112 / 225
第3章 鎌倉の石
第64話 巫女
しおりを挟む
頼朝や御家人衆が鎌倉に戻ってきたのは、その年の暮れも暮れ、師走の二十九日の酉の刻、夜に入る頃だった。
前もって女官らには新しい豪華な着物が与えられ、それを装い、紅を差して華々しく迎えるよう達しがあった。
賑々しく南庭に立ち並んだ男衆に女らはどよめく。
ゆきよりも格段に煌びやかな衣装を纏った男たちがそこにはいたのだ。ヒメコも我が目を疑いながら頼朝の少し後ろに立つコシロ兄を目を凝らして見た。
鮮やかな萌黄の水干。あんな目立つ色を纏った姿など見たことがなかった。居心地悪げに目線を下げていたコシロ兄がふと目を上げた。目線が交わる。その目元がふっと緩んだ気がした。
ヒミカ。
呼ばれて立ち上がりかける。
だが頼朝の声に慌てて元の位置に座り直して頭を下げた。
「皆、此度の上洛、恙なく終えられたこと大儀であった。各々、所領に戻り、善き新年を迎えよ。また、院より賜りし衣装は末代までの家宝と致せ」
頼朝の労いの言葉に男たちは歓声を上げ、続々と南庭を後にしていく。
頼朝は庭に立ち、それらの背中をずっと見送っていた。
男たちがほぼ引き上げ、熱気溢れていた南庭が夜風に冷たくさらされる中、頼朝は縁まで歩いて来て、一番下の段にどっかりと腰を下ろし、あーあと大きく伸びをした。
「ああ、くたびれた。やっと戻ってこられた。やはり鎌倉はいいな」
アサ姫が立ち上がると段を降りて行って頼朝の隣に腰を下ろす。
「あら、生まれ故郷に帰れると、あんなにはしゃいでいらしたくせに」
頼朝は軽く頷いたが、いや、と言って微笑んだ。
「もう私の故郷はここ鎌倉だ。そなたも子らも仲間も皆こちらだからな」
「随分と大所帯になりましたね」
「いや、もっと増やすぞ。私はその内に帝も東国にお呼びするつもりだ。心しておけよ」
不敵に笑う頼朝に、アサ姫ははいはいと返事をして頼朝が脱ぎ捨てた下沓を拾って段の上へと戻って行った。
「小四郎」
不意に頼朝が声をあげ、ヒメコは驚いて顔を上げる。
「お前もくたびれたろう。今日は戻って休め」
頼朝の目線を追ったら、コシロ兄が縁の陰に控えていた。男たちが出て行くのと一緒に外へ出て行ったのを見ていたので、まさか戻っているとは思わなかった。
「いえ、私は今晩はこちらに詰めさせてください」
久しぶりに聞くコシロ兄の低い声に胸が高鳴る。
「今日くらいは休め。今朝は早かったしな。眠いだろう」
「それは御所様こそ」
「いや、私は目が冴えて暫く眠れそうにない。身体はともかく頭が疲れた。お前は上洛の間、ずっと私の側にいた。気も張っていたろう。いいから戻って休め。今日はもう何事もなかろう」
「いえ、こういう日こそ有事に備えるべきかと」
頼朝が笑い出した。
「お前は昔から言い出したら聞かんな。だが、確かにその通りかもしれん。お前の用心深さに私はいつも助けられている。わかった。側にいることを許そう」
言って頼朝は段を登り切ると、着ていた直衣を脱いでアサ姫に向かって放り投げた。
コシロ兄が急いで頼朝に駆け寄って直衣の下に付けていた甲を外す手伝いをする。
「まぁ、着物の下にそれを付けてらしたのですね」
アサ姫は脱ぎ捨てられた直衣を手早く畳むと外された甲を脇にどけ、落ち着いた色の着物を頼朝の肩にかける。
「念の為にな。ああ、これでやっと人心地ついた。小四郎、お前も楽な格好になれ」
言って頼朝はどっかりと胡座をかくが、コシロ兄は黙ったまま固まっている。
「ほれ、下賜された着物を脱いで綺麗に畳んでおけ。家宝にしろと言ったのを忘れたか?」
言われてコシロ兄は渋々一番上の着物は脱いだが、甲は外さずその場に膝をついた。アサ姫が立ち上がってコシロ兄に手を出し、コシロ兄の着物を取るとヒメコに差し出した。
「姫御前、綺麗に畳んでくれる?」
