93 / 225
第3章 鎌倉の石
第45話 浩然の気
しおりを挟む
と、庭から声がかかった。
「金剛、小弓で勝負よ」
八幡姫だった。
「私に勝てたら、前に美味しいと言っていた菓子を、またくすねて来てあげるわよ」
「わぁい、勝つぞー!」
金剛は叫んで庭に飛び降りた。
八幡姫はヒメコを見て軽く頷いた。ヒメコは頭を下げた。
「ところで、姫御前は何を書いたの?」
勝負がついて少しして部屋に戻れば、金剛がヒメコに手を差し出す。
何のことだろうと首を傾げたら、金剛はヒメコの胸元を指差した。
「何か書いた物を持ってるでしよ?何が書いてあるの?」
言われて思い出し、胸元から先程アサ姫に貰った「大丈夫」と書かれた紙を取り出す。
「オオマスラオという言葉だそうです」
「オオマスラオ?」
「はい、立派な男の人という意味です」
金剛がへえ、と目を輝かせる。続きを語ろうとして、ヒメコは言葉に詰まった。
あれ?立派な人というだけではなくて、もっと含蓄のある言葉だった筈。なのに色々ある内にうっかり忘れてしまった。ヒメコは懸命に思い出そうとする。
「え、えー、孟子が言ったそうです。本来、人は皆善人だと。でもたまに悪事を働いてしまうのは、その本性を忘れてしまうからで、そうならない為に常に学んで努力しなさいと」
「何を学んで努力すればいいの?」
「え?」
アサ姫は何て言ったっけ?
「え、えーと、えーと、四徳がどうのこうの」
「どうのこうの?」
「は、はい。仁義礼智の四つの徳が備わるとコウゲンの気が備わって」
と、プッと噴き出す声が聞こえた。続いて人の気配。
「金剛にいい加減なことを教えるな」
コシロ兄だった。
「父上、お帰りなさいませ」
金剛がきちんと手をついて挨拶をする。ヒメコも慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。御台さまに教えて頂いたのですが忘れてしまって」
コシロ兄は金剛の前に腰を下ろすと口を開いた。
「学ぶものは何でもいい。いや、周りの全てから学べ。どんな些細なことでも身近なことでも、興味を持ったらそれに真摯に向き合って真似べ。この世の全てがお前の師であり友であり仲間だ。
全てから学び、学んだことや感じたことを心と体に叩き込み、それをお前に与えてくれた相手に感謝をし、頂いた恩に報いる為に何か出来ることはないかと探す努力をしろ。
そうしていくうちに、惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの徳が身についてくる。それらを常に怠らずに実践していくと浩然の気が備わる。浩然の気とは、自らの行動を省みた時にその行いが常に正しいと確信していれば自ずと出てくる自信のことだ。勇気とも言える。勇気を持っていれば何事が起きようとも動じない立派な男となれる。そんな一人前の男のことを大丈夫というのだ」
「へえ」
ヒメコと金剛の声が重なった。コシロ兄がヒメコを睨む。
「人に教える時にはせめて復習をしてからにしろ」
ヒメコは身を縮めた。
「ごめんなさい」
八幡姫が笑い出した。
「姫御前ったら、権威無双の女房の名が泣くわよ」
「権威無双の女房?それ何ですか?」
ヒメコが問うたら八幡姫はニヤッと笑った。
「姫御前は当代権威無双の女房なりって二つ名が御所では付いてるわよ」
「権威無双?そんな馬鹿な。それもそんな大層な名前」
一体何でそんなことに。悪口を言われるのは別にいいけど、権威無双だなんて。でも、そう思われるようなことをしてしまっているんだろうか。そこまで出過ぎた真似をしてるのだろうか。
ハァ、とため息をつく。
御所に帰りたくない。そう思ってしまった時、
「名など何とでも言わせておけばいい」
低い声がして顔を上げる。
「浩然の気を養う訓練と思え。そうすればお前も立派なマスラオになれる」
コシロ兄がヒメコを見ていた。
もしかして慰めて励ましてくれているのだろうか?
はい、と頷きかけてハタと気付く。オオマスラオ?
「わ、私は女です。マスラオにはなれません!」
言い返したらコシロ兄の頰が緩んだ。
「いいんじゃないか?高原の涼しい気を養うのなら女のお前に打ってつけだろう」
え、もしかして、からかわれてる?
