【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第52話 江間の殿

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 七月一日、鶴岡八幡宮で臨時の放生会が行なわれ、追って、駿河の富士の帝釈院に田地が寄進される。コシロ兄が現地に赴き、それを全て取り計らうことなり、ヒメコは巫女として神官の住吉らと共に同道した。

「これから行く所は院の領だそうだ。富士のお山の特に大切な霊域と言われた」

 並んで馬を走らせながらそう教わる。

「確かにとても大きな何かの力を感じます」

 ヒメコがそう言ったらコシロ兄はあからさまに嫌な顔をした。ヒメコが首を傾げたら

「今回は奥州平定の為の祈願の奉幣ほうへい。頼むからじっとしていてくれ」

 そう言われる。ヒメコは少しばかり機嫌を損ねたが、確かに奥州平定がならないと頼朝の戦は終わらないし、ヒメコもコシロ兄に望まれない。その場の神々しい空気にひどく心惹かれながらもヒメコは見ない振り、感じない振りをして時を過ごし、寄進は滞りなく済んだ。

 帰途、コシロ兄が三嶋大社に立ち寄る。面々で並んで改めて奥州平定の祈願をした。

「懐かしいですな。御所様が挙兵してより、もう八年ですか。北条の様子はお変わりないですかな」

 住吉の言葉にコシロ兄は軽く頷いた。

「父が北条の土地の北側に奥州平定祈願の為に御堂を建てている最中で今は多少煩いようですが、それ以外は全く変わっておりません。今宵は江間で休めるよう手筈を整えておりますので、手狭ですがどうぞお寛ぎください」

 案内され、北条の隣の江間の館に通される。ヒメコは初めての江間の館。質素でこじんまりとして、でも綺麗に磨かれた居心地の良い館だった。

 厩に馬を預けに寄ったら、あ、と馬番に声を上げられた。驚いて見返す。馬番は慌てて頭を下げた。

「失礼いたしました。殿、お帰りなさいませ」

 コシロ兄は自分の乗っていた馬の手綱を馬番に渡すとヒメコに向き直った。

「覚えてないか? シンペイだ。北条で見張りをしていたが、今は江間で働いてくれている」

「シンペイ?あ、もしかして見張り台の上に居た木登りの得意な子?」

 山木攻めの時に頼朝の命で高い木に登り、火が点くのを待ちながらうたた寝していた子。

「まぁ、驚きました」

 背が伸び、体も倍くらい大きくなっている。もうあれから八年も経つのだから当たり前なのだけれど、自分はそれに見合うだけ成長出来ているのかと思ってしまう。

「お方様の荷物はお部屋の方に運んでおきます」

 そう声をかけられ、慌てて手を振る。

「お方様?い、いえ私はまだお方様ではありません!」

つい大きな声を上げてしまってコシロ兄に睨まれる。

 住吉がこっそり笑っているのが見えて恥ずかしさに顔が真っ赤に染まる。適当にやり過ごせば良かったのかもしれない。

「失礼いたしました。てっきりそうかと思って」

頭を下げるシンペイに首をブンブン振ってコシロ兄と住吉の後について行く。

「すぐ近くに古奈の湯がありますので、宜しければ案内させましょう」

「ああ、いいですね」

「古奈の湯?」

「菖蒲御前ご出身の美人の湯とか。楽しみですな」

「へえ、美人の湯。いいですね」

 いいなぁと呟いた途端、コシロ兄が咳払いをする。住吉が口を開いた。

「姫御前は結婚後にご夫君といらっしゃると良い」

「え?」

「混浴ですから」

あ、そうか。ヒメコは今度は青くなってコシロ兄を見た。コシロ兄は向こうを向いていた。

 ヒメコはもうひたすら黙って大人しくしていようと思った。

「殿、お帰りなさいませ」

屋敷の前で頭を下げた青年にもどこか見覚えがある。どこでだっけ?そんなヒメコに気付いたのか、その青年が頭を下げて名乗ってくれた。

「河越次郎です」

 言われて比企の祖母の所で会ったのを思い出す。

「元服し、河越重時と名乗っております。今は江間の土地の警護に就いております」

「重時?」


 ふと、その名に仄かな温かみを感じたが、一瞬にして消えた。

 わからない。似た名前はある。河越氏の重の字にコシロ兄から時の字を貰ったのだろう。ヒメコは江間の屋敷の中に入り、奥の部屋へと通された。

 江間の空気は北条の空気と同じ。懐かしい山の匂い。

 夕餉の支度がされているのだろう。温かな汁の香りが漂ってくる。

「何か変わったことはなかったか?」

「はい、北条の大殿が御堂を建てられておられるので人や物の出入りは激しいですが、その分往来も賑やかになり、おかげで村も働き口が増えて潤っております」

 コシロ兄が頷く。と、河越次郎が、あの、と言い難そうに言葉を継いだ。

「奥州に赴かれるとか。私もお供に加えてお連れ頂けませんか?」

 コシロ兄は黙って暫く次郎を見たが、いや、と首を横に振った。

「今回は遠出になる。鎌倉に今居る者だけを連れて行くつもりだ。お前はここで江間を守ってくれ。近く、供として連れて行けるようになろう。それまで江間を頼む」

 次郎は返事をして下がった。

そうか。コシロ兄はここ江間の殿なんだと改めて思う。近くそびえる山々。流れる川の音。賑やかな蝉の声。鎌倉とは違う伊豆の空気。

 幼い頃を思い出し、感慨に浸りながらゆっくり過ごそうと思うも、慣れない遠出でくたびれ果てていたヒメコは夕餉を頂いたらすぐに寝入ってしまった。

「いたいの、いたいの、とんでけ」

誰かが歌ってる。可愛い声。

「いたいの、いたいの、とんでけ」

誰だろう?
聞いたことがあるような、ないような。

ジージージー。
けたたましい蝉の声に目覚めたら陽は既に昇っていた。慌てて身支度をして広間に顔を出す。

 折角コシロ兄の館に立ち寄れたのだから朝は早起きして散歩をと思っていたのに殆ど見ることが出来ずに鎌倉に戻ることになりそうだった。

「そんなに慌てなくても平気だ。奉幣は無事済んだ。戻りはゆっくりで構わない」

 ヒメコは頷いた。馬での長時間移動は不慣れなせいか腿や腰が痛んできつい。

「少しだけ歩いて来てもいいですか?」

 江間は狩野川のすぐ脇。ここから南に行くとすくに頼朝が住んでいた蛭ヶ小島がある。そして廣田神社と三島大社も。

 昔、コシロ兄が立っていた辺りはここだろうか。少し高台になった土手の上に立って北条の方を眺める。新築中の御堂らしきものの棟が綺麗に組まれていた。

「何を見てる?」

 声をかけられ振り返れば、コシロ兄だった。懐かしいなと思って、と答えれば、コシロ兄の目元が軽く緩んだ。

「川にはもう入るなよ」

からかいを含んだ声に少し気が大きくなる。

「でも、また助けて下さるでしょう?」

 笑ってそう言えば、手を取られた。

「俺を早死にさせる気か」


 そう言ってヒメコを抱え上げる。

「こんなに重くなったんじゃ、そうそう抱えられるもんか」

 でも抱き上げてくれる。変わらない。ううん、優しい。怖いくらいに幸せを感じる。このままずっと——。

青々とした不ニのお山の頂を眺めながらヒメコは願った。

 この江間の土地で貴方と一緒に。




 
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