返事をして下がる。着物を布に包んで戻ってみれば、頼朝とコシロ兄は寒い廊の上で碁盤を挟んで向き合っていた。ヒメコは慌てて火鉢を取りに走る。アサ姫が呆れた顔で教えてくれた。
「興奮して眠れないから一、ニ局付き合えって言って始めちゃったのよ。二人とも言い出したら聞かないんだから放っておきましょう」
「はぁ」
放っておこうと言いつつ、頼朝の傍に腰を下ろすアサ姫。ヒメコは慌てて火鉢をもう一つ持ち込んだ。
パチリ、パチリと鳴る石の音。
「寒いな」
「はい」
「だが頭が冴えて心地が良い」
「はい。あ、そこは」
「駄目詰まるか?」
「はい」
「いや、やってみねばわからぬぞ」
「では、どうぞ」
これはかなり長くなりそうだ。ヒメコは温石を幾つか持って来ると二人とアサ姫に手渡した。
「おお、温いな。ヒメコはよく気が利く。初めて会った時はこましゃくれた女童だったが、いつの間にか成長したな」
頼朝がふと言った。
「そろそろ比企尼君との約束を果たさねばならんな」
コシロ兄が石をパチンと置いて顔を上げた。
「佐殿、戦はもう終いですか?」
頼朝はチラとコシロ兄を見て、ああと頷いた。
「終いだ。この国において帝の武は一手に握った」
「では、源氏の巫女はもう不要ですか?」
「神事に巫女は必要だが、源氏の巫女としてのヒメコは役割を全うしてくれた」
「姫御前はもう巫女ではない。そう考えても宜しいですか?」
頼朝はそれには答えずヒメコを見た。
「ヒミカ、お前はどうしたい?」
前もって女官らには新しい豪華な着物が与えられ、それを装い、紅を差して華々しく迎えるよう達しがあった。
賑々しく南庭に立ち並んだ男衆に女らはどよめく。
ゆきよりも格段に煌びやかな衣装を纏った男たちがそこにはいたのだ。ヒメコも我が目を疑いながら頼朝の少し後ろに立つコシロ兄を目を凝らして見た。
鮮やかな萌黄の水干。あんな目立つ色を纏った姿など見たことがなかった。居心地悪げに目線を下げていたコシロ兄がふと目を上げた。目線が交わる。その目元がふっと緩んだ気がした。
ヒミカ。
呼ばれて立ち上がりかける。
だが頼朝の声に慌てて元の位置に座り直して頭を下げた。
「皆、此度の上洛、恙なく終えられたこと大儀であった。各々、所領に戻り、善き新年を迎えよ。また、院より賜りし衣装は末代までの家宝と致せ」
頼朝の労いの言葉に男たちは歓声を上げ、続々と南庭を後にしていく。
頼朝は庭に立ち、それらの背中をずっと見送っていた。
男たちがほぼ引き上げ、熱気溢れていた南庭が夜風に冷たくさらされる中、頼朝は縁まで歩いて来て、一番下の段にどっかりと腰を下ろし、あーあと大きく伸びをした。
「ああ、くたびれた。やっと戻ってこられた。やはり鎌倉はいいな」
アサ姫が立ち上がると段を降りて行って頼朝の隣に腰を下ろす。
「あら、生まれ故郷に帰れると、あんなにはしゃいでいらしたくせに」
頼朝は軽く頷いたが、いや、と言って微笑んだ。
「もう私の故郷はここ鎌倉だ。そなたも子らも仲間も皆こちらだからな」
「随分と大所帯になりましたね」
「いや、もっと増やすぞ。私はその内に帝も東国にお呼びするつもりだ。心しておけよ」
不敵に笑う頼朝に、アサ姫ははいはいと返事をして頼朝が脱ぎ捨てた下沓を拾って段の上へと戻って行った。
「小四郎」
不意に頼朝が声をあげ、ヒメコは驚いて顔を上げる。
「お前もくたびれたろう。今日は戻って休め」
頼朝の目線を追ったら、コシロ兄が縁の陰に控えていた。男たちが出て行くのと一緒に外へ出て行ったのを見ていたので、まさか戻っているとは思わなかった。
「いえ、私は今晩はこちらに詰めさせてください」
久しぶりに聞くコシロ兄の低い声に胸が高鳴る。
「今日くらいは休め。今朝は早かったしな。眠いだろう」
「それは御所様こそ」
「いや、私は目が冴えて暫く眠れそうにない。身体はともかく頭が疲れた。お前は上洛の間、ずっと私の側にいた。気も張っていたろう。いいから戻って休め。今日はもう何事もなかろう」
