【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第72話 火種

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 御所に戻って以前と変わらぬ日が戻ってきた。ただ、大姫の体調はあまり芳しくなかった。

 そんな頃、牧の方が上洛することとなり、その準備で御所内が慌ただしくなる。丹後局と呼ばれる後白河の院の寵姫の催す法会に参列するのだという。丹後局は建春門院平滋子の乳母子で、建春門院亡き後に後白河の院の寵愛を受けて権勢を増し、平清盛亡き後には後鳥羽帝の即位を院に進言したり中原広元と折衝を繰り返したりした女丈夫とのことだった。牧の方はその縁戚にあたり、京と鎌倉の関係を強化する目的で上洛することになったのだ。それで誰かお付きの女房をとのことで指名されたのがヒメコだった。

 牧の方は本当は阿波局を連れて行きたかったらしいが、阿波局は少し前に待望の男児を出産したばかりだった。それで急遽その役がヒメコに回ってきた。

「姫御前は比企の姫で前右大将の気に入り。美人で見映えがするから京の方々にも恥じずに前に出せるかと指名させて頂きました。是非お願いいたしますわ」


「でも私は鄙者ひなもので都の慣習などに全く通じておりません。言葉もよくわかりませんし、とてもお役には立たないかと」

 何とか断ろうとするが、

「一言も喋らず動かず、ただ私の後ろに控えてニコニコ微笑んでおられればいいので、どうか助けると思って付いて来て下さいませ。義時殿と夫婦になるなら、私たちは縁戚になるではありませんか。ね」

 そう押し切られ、ヒメコは渋々承諾した。そして九月の末、頼朝に持たされた大量のはなむけの品々と共にヒメコは牛車に揺られて京へと向かう。

「何か言われたら、か細い声でへぇ、と返事して頭を軽ぅ下げてじっと動かんでな。目線はけして上げたらあきまへんえ。ひたすら大人しゅう斜め下だけを見つめて目を横に動かさんよう気ぃ付けとぉくれやす」

 ヒメコは、へぇとか細い声で返事をして頭を軽く下げた。

 そうしてその後は言われた通りに一言も喋らず、動く必要がありそうな時には、同道した牧の方の側仕えという年輩の女房の呼吸に合わせて頭を下げ、同じように立ち上がり、後ろに下がって、何とかやり過ごした。

 丹後局は、はきとした声が美しい、聡明そうな女性だった。以前会った静御前や磯禅尼を思い出す。楚々として、おっとり穏やかなように見えて、その実とても芯が強い。京の女性は皆そうなのだろうか。そこで思い出す。祖母も京の出だった。

 それにしても京ではあらゆることが決まった手順で進むようで、身体は全く動かさないのに気ばかり張り詰めた状態が続き、その空気に慣れないヒメコにはひどく疲れる。寺社巡りにも付き合わされ、やっと鎌倉に戻ってこられたのは十一月の中旬だった。

 だがヒメコはまだ牧の方から解放されなかった。十二月の初めに北条時政が椀飯おうばんの役を得たらしく、その準備に駆り出されたのだ。

「先の上洛の首尾が前右大将の御心に大層かなった為に、その褒美で得た役ですもの。貴女の功でもありますから、是非とも場に華を添えて下さいな」

 何もしてないのに。そう思うがヒメコに断れるわけもない。

 その椀飯が無事に済んだと思ったら、今度はアサ姫の具合が悪くなった。

「御台さま、お加減はいかがでしょうか?」

 ご機嫌伺いに上がったら、アサ姫はゆったりと脇息にもたれて座っていた。

「ああ、姫御前。夏からこちら大変だったわね。牧の方はすっかり姫御前が気に入ってしまったようで、大姫が寂しがって拗ねていたわよ。顔を見せてあげてくれる?」

 言ってふわりと微笑むアサ姫。

 その顔を見た途端、ヒメコは気付いてしまった。これは懐妊だ。八幡姫、万寿の君、三幡姫、三人のお子の懐妊を側で見ていたからかも知れない。まだ安定はしていない。だから誰にも言えない。でも間違いないと思った。

 男児か女児か。その答えもヒメコは感じてしまった。男児だ。それもかなり徳の高いお子。

 ヒメコはコクリと唾を呑み込んだ。

 二人の男児。いや、金剛も入れると三人の男児が頼朝には存在するということになる。先に生まれた女房の子も入れると四人。

 ふと、以前にアサ姫が口にしていた言葉が心をよぎる。

「もし武が二つに分かれてしまったら、人々はどちらについていいのか迷ってしまう。迷いは争いを生んでしまう」


 今、頼朝がこの国の武を一つに束ねている。その後継者は正室であるアサ姫の長男の万寿の君。でも、そのアサ姫にもう一人男児が生まれたら?

 それでも後継は万寿の君だろう。頼朝はそのように万寿の君を育てている。

でも。

 ヒメコは先のアサ姫のお腹の中の子の気配に、言いようのない不安を感じて天を見上げた。

 あまりに尊い、菩薩様のような気配。金剛の時に感じた力強さと安心感とは違う、繊細で高貴な気配は、泥の中の蓮のようにこの鎌倉で生きていけるのか。

 ヒメコは掌を合わせて天を見上げて祈った。

 でも案じてもヒメコに出来ることなど限られている。

 ヒメコは一度頭を冷やそうと久々に水干に着替えて中庭に出た。ずっと馬たちの顔を見に行けていなかった。

 新しくなった小御所の厩にて大姫の馬であるユキと茶鷲、その仔馬達は元気に足踏みしていた。

「ユキ、茶鷲、暫く会いに来られなくて御免なさいね。でも元気そうでよかった。仔馬達を少しだけ連れ出してもいい?」

 断って、仔馬二頭を厩の外に出す。

「内庭で少しだけ駆けっこしましょう」

 言って、身体の大きな白の一頭に跨る。八幡姫は白鷺と名付けていた。
「白鷺、鞍を付けてないから、ゆっくりお願いね」

 首筋を撫でれば、白鷺はゆっくりと駆け始めた。その後ろを茶の小柄な一頭が追いかけて来た。ユキが産んだ双子の生き残った仔馬だった。小柄だが負けん気が強く、その後に生まれた白鷺とよく張り合って駆けた。茶栗鼠と名付けられていた。その日も白鷺が大きな身体と長い足で悠々と駆けるのを必死の形相で追いかけてくる。

「茶栗鼠、ゆっくり。脚慣らしよ」

 言うも茶栗鼠は聞かない。白鷺を抜いて得意げに振り返る。でもその前に黒い大きな馬が現れた。

「茶栗鼠、止まって!」

 叫ぶも茶栗鼠は咄嗟に止まれず、黒い大きな馬に体当たりしてしまう。黒い馬は憤って前脚を大きく上げた。その馬上の人物が手綱を強く横に引いて、難なく黒い馬の動きを制する。

「無礼者!何ヤツだ!黒鷹が怪我をしたらどうしてくれる!」

 ヒメコは慌てて馬から下りて茶栗鼠の手綱を取って下げると、黒い馬の馬上の人物に頭を下げた。

「大変申し訳御座いません」

 と、馬上の人物が口を開いた。

「なんだ、姫御前か」

 驚いて顔を上げる。黒い馬に騎馬していたのは万寿の君だった。

 ヒメコはその場に平伏した。

 大変なことをしてしまった。
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