驚いてまじまじとコシロ兄を見つめてしまう。
ヒメコを見るその目は優しかった。胸がドキリと大きく高鳴る。
もっと見たいな。
コシロ兄の笑顔がもっと見たい。
今なら、もう少し話せるだろうか?その声が聞けるだろうか?笑って貰えるたろうか?
「あの」
勇気を出して話しかけた時だった。
「姫御前、帰るわよ」
八幡姫に引っ張られた。
後ろ髪を引かれる思いで振り返る。コシロ兄は此方を見たままだった。何も言えず、小さく頭を下げる。コシロ兄がそっと目を落とすのが見えた。
あーあ、と思う間もなく、小道に出るなり八幡姫がヒメコの顔を覗き込んできた。
「ヒメコ、金剛が言ってたスケドノのことについて聞きたいんだけど」
あ、忘れてた。
「そ、それは、あの」
ヒメコは目を彷徨わせた。
それはヒメコが漏らしていい話ではない。困って御所の方を見たら、八幡姫はじっとヒメコを見て問うた。
「母は、御台所は知ってるの?」
ヒメコは少しホッとした。
それなら答えられる。黙って頷いた。
すると八幡姫は、ならいいわ、と言って先に駆け去ってしまった。
「あ、大姫さま」
ヒメコは慌ててその後を追う。権威無双だなんて言われてると知って一人で御所に戻る勇気はない。でも八幡姫と一緒なら。姫の陰に隠れ、コソコソと入ろうとして思い出す。
「浩然の気を養う訓練だと思えばいい」
訓練。
ヒメコはクッと顔を上げると御所へと足を踏み入れた。呪文のように唱える。
「コウゼンノキ、コウゼンノキ、コウゲンノキ、あ、いや、コウゼンノキ」
言い間違いを正してからヒメコは自分で噴き出してしまった。
やだ、本当だ。ひどく間が抜けてる。恥ずかしいことこの上ない。
でも笑って貰えたから良かったのだ。コシロ兄の笑顔を見られたから良かったのだ。ヒメコは前向きにそう思って元気に御所の中に入った。
「金剛、小弓で勝負よ」
八幡姫だった。
「私に勝てたら、前に美味しいと言っていた菓子を、またくすねて来てあげるわよ」
「わぁい、勝つぞー!」
金剛は叫んで庭に飛び降りた。
八幡姫はヒメコを見て軽く頷いた。ヒメコは頭を下げた。
「ところで、姫御前は何を書いたの?」
勝負がついて少しして部屋に戻れば、金剛がヒメコに手を差し出す。
何のことだろうと首を傾げたら、金剛はヒメコの胸元を指差した。
「何か書いた物を持ってるでしよ?何が書いてあるの?」
言われて思い出し、胸元から先程アサ姫に貰った「大丈夫」と書かれた紙を取り出す。
「オオマスラオという言葉だそうです」
「オオマスラオ?」
「はい、立派な男の人という意味です」
金剛がへえ、と目を輝かせる。続きを語ろうとして、ヒメコは言葉に詰まった。
あれ?立派な人というだけではなくて、もっと含蓄のある言葉だった筈。なのに色々ある内にうっかり忘れてしまった。ヒメコは懸命に思い出そうとする。
「え、えー、孟子が言ったそうです。本来、人は皆善人だと。でもたまに悪事を働いてしまうのは、その本性を忘れてしまうからで、そうならない為に常に学んで努力しなさいと」
「何を学んで努力すればいいの?」
「え?」
アサ姫は何て言ったっけ?
「え、えーと、えーと、四徳がどうのこうの」
「どうのこうの?」
「は、はい。仁義礼智の四つの徳が備わるとコウゲンの気が備わって」
と、プッと噴き出す声が聞こえた。続いて人の気配。
「金剛にいい加減なことを教えるな」
コシロ兄だった。
「父上、お帰りなさいませ」
金剛がきちんと手をついて挨拶をする。ヒメコも慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。御台さまに教えて頂いたのですが忘れてしまって」
コシロ兄は金剛の前に腰を下ろすと口を開いた。
「学ぶものは何でもいい。いや、周りの全てから学べ。どんな些細なことでも身近なことでも、興味を持ったらそれに真摯に向き合って真似べ。この世の全てがお前の師であり友であり仲間だ。
全てから学び、学んだことや感じたことを心と体に叩き込み、それをお前に与えてくれた相手に感謝をし、頂いた恩に報いる為に何か出来ることはないかと探す努力をしろ。
そうしていくうちに、惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの徳が身についてくる。それらを常に怠らずに実践していくと浩然の気が備わる。浩然の気とは、自らの行動を省みた時にその行いが常に正しいと確信していれば自ずと出てくる自信のことだ。勇気とも言える。勇気を持っていれば何事が起きようとも動じない立派な男となれる。そんな一人前の男のことを大丈夫というのだ」
「へえ」
ヒメコと金剛の声が重なった。コシロ兄がヒメコを睨む。
「人に教える時にはせめて復習をしてからにしろ」
ヒメコは身を縮めた。
「ごめんなさい」
八幡姫が笑い出した。
「姫御前ったら、権威無双の女房の名が泣くわよ」
「権威無双の女房?それ何ですか?」
ヒメコが問うたら八幡姫はニヤッと笑った。
「姫御前は当代権威無双の女房なりって二つ名が御所では付いてるわよ」
「権威無双?そんな馬鹿な。それもそんな大層な名前」
一体何でそんなことに。悪口を言われるのは別にいいけど、権威無双だなんて。でも、そう思われるようなことをしてしまっているんだろうか。そこまで出過ぎた真似をしてるのだろうか。
ハァ、とため息をつく。
御所に帰りたくない。そう思ってしまった時、
「名など何とでも言わせておけばいい」
低い声がして顔を上げる。
「浩然の気を養う訓練と思え。そうすればお前も立派なマスラオになれる」
コシロ兄がヒメコを見ていた。
もしかして慰めて励ましてくれているのだろうか?
はい、と頷きかけてハタと気付く。オオマスラオ?
「わ、私は女です。マスラオにはなれません!」
言い返したらコシロ兄の頰が緩んだ。
「いいんじゃないか?高原の涼しい気を養うのなら女のお前に打ってつけだろう」
え、もしかして、からかわれてる?
驚いてまじまじとコシロ兄を見つめてしまう。
ヒメコを見るその目は優しかった。胸がドキリと大きく高鳴る。
もっと見たいな。
コシロ兄の笑顔がもっと見たい。
今なら、もう少し話せるだろうか?その声が聞けるだろうか?笑って貰えるたろうか?
「あの」
勇気を出して話しかけた時だった。
「姫御前、帰るわよ」
八幡姫に引っ張られた。
後ろ髪を引かれる思いで振り返る。コシロ兄は此方を見たままだった。何も言えず、小さく頭を下げる。コシロ兄がそっと目を落とすのが見えた。
あーあ、と思う間もなく、小道に出るなり八幡姫がヒメコの顔を覗き込んできた。
「ヒメコ、金剛が言ってたスケドノのことについて聞きたいんだけど」
あ、忘れてた。
「そ、それは、あの」
ヒメコは目を彷徨わせた。
それはヒメコが漏らしていい話ではない。困って御所の方を見たら、八幡姫はじっとヒメコを見て問うた。
「母は、御台所は知ってるの?」
ヒメコは少しホッとした。
それなら答えられる。黙って頷いた。
すると八幡姫は、ならいいわ、と言って先に駆け去ってしまった。
「あ、大姫さま」
ヒメコは慌ててその後を追う。権威無双だなんて言われてると知って一人で御所に戻る勇気はない。でも八幡姫と一緒なら。姫の陰に隠れ、コソコソと入ろうとして思い出す。
「浩然の気を養う訓練だと思えばいい」
訓練。
ヒメコはクッと顔を上げると御所へと足を踏み入れた。呪文のように唱える。
「コウゼンノキ、コウゼンノキ、コウゲンノキ、あ、いや、コウゼンノキ」
言い間違いを正してからヒメコは自分で噴き出してしまった。
やだ、本当だ。ひどく間が抜けてる。恥ずかしいことこの上ない。
でも笑って貰えたから良かったのだ。コシロ兄の笑顔を見られたから良かったのだ。ヒメコは前向きにそう思って元気に御所の中に入った。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。


魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる