【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第68話 熱

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 ヒメコは混雑の人波を掻き分けて江間の屋敷の裏門へ辿り着く。そこに溜められている水の樽。桶を掴んで水を汲み、自らに数回浴びせ、桶を手にしたまま中へと突入する。

「金剛!」

 叫んで金剛の部屋へと駆け込んだが金剛は居ない。

ヒメコはコシロ兄の部屋へと向かった。

「金剛!」

果たしてそこに金剛はいた。部屋の隅の棚に頭を突っ込んで何かを取り出そうとしている。

「火事だと聞こえなかったの?すぐ逃げないと!」

 言って金剛の腕を掴むが、金剛はそれを振り払おうとする。

「タンポが怯えてこの奥に入ってしまって出て来ないんだ!」

 金剛が頭を突っ込んでいたのは黒くて大きな厨子棚だった。

「火事の騒ぎにタンポが驚いて逃げ出して父上の部屋に入ってしまって、丁度扉が開いていたこの棚の中に逃げ込んでしまったんだ。それきり呼んでも出て来ないし、中は父上の大切な書類や本がいっぱいで私は入れなくて。でもあと少しなんだ。タンポの尻尾は見えてるから。だから」

 でも、その間にも火の気配は近付いてくる。それより何より煙がまわってきて息苦しい。ヒメコは濡れた肩口に口元を寄せて息をした。


「タンポ!」


 金剛がやっとタンポを捕まえて頭を出した。ヒメコは桶を差し出した。

「この中にタンポを!」

それから自らの濡れた右袖を引きちぎると金剛の鼻から下を覆い、自分は左の肩口に鼻と口を当て、静かに息を吸い込み、金剛の耳元で言った。

「煙を吸わぬよう、鼻からゆっくりと静かに息を吸って。では、逃げますよ」

 その時、厨子棚のすぐ横の壁がメラメラと燃え始めた。間に合うだろうか。いや、間に合わせねばならない。

ヒメコは自分の左袖も引きちぎると、自らの顔に巻きつけ、すぅとゆっくり息を吸った。

 立ち上がり、両の足の親指の根本に力を入れて腰を軽く落とす。

「行きますよ」

 左腕で黒い厨子を持ち上げ、それをまだ燃えていない壁に思いっきりぶち当てる。盛大な音を立てて破れた壁。その壁の向こうに落ちる厨子棚。

 ヒメコは左腕に金剛を抱えると、破れた壁の穴を飛び越えて厨子棚を踏んで外へと飛び出した。煙の気配が少しだけ弱まる。でもすぐ脇から火の手が迫ってくる。

「由比へ!由比へと逃げましょう!」

 方々へと声をかけて回る。気付けば、腕に抱えていた筈の金剛が同じように声を張り上げながら、逃げ遅れそうな人の手を取って駆けていた。


 由比の浜は火事から逃れた人で溢れかえっていた。

だが少しして夜が明けてくる。近隣の漁村の人だろうか、小舟でやって来て、水や干し魚を分けてくれる。人々はそれを並んで受け取った。

「金剛君、離れないで下さいね」

 言うも、金剛は突然駆け出して鳥居の方へと向かった。

「金剛君!」

ヒメコが呼んだ時、

「江間の者は何処かにいないか?」

 コシロ兄の声がした。

 鳥居を潜り、金剛の手を引いてコシロ兄が姿を見せる。

良かった。無事だった。ホッと胸を撫で下ろす。

 金剛がこちらを指差すのが見えた。途端、コシロ兄が此方に向かって駆け出した。

「無事だったか」

「はい、コシロ兄もご無事で安堵いたしまし」

言い終わる前に抱き締められていた。

「良かった」

「はい、と返事をするものの、余りに強い力で抱き竦められ、頭がクラクラとする。

「あの、平気ですから。それより苦しい」

 言った瞬間、パッと離される。

「済まない」

「あ、いえ」

 首を横に振るも離れた体の間を寒風が通って行ってひどく寒い。凍える。

 と、コシロ兄が目を吊り上げた。

「お前、何でそんなずぶ濡れで、おまけになんて格好でいるんだ!」

「え?」

 言われて思い出す。両袖を引きちぎったから両腕がもろ出しの状態だった。
 
 コシロ兄は直垂を脱ぐとヒメコに被せる。

「早く腕を通せ!一体何をやらかしたんだ」

そう言われても。

「火事だったんです!仕方ないでしょう!」

言い返したら、コシロ兄は済まん、と謝った。

と、金剛が前に出た。

「父上、申し訳ありません!私が逃げ遅れたのを姫御前が助けてくれたのです。煙を吸わないようにと袖を下さいました。私の不注意のせいです。どうぞ姫御前を責めないでください」

 かばってくれる。

被せられた着物をしっかりと着て気付いた。それは濃い灰色のいつも通りの地味な直垂だった。

「あら、祭りの時はもっと華やかな色の着物をお召しでしたのに」

 そんなどうでもいいことを口にしてしまう。コシロ兄はプイと横を向いた。

「前右大将が、祭りは派手な色で供をしろと仰ったからだ。終わったから着替えたまで。いいからしっかりと着ておけ。ここは冷える」

 ぶっきら棒な口調だけれど、ヒメコに直垂を着せてくれるコシロ兄の手はあたたかくて優しい。その時、海に陽が射してきて風の色が変わる。柔らかになる。

「あったかい」

 呟いたら、聞こえなかったのかコシロ兄が耳を寄せてきた。

「何だ?」

「ずっとこうして貴方のお側に居られたらいいのに」

 コシロ兄の熱に包まれて、その声を聞いて。

 でもその返事を聞けぬままヒメコは意識を失った。
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