「いえ、こういう日こそ有事に備えるべきかと」
頼朝が笑い出した。
「お前は昔から言い出したら聞かんな。だが、確かにその通りかもしれん。お前の用心深さに私はいつも助けられている。わかった。側にいることを許そう」
言って頼朝は段を登り切ると、着ていた直衣を脱いでアサ姫に向かって放り投げた。
コシロ兄が急いで頼朝に駆け寄って直衣の下に付けていた甲を外す手伝いをする。
「まぁ、着物の下にそれを付けてらしたのですね」
アサ姫は脱ぎ捨てられた直衣を手早く畳むと外された甲を脇にどけ、落ち着いた色の着物を頼朝の肩にかける。
「念の為にな。ああ、これでやっと人心地ついた。小四郎、お前も楽な格好になれ」
言って頼朝はどっかりと胡座をかくが、コシロ兄は黙ったまま固まっている。
「ほれ、下賜された着物を脱いで綺麗に畳んでおけ。家宝にしろと言ったのを忘れたか?」
言われてコシロ兄は渋々一番上の着物は脱いだが、甲は外さずその場に膝をついた。アサ姫が立ち上がってコシロ兄に手を出し、コシロ兄の着物を取るとヒメコに差し出した。
「姫御前、綺麗に畳んでくれる?」
返事をして下がる。着物を布に包んで戻ってみれば、頼朝とコシロ兄は寒い廊の上で碁盤を挟んで向き合っていた。ヒメコは慌てて火鉢を取りに走る。アサ姫が呆れた顔で教えてくれた。
「興奮して眠れないから一、ニ局付き合えって言って始めちゃったのよ。二人とも言い出したら聞かないんだから放っておきましょう」
「はぁ」
放っておこうと言いつつ、頼朝の傍に腰を下ろすアサ姫。ヒメコは慌てて火鉢をもう一つ持ち込んだ。
パチリ、パチリと鳴る石の音。
「寒いな」
「はい」
「だが頭が冴えて心地が良い」
「はい。あ、そこは」
「駄目詰まるか?」
「はい」
「いや、やってみねばわからぬぞ」
「では、どうぞ」
これはかなり長くなりそうだ。ヒメコは温石を幾つか持って来ると二人とアサ姫に手渡した。
「おお、温いな。ヒメコはよく気が利く。初めて会った時はこましゃくれた女童だったが、いつの間にか成長したな」
頼朝がふと言った。
「そろそろ比企尼君との約束を果たさねばならんな」
コシロ兄が石をパチンと置いて顔を上げた。
「佐殿、戦はもう終いですか?」
頼朝はチラとコシロ兄を見て、ああと頷いた。
「終いだ。この国において帝の武は一手に握った」
「では、源氏の巫女はもう不要ですか?」
「神事に巫女は必要だが、源氏の巫女としてのヒメコは役割を全うしてくれた」
「姫御前はもう巫女ではない。そう考えても宜しいですか?」
頼朝はそれには答えずヒメコを見た。
「ヒミカ、お前はどうしたい?」
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

金蝶の武者
ポテ吉
歴史・時代
時は天正十八年。
関東に覇を唱えた小田原北条氏は、関白豊臣秀吉により滅亡した。
小田原征伐に参陣していない常陸国府中大掾氏は、領地没収の危機になった。
御家存続のため、選ばれたのは当主大掾清幹の従弟三村春虎である。
「おんつぁま。いくらなんでもそったらこと、むりだっぺよ」
春虎は嘆いた。
金の揚羽の前立ての武者の奮戦記 ──
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。


魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
梅すだれ
木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。
登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。
時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる