【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第51話 触れていいか?

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 義経の首実検は和田義盛と梶原景時が行なったが、やはり焼け焦げてよくは分からなかったらしい。

「偽物なのではないかと言われてるわ。いよいよ奥州への出兵が始まるわね」

 阿波局の言葉に、やはりと思う。

 翌月、京の後白河院からは『義経が死んだのならもう剣は鞘に収めよ』という返事が来たが、頼朝は奥州への出兵を止めるつもりはなかった。

「義経殿が居なくなって、院も戦を止めよと仰ってるのですから、わざわざ出兵しなくても良いのではありませんか?」

 アサ姫の言葉に頼朝はいいやと首を横に振った。

 既に鎌倉には御家人らが群集して奥州への出陣はいつかと頼朝の下知を待っていた。

「あの大天狗は勢力の拮抗するものをぶつけ合わせて双方の力を削ぎ、全てを自らの思い通りに動かそうとしているのだ。そうやって私の父、源義朝と平清盛も戦わされた。そうそう同じ手に引っかかってたまるものか」

 大天狗、後白河の院のことらしい。

 頼朝は院に礼と忠義を尽くしつつも油断なく対峙していた。まるで蛇と蛙のようだと思う。互いに相手を睨み合って譲らない。

 やがて泰衡が弟忠衡を殺したという噂が入ってきた。

「さて、今度はなんでしょうな。内乱でしょうか」

「泰衡曰く、忠衡が義経に与していた為とのことだが、兄弟でどちらが上に立つか争って泰衡が勝ったということだろう。また、これで奥州は院宣に従ったのだから奥州を攻めさせないよう鎌倉に伝えろと院に働きかけるのだろう」

「では奥州征伐の院宣は出されないでしょうな。どうしましょうか?」

 広元の問いに答えたのは大庭景義だった。

「『史記』に言います。『軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず』。そもそも秀衡は先祖代々からの御家人の家を継ぐ者。戦時下の部下の処罰に何の問題がありましょうか」

 景義は石橋山で弟と縁を切り、頼朝に味方した心強い重臣。頼朝は景義の言葉に頷くと早速奥州征伐の詳細を詰め始めた。

「まず兵糧だが、上野下野の年貢で賄い、庶民らや国郡にはけして負担をかけぬよう。道中での横暴狼藉は厳罰に処す。また合戦の際には互いに名乗りを上げ、常にそれを記させよ。功を焦ることなく、自らの武勲で手柄を上げよ。敵に対しても礼を忘れず規律正しく動け」

 頼朝の軍はもう荒くれ集団ではなく、統制の取れた大武士団になろうとしていた。

 兵は東海道、北陸道、中路の三つに大別され、途中の諸氏を引き連れて大軍となって平泉を目指すこととなった。

「え、重隆も出陣するの?」

 近く出陣するコシロ兄の見送りにと江間邸に赴いたヒメコと八幡姫は、驚いて顔を見合わせる。望月重隆は今回から御家人としての参戦を許されたというのだ。

「では幸氏も?」

問うた八幡姫に幸氏は首を横に振った。

「いいえ、残念ながら今回は私は留守居を命じられました。代わりに鶴岡八幡宮で催される祭りで流鏑馬の役を務め、奥州征伐が叶うよう励めと」

八幡姫が重隆に微笑む。

「そう。御家人になったのね。おめでとう、と言っていいのかしら」

 重隆は、ええと頷いて

「私は堅苦しいのは苦手なので、戦さ場で伸び伸び戦ってきますよ」

 八幡姫は笑って言った。

「あーあ、どうして男の人ってそう争うのが好きなのかしらね。残される女の気持ちを思いやって欲しいものだわ。ね、姫御前?」

 いきなり話を振られる。

「あ、そう言えば今回、五郎君、いえ時連殿が初陣とか。重隆殿、どうぞよろしくお願いいたします」

 ヒメコが頭を下げると重隆は強く頷いて

「江間殿がお側にいらっしゃるので私などは何も出来ませんが、初陣はどうしても緊張するもの。なるべくお近くにてお守り出来るよう努めますのでご安心くださいませ」

ヒメコは重ねて頭を下げた。

「ご武運をお祈りしております」

 八幡姫と共に江間邸を出た直後、問われた。

「ヒメコは小四郎叔父さまにはご挨拶しなくて良かったの?」

「え、ご挨拶?」

「ええ。だって戦に行くのよ。二度と会えないもしれないじゃない。ヒメコは小四郎叔父様のことを好きなのでしょう?」

 からかうでも当て擦るでもなく淡々と問われ、ヒメコは素直に頷いた。

「ええ」

「なら、ちゃんと言った方がいいのではない?」

言う?

 ヒメコは困惑して八幡姫を見つめた。

言う、とは想いを伝えるということだろうか。


「でも江間様には北の方がおいでです。金剛君のこともありますし、私はたまにお姿を見られればそれで幸せなので特に何か言うつもりはありませんが」

 そう答えたら八幡姫は大きなため息をついた。

「ヒメコ、私は貴女のそういう所が大嫌い」

真っ直ぐな言葉が胸に突き刺さる。八幡姫は続けた。

「何よ、いつも澄まして何でも分かってますみたいな余裕のある顔しちゃって。見てるだけでいいなんて嘘よ。事を起こそうという気概がないのを誤魔化してるだけ。一緒に居られる時なんてとても短いのよ。いつもそこに居ると思ったってそうとは限らないんだから」

 そう言い放つと八幡姫は行ってしまった。

——気概がない。

 言われた言葉に、そんなことない、とは返せなかった。



 

 言われた通りかもしれない。幼い頃からの想いと近頃感じた仄かな期待。でも、拒絶されたら、困った顔をされたらと足が竦んでいるのも知れない。この、ほんの少しだけ期待を抱かせて貰った状態で居たいだけなのかも。

 

 勢いだけで求婚した幼い自分。コシロ兄でないと帰らないと駄々を捏ねた自分は遠い日で。あの時のような純粋さも勇気も今の自分には無くて、仄かな期待まで消えてしまったら、幼い頃からの自分が全て無くなってしまいそうで怖かったのかも知れない。


——どうしたい?

 改めて自分の胸に手を置いて聞いてみる。


——私はどうしたい?

胸を震わせる落ち着いた低い声。ちらと投げかけられる視線。ごくたまに和らげられる口元。

 彼の側に居たい。コシロ兄の側に。その声を聞いて、笑顔を見て、

そして、触れたい。触れられたい。熱を感じたい。あの人の。

「一緒に居られる時なんて、とても短いのよ。いつもそこに居ると思ったってそうとは限らないんだから」

 先の八幡姫の言葉を思い出す。

 彼女は義高とのことを思い出して言ったのだろう。言ってくれたのだ。同じ辛い目に遭わないようにときっと祈りながら。

 八幡姫を追いかけなくては。そして言わなくては。


「どうした?」

 駆け出そうとした瞬間に声をかけられ、ヒメコはハッと顔を上げた。

 コシロ兄だった。

——今の会話、聞かれてた?

 カッと頭に血がのぼる。コシロ兄は御所の方に目を向けてから、また真っ直ぐヒメコを見た。

「大姫君が急いで駆けて行かれたが、何かあったのか?」

 ヒメコはホッと息を吐いた後、いいえと首を横に振った。

「私が至らなかったのです。すぐ追いかけてお詫びします」

 それから、一呼吸置いて続ける。

それと御礼と」

「御礼?」

ヒメコは頷くと胸元から小さな守袋を取り出した。握りしめてコシロ兄の前に立つ。顎を上げて真っ直ぐコシロ兄を見上げる。あの日の勇気を思い出させてくれた八幡姫に感謝を込めて。

「私、ヒミカは江間様をお慕いしております。どうかご無事で奥州からお戻りくださいますよう」

ご武運を、とは言わなかった。帰って来て欲しい。無事で帰って来てくれればそれだけでいい。

 握りしめていた守袋を差し出す。


 だがコシロ兄は一瞬出しかけた手を止めて戻そうとした。

 ヒメコも止まる。やはり困らせてしまった?
ゆっくり息を吸う。吐く。

 仕方ない。それでも気持ちは伝えられた。今の自分で伝えられた。これで届かなかったらそれはそれまで。父母の薦める縁談を受けるのもいい。出来るだけのことはしたのだ。

ややして低い声に問われる。

「触れて、いいか?」

一瞬何を言われたのか理解出来なくて顔を上げる。

 低い声が繰り返した。

「触れていいか?」



 守袋を前に差し出したまま黙って頷く。

 差し出した手両手の指先がコシロ兄にぶつかった。そう思った次の瞬間、ヒメコは強く抱き締められていた。

「奥州から戻ったら御所様に願う。源氏の巫女が欲しいと」

 耳元で聞こえる低い声。胸に伝わるコシロ兄の鼓動と熱。

 ヒメコは守袋を握りしめながらコシロ兄の息遣いを感じていた。

 比企と北条を、比企と鎌倉を馬に乗せられ駆けた。感じた温もりと落ち着いた息遣い。それが今、熱となってヒメコを包んでいた。
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