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第3章 鎌倉の石
第50話 禊ぎ
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この文箱は常にここにあった。ヒメコは毎日八幡姫の部屋を祓い清めていたから、この文箱だって常に持ち上げ移動させていた。でもこんな黒い影の気配を感じたことは今までなかった。
ヒメコは黒石に目を落とした。八幡姫は義高が居なくなってからずっと、この黒石を何度も握り、撫でては涙を零していたのだろう。黒石はツヤツヤと滑らかに光って涙のように寂しげだった。
物は物だ。そこに感情があるわけでない。ただ、八幡姫はずっとこの石を握っては嘆き悲しみ、恨みの感情すら抱いていたかもしれない。負の感情は別の負の感情を引き寄せる。初めは小さな痼くらいだった悲しみの粒は時を重ねるに連れて周りの小さな妬みや哀しみ、怒りなどの感情も引き寄せて徐々に大きな瘤のように膨らんでいく。そして更に大きな負の感情はないかと探し出す。鎌倉の近くにやってきた、誰か知らない、殺された者の恨みなどの負の感情はもっと大きくなろうとして、近く鎌倉の中にあった負の感情を見付けたのだ。大姫のこの黒石を。
「見ないで!」
八幡姫が駆け寄ってヒメコを突き倒した。
文箱の蓋が跳ね飛ぷ。八幡姫は小さな黒石を摘み上げるとヒメコを睨んだ。
ヒメコは深く詫びた。
「勝手に蓋を開けてしまい申し訳ございません」
「これは義高様の黒石よ。私の大切な物。いくらヒメコでも触らせないわ!」
平伏して謝罪の言葉を繰り返す。
と、八幡姫が突然悲鳴を上げて倒れた。
「痛い、痛い、痛いわ!」
黒石を握り締める手から立ち昇る焔の影。ヒメコは八幡姫に駆け寄ると胸元から守り袋を取り出して、その中身を八幡姫の手に振りかけた。
シャラシャラと煌くさざれ石。
八幡姫は倒れ伏しながら目の前に煌めき落ちるさざれ石を眺めていたが、ややして泣き出した。
「あぁん、あぁん、あぁん、あぁぁぁぁ!」
幼子のように泣き声を上げて手足をジタバタさせる八幡姫。
騒ぎを聞きつけたアサ姫が飛んで来た。抱いていた三幡姫を侍女に預けると八幡姫を抱き締める。
八幡姫は暴れてもがいたがアサ姫は離さなかった。
暫くして八幡姫の泣き声は蛙の鳴き声に紛れるくらい小さくなった。
啜り泣く八幡姫を抱き締めながらアサ姫は唄を歌った。優しい子守唄。泣き疲れた八幡姫が眠りにつくまでアサ姫は歌い続けた。
翌朝、八幡姫がヒメコの元にやって来て黒石を差し出した。端の方が欠けていた。
「昨晩、義高様が夢にお出で下さったの。初めてのことよ。笑ってらした。私も嬉しくて笑ったの。それで朝目覚めたら黒石が割れてた。でも、もういいんだとわかったわ。だからこれを手放したいのだけれど、どうしたらいいのかしら?」
ヒメコは微笑んで頷いた。
「大姫様は禊をなされたのですね」
「みそぎ?みそぎって何?祓とは違うの?」
ヒメコは頷いた。
「祓は身に降り積もった埃のような穢れを払って落とすこと。禊は身を削ぐとも書きます。言葉の通り、身を削いで身の内に溜まってしまったものを削ぎ落とすことです。姫さまは昨晩、沢山お泣きになって身を削ぎ落として清らになられたので、義高殿も安心されたのでしょう。きっとこれからは姫さまがお会いしたいと思った時にいつでも会いに来て下さいますよ」
八幡姫が怪訝な顔をする。ヒメコは続けた。
「比企尼を覚えておいでですか?私の巫女の師匠で祖母ですが、その尼が前に言っておりました。死は怖くない。眠りと同じだ。だからそこでは何でも出来る。もうこの世にはいない人に会えたり、遠くまで飛んで行けたり。生身の身体だと出来ないことが出来るのだと」
「生身の身体?」
「はい。人は生きている間、生身の身体、つまり肉体に魂を留めています。人が亡くなるというのはその容れ物である肉体が失われること。でも魂は死なずにずっと生きているのです」
八幡姫はよくわからないという顔をした。
「容れ物を失った魂は天に呼ばれればすぐ天に還ります。でも心残りがあると還れずに漂います。そうして所縁ある物に入り込んでそこから呼びかけるのです。平気?安心して。自分は平気だから元気を取り戻して、と」
八幡姫は首を横に振った。
「でも、今までどんなに会いたいと願っても夢に現れてくださらなかったわ」
「でも昨夜は現れて下さった。それは姫さまが沢山お泣きになって禊ぎをされて義高殿とお会い出来るご準備が整ったからですわ」
「準備って禊ぎ?泣いたこと?」
「ええ、姫さまは溜め込まれていた感情を吐き出された。それが宜しかったのでしょう」
義高様はいつも側にいてくれているの?」
「いいえ。いつも側にいらっしゃるわけではありません。昨晩は実は姫さまの方が体をこっそり抜け出して魂だけになって、あの世の義高殿に会いに行かれたのですよ」
「私が?死んだということ?」
胸を押さえる八幡姫に、いいえと首を横に振る。
「眠りの間、人は魂が半分だけ抜けて好きな所にゆけるのです。ただ、悲しみや恨みなどの負の感情を持っていると同じような負の感情を持つモノとしか会えません。昨日姫さまは泣き疲れて空っぽになって眠られた。お母君の唄を聴きながら赤子に戻って眠られた。だから真っ白な状態で義高様とお会い出来たのではないでしょうか」
「では、これからは眠ればいつでも義高様にお会い出来るの?」
ヒメコは微笑んだ。
「ええ。姫さまが悲しみに包まれながらではなく、幸せな気持ちで義高様にお会いしたいと望まれた時にはきっと」
「そうなの?それは、なかなか難しそうね」
素直な言葉にヒメコは頷く。
「はい。幸せな気持ちになれと言われても人は負の感情の方が思い浮かべやすいもの。ふと思い出してしまうのは、その日あったちょっとした失敗や不満、憤りや不安。でも幸せな気持ちで眠れる簡単な方法が一つあります。こうするのです」
言って、ヒメコは両手の人差し指を立てて自らの両頰をムニーと上に持ち上げた。
八幡姫はキョトンとした顔でヒメコを見た後に噴き出した。
「嫌だ、変な顔してるわよ」
笑う八幡姫にヒメコは指から少しだけ力を抜いて微笑んだ。
「そう、笑顔をつくるのです。両頰を持ち上げて。心と体は繋がっているので、体が笑うと心も笑います。すると最初は無理矢理な笑顔が、気付いたら本物の笑顔になるのです。そうやって眠れば幸せな気持ちで眠れますよ」
「作り笑いでもいいの?」
ええ、と頷いてからヒメコは手を差し出して八幡姫が持って来た欠けた黒石を紙の上に受け取って包んだ。
「物はお役目を終えると壊れます。壊れた物は今まで一緒に居てくれたことへの感謝の気持ちを込めて手放してあげるとまた新しくなって姫さまの元にやって来てくれますよ」
二人、黒石に掌を合わせ、礼をする。
「これは御台様にお願いして、丁寧に供養して頂きましょうね」
八幡姫は素直に頷いた。ヒメコはホッと息を吐いた。
八幡姫はもう大丈夫だ。元々弱い体。体調により心が揺らされ、ぶり返すことはあるだろうが、その名の通り強い姫。きっと自身と闘いながら生きてくれる。そう思った。
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