えて起き上がる。
「気が立っていた。変な話をして済まなかった」
ヒメコは首を横に振ってコシロ兄の隣に移った。
「いいえ、私は嬉しゅうございました」
コシロ兄が眉を顰める。
「私は貴方のお顔を見て、そのお声を聴けるだけでも嬉しかったのですが、そのお心の内を見せて頂けて、やっと妻になれたのだなと安堵いたしました」
「安堵?」
怪訝な顔をするコシロ兄に、ええと頷く。
「今までずっと私が我儘を言ってコシロ兄を困らせて来ました。だから今度はコシロ兄が私を困らせてくれていいのです。愚痴でも弱音でも何でも聞きますから、どうぞ安心してお任せください。何でも受け止めますから」
胸に手を置いてそう言ったら、コシロ兄は口を引き結んでヒメコを睨みつけ、向こうを向いて横になってしまった。
「あの?」
おずおずと声をかける。コシロ兄が身じろいだ。
「悪いが今日は余裕がない。離れていてくれ」
言われたけれど、その身から立ち昇る暗い陰が気になる。
「あの、お加減が悪いのでは?」
その肩に触れる。
途端、コシロ兄が身を起こした。
「離れていろと言ったろう」
「でもお具合が悪そうなので」
熱をはかろうと伸ばした手が払われ、逆の腕を掴まれる。
あ、と思った時には押し倒されて口を塞がれていた。
熱の塊のような凄まじい気がヒメコを包む。肌を啄まれ吸われた時、ヒメコは噛み殺されるかと思った。その手は冷たく堅い。ヒメコを拒否するようにその目はヒメコを見ない。でもヒメコは戸惑いながらも受け入れようと目を閉じた。だがその瞬間、コシロ兄は身を離して向こうを向いて伏してしまった。
「あの」
声をかけるも返事はない。
ヒメコは部屋の隅に仄かに灯された灯明の明かりを頼りに真上の梁を眺めた。まだ新しい木の香り。どこからか聞こえてくる近隣の屋敷の中の音や外を通る人の声。馬の気配。それらの一つ一つに耳を澄ませているうちにヒメコはいつの間にか眠ってしまっていた。
気付いた時にはコシロ兄の気配は無くなっていた。ヒメコには上掛けが掛けられていた。閉じた蔀戸の隙間から漏れる陽の光。
慌てて身を整えて部屋の外へと飛び出す。
「おはようございます」
フジの笑顔に迎えられ、江間の屋敷を見渡す。
「あ、あの、コシ、いえ、殿は?」
「今しがたお出かけになりました」
ヒメコは追いかけようとして履物を探した。でもフジに腕を掴まれ止められる。
「お方様は今日より暫くはお外にお出になりませんよう」
「え、何故?」
「何故も何もございません」
「でも」
フジの手を外そうとするが、強く押し留められる。
「お方様は昨日江間に入られたばかり。婚儀の直後に外にお顔を出してはなりません」
「見送りたいだけです」
でもフジは頑なに首を横に振った。
「いけません。とにかくこの三日はお姿を晒さぬようお願いいたします」
三日。
結婚した身で軽々しく動いていけないのはわかる。
でも。
果たしてコシロ兄は今日戻って来てくれるのだろうか。
ヒメコはそんな不安を感じて外へと通じる戸の向こうから聞こえる町の人々の賑わいに耳を傾けた。
昨晩のコシロ兄は今まで見たことのないような怖い顔をしていた。体調が悪いのではないか。それとも何か気に触るようなことを言ってしまったのか。思い悩むが外に出ることは出来ない。
早く無事に帰って来て欲しい。そう祈りながら床の木目を目でなぞる。
「母上、おはようございます」
明るい声にハッと振り返れば金剛がきちんと手をついて座っていた。
「あ、おはようございます」
慌てて挨拶を返す。
すると金剛が微笑んだ。
「ございます、はもう付けないでください」
「ごめんなさい。つい癖で」
謝ったら金剛はヒメコの目の前に薄い桃色の花を差し出した。夏用の薄物の着物のように透き通って波打ち広がる花弁。その中央には鮮やかな菜の花色に輝く花芯。たおやかな風情ながら凜とした佇まいに目を奪われる。
「まぁ、なんて綺麗」
「この夏、庭に咲いた葵の花です。もうてっぺんまで咲いてしまったのですが、そのてっぺんの一番綺麗な一輪を母上に」
少し恥ずかしそうに目線を斜め下に泳がせながら、きゅっと口の端を持ち上げ、得意げな顔でヒメコを見上げる金剛。
「ありがとう」
ヒメコは両手を広げて金剛の手ごと薄桃色の葵を受け取る。
萎みかけていた心に日が射したように感じた。
「フジ、取り乱して御免なさいね。ちゃんと大人しくしてますから」
言ったら、フジは優しく微笑んだ。
「お腹が空きましたでしょう。朝餉にしましょうね」
そう言って、膳を運んで来てくれた。
立ち上がろうとしたヒメコだが、身体があちこち痛くて動けない。
「あ、お方様はそのままで。さ、金剛君もどうぞ」
言われ、大人しくその場にて箸を取る。
「御免なさい。明日はきちんと起きますので」
江間の屋敷で朝を迎えるのは初めてのこと。
「殿はいつも朝はお早いの?」
問えば、フジはええと頷いた。
「お戻りにならないことも多かったですし、食事は取らないか、その辺にある物を適当につまむ程度でしたから、目につく所に干し肉や木の実など、すぐ口に出来て携帯も出来るような物を常に用意しておりました。木の実がお好きなので、今朝もそれを手にお出になりましたが、いつもより少ししかお持ちにならなかったので、きっと今日は早めにお戻りになると思いますよ」
「そうなのね」
ぼんやり答えてから思う。自分は普段のコシロ兄の暮らしを殆ど知らない。何を好み、何が苦手で、どんなことに気を遣い、どんな時に喜ぶのか、怒るのか、何も知らない。
その瞬間、
「私を困らせてくれていいので」そう口走ってしまった昨晩の自分を思い出した。
「何てこと」
ヒメコは自分の頬を押さえた。
自分は確かにコシロ兄の妻となった。でもまだ彼のことを殆どと言っていいくらい知らない。なのにあんなことを言ってしまうなんて。
自分の思い上がりと幼さ、至らなさに顔から火が出る思いがする。
コシロ兄が怒って当たり前だ。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。


魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

レベルを上げて通販で殴る~囮にされて落とし穴に落とされたが大幅レベルアップしてざまぁする。危険な封印ダンジョンも俺にかかればちょろいもんさ~
喰寝丸太
ファンタジー
異世界に転移した山田(やまだ) 無二(むに)はポーターの仕事をして早6年。
おっさんになってからも、冒険者になれずくすぶっていた。
ある日、モンスター無限増殖装置を誤って作動させたパーティは無二を囮にして逃げ出す。
落とし穴にも落とされ絶体絶命の無二。
機転を利かせ助かるも、そこはダンジョンボスの扉の前。
覚悟を決めてボスに挑む無二。
通販能力でからくも勝利する。
そして、ダンジョンコアの魔力を吸出し大幅レベルアップ。
アンデッドには聖水代わりに殺菌剤、光魔法代わりに紫外線ライト。
霧のモンスターには掃除機が大活躍。
異世界モンスターを現代製品の通販で殴る快進撃が始まった。
カクヨム、小説家になろう、アルファポリスに掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる