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第3章 鎌倉の石
第44話 帝の武
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夏の終わりに西行法師が鎌倉の八幡宮に立ち寄った。その際に頼朝は秀郷流の弓馬の道について詳しく話を聞き、その武士らしい道を東国武士にも極めさせねばならないと思ったのだろう。楽や和歌に加えて、弓馬の道に優れた者を重用しようと試み始めた。その手始めとして再現が試みられたのが流鏑馬だった。
「誰か流鏑馬の道をよく知る者、弓馬の腕の優れたる者を集めよ」
弓の得意な者はあるか」
「熊谷直実や那須与一はどうでしょうか。また諏訪大社の神官諏訪盛澄や甲斐源氏の小笠原長清も名手です」
その中で今一人名が挙がったのが、義高の随身として鎌倉に来て、その後江間に預け置かれていた海野幸氏だった。
「年が若いながら、騎馬の腕、弓の腕とも殊に優れています」
推挙したのはコシロ兄だった。だが頼朝はいい顔をしなかった。
「幸氏は若輩。それにまだ木曽の辺りを起用するには尚早」
そう言いつつ、腕だけは見せてみよと、頼朝は場を設ける。
流鏑馬は矢馳せ馬と言い、一本真っ直ぐに伸ばされた道の脇に等間隔に立てられた的を馬を駆けさせながら、鏑矢で次々に的を射抜いていく古くからの神事らしい。その場で幸氏は見事な腕を見せた。
そしてその冬、アサ姫は無事に女児を出産する。三幡と名付けられたその姫は亀ケ谷の中原親能の館で産まれ、親能が乳母夫となったが、アサ姫によって育てられた。八幡宮へお宮参りを済ませ、八幡姫の妹姫として御家人らに紹介される。それより八幡姫は大姫、三幡姫は乙姫と呼ばれるようになった。
やがて年が明ける。神事や参拝、祈願を度々行ない、御家人や寺社、京の公家衆を厳しく取りまとめながらも、頼朝の目は奥州を厳しく睨んだままだった。奥州が都に税を納める時には鎌倉を経由せよと秀衡に圧力をかける。
秀衡はとりあえず恭順の意を見せ、頼朝の要求通り、京への貢金、貢馬は鎌倉に送ってくる。それを頼朝が預かって京に送った。
頼朝は奥州を挑発して攻め込む口実となる大義名分を見つけようとしていた。
義経は全国のあちこちで発見され、そして逃げたとされていた。それは、そうやって西国や京に隠れ住む平家の落ち武者らを狩り出し、彼らを匿う公卿や寺社ら、頼朝に翻意を持つだろう勢力を潰していくのが狙いだった。
義経が奥州に向かうことは明白。その証さえ掴めばいい。
やがて義経が奥州に入った報が入る。
頼朝は朝廷との交渉を始めた。だが朝廷はなかなか頼朝の思うように勅命を出してくれない。頼朝はじりじりしながら待っていた。
「御所様はどうしてあんなに九郎殿と奥州を追うのでしょう」
不思議に思ったヒメコはアサ姫に尋ねてみた。
アサ姫は軽く首を傾げた後に教えてくれた。
「九郎殿は戦が上手い。というよりも勝つ為なら手段を選ばず、味方すら欺いたと聞いたわ。平家追討の際には攻めてはいけない船の漕ぎ手を射たり、味方すら出し抜いて奇襲をかけたり。兵は詭道なり、の孫子の兵法を用いた。孫子の兵法は短期的な勝ちは取れるけど、長期的な勝ちは取れない。だから殿は孫子の兵法ではなく『闘戦経』を選んだの。長く続く安寧の世をつくるには、そこに集う御家人らが皆、強く正しく仁義礼智の四つの徳を実践出来る立派な大ますらおでなければいけないからと」
「オオマスラオ?」
アサ姫は紙に「大丈夫」と書いてヒメコに寄越した。
「孟子の教えよ。人の本性は善だと。でも時として悪が行なわれるのはその本性を失ってしまうせい。だから人というものは常によく学び、よく努力して四つの徳を身につけ、また伸ばさなければいけない。それを実践する者には浩然の気が備わる。浩然の気とは自らを省みて、正しいと確信して行動を起こす勇気のこと。その浩然の気を養い、何事にも動じない立派な人物のことを大丈夫と呼ぶのよ」
ヒメコはホゥと吐息をついてアサ姫を眺めた。孟子。名前は聞いたことがあるけれど全く興味がわかなかった。でもこうやってアサ姫から聞くと、心に染み入る立派な教えだと思えるから不思議だ。学びとは誰から学ぶかというのも大事なのかもしれないと思った。アサ姫はきっと頼朝から学んだのだろう。その目はキラキラと輝いていてヒメコは暫し見惚れる。
「浩然の気」
ヒメコはぼんやりと繰り返した。それから手元の紙に目を落とす。
「それが備わった立派な人のことを大丈夫、というのですね」
「ええ。この国をその大丈夫で一杯にして、長く続く平安な世を作りたい。その為に殿は国の武を統一しようとしているの。この国から争いを無くすには、唯一絶対の権力を有する者が一人だけ必要だと。本来、その一人とは帝であるべきで、神代はそうしてこの国は纏っていた。だが今の帝にはその武力がない。だから自分がこの国の武力を統一して帝の武となり、この国から争いを無くすのだ、と」
「帝の武、ですか」
「格好いいでしょう?それで惚れたのよ」
惚気るアサ姫に笑顔を返し、ヒメコは天を見上げた。白い鳥が飛んでいた。白鳥になって飛んで行ったと伝わる日本武尊。彼が父王の為に国土統一の戦に出たように、頼朝も国の為に戦っているのか。鬼になって。
アサ姫は続けた。
最初に聞いた時は途方も無い話だと思ったわ。でも実際に動き出したらどんどん仲間が増えて大きくなっていって、残るは奥州だけとなった。だから義経殿を逃すわけにはいかないのよ。彼が奥州と手を組んで武が二つに分かれてしまったら、人々はどちらについていいのか迷ってしまう。迷いは争いを生んでしまうから」
ヒメコは大丈夫の紙を丁寧に畳んで胸元に入れると江間へと向かった。覚えている内に金剛に伝えたかった。
「あら、姫御前。あなたが来るなら一緒に出れば良かった」
江間の邸には八幡姫が居た。
「大姫様、また抜け出されたのですか」
「平気よ。体調いいもの。それより稽古の成果を見て」
「稽古?」
「弓よ。五郎が幸氏に習って上達したと言ってたから私も習おうと思って」
「はぁ」
八幡姫は既に弽まで付けて庭に出ようとしていた。庭には幸氏が待っていてヒメコの顔を見ると軽く頭を下げる。ヒメコは会釈を返して八幡姫の姿を見守った。
顔立ちはやはり頼朝に似ている気がする。でもキリリと鋭い目はアサ姫譲り。その美しい横顔を見ていたヒメコの目が突如隠される。
「だーれだ?」
幼く愛らしい声。ヒメコはうーんと考える振りをした。
「こんなイタズラをする童子はスクナヒコ様でしょうか」
答えたら明るい笑い声がして目隠しが外された。
「違うよ。仁王だよ」
言って、金剛が笑顔を見せる。
「姫御前、久しぶり。ね、見て!字が大分上手になったんだよ!」
ヒメコの前に紙を突き出す。そこには漢字が幾つか書いてあった。
「まぁ、もう漢字を?」
金剛はまだ四つ。
「うん、父上が教えてくれたの。数字とか自分の名は書けるようになったんだよ」
紙には仁王、金剛、八重、父、母、とあった。
「でも父上の名は難しくてまだ書けないの。あと姫御前も。だから絵を描いたんだ」
言って別の紙を持って来る。
「こっちが姫御前で、こっちが八幡。で、これが母上でこれが父上」
言って順々に指差して教えてくれる。ヒメコの顔も描いてくれたのか。ヒメコは嬉しくて涙が溢れそうになった。
だが、その次に金剛が指差した絵を見て、その涙が引っ込む。
それからこれがスケドノ」
右下に大きく描かれた一人の男性の顔。
黒い烏帽子に口髭、堂々とした体格にスッキリした目つきと高い鼻。上手だ。よく特徴を掴んでいる。
でも。
チラリと庭の方を窺う。八幡姫は金剛が実は腹違いの弟とは知らない筈。
「す、助っ人ですか」
誤魔化そうとする。が、金剛は首を横に振った。
「違うよ、スケドノだよ。スケドノって母上の何?金剛の本当の父上なのではないの?あまりこちらには来て下さらないけど、いつもは何処に居るの?」
ヒメコは答えに窮した。隣の部屋に八重姫はいる。でも庭に大姫がいることも聞こえてわかっている筈。今頃は固唾をのんで事の成り行きを窺っているかと思うと、うまく話を逸らせなかった自分が恨めしい。
「誰か流鏑馬の道をよく知る者、弓馬の腕の優れたる者を集めよ」
弓の得意な者はあるか」
「熊谷直実や那須与一はどうでしょうか。また諏訪大社の神官諏訪盛澄や甲斐源氏の小笠原長清も名手です」
その中で今一人名が挙がったのが、義高の随身として鎌倉に来て、その後江間に預け置かれていた海野幸氏だった。
「年が若いながら、騎馬の腕、弓の腕とも殊に優れています」
推挙したのはコシロ兄だった。だが頼朝はいい顔をしなかった。
「幸氏は若輩。それにまだ木曽の辺りを起用するには尚早」
そう言いつつ、腕だけは見せてみよと、頼朝は場を設ける。
流鏑馬は矢馳せ馬と言い、一本真っ直ぐに伸ばされた道の脇に等間隔に立てられた的を馬を駆けさせながら、鏑矢で次々に的を射抜いていく古くからの神事らしい。その場で幸氏は見事な腕を見せた。
そしてその冬、アサ姫は無事に女児を出産する。三幡と名付けられたその姫は亀ケ谷の中原親能の館で産まれ、親能が乳母夫となったが、アサ姫によって育てられた。八幡宮へお宮参りを済ませ、八幡姫の妹姫として御家人らに紹介される。それより八幡姫は大姫、三幡姫は乙姫と呼ばれるようになった。
やがて年が明ける。神事や参拝、祈願を度々行ない、御家人や寺社、京の公家衆を厳しく取りまとめながらも、頼朝の目は奥州を厳しく睨んだままだった。奥州が都に税を納める時には鎌倉を経由せよと秀衡に圧力をかける。
秀衡はとりあえず恭順の意を見せ、頼朝の要求通り、京への貢金、貢馬は鎌倉に送ってくる。それを頼朝が預かって京に送った。
頼朝は奥州を挑発して攻め込む口実となる大義名分を見つけようとしていた。
義経は全国のあちこちで発見され、そして逃げたとされていた。それは、そうやって西国や京に隠れ住む平家の落ち武者らを狩り出し、彼らを匿う公卿や寺社ら、頼朝に翻意を持つだろう勢力を潰していくのが狙いだった。
義経が奥州に向かうことは明白。その証さえ掴めばいい。
やがて義経が奥州に入った報が入る。
頼朝は朝廷との交渉を始めた。だが朝廷はなかなか頼朝の思うように勅命を出してくれない。頼朝はじりじりしながら待っていた。
「御所様はどうしてあんなに九郎殿と奥州を追うのでしょう」
不思議に思ったヒメコはアサ姫に尋ねてみた。
アサ姫は軽く首を傾げた後に教えてくれた。
「九郎殿は戦が上手い。というよりも勝つ為なら手段を選ばず、味方すら欺いたと聞いたわ。平家追討の際には攻めてはいけない船の漕ぎ手を射たり、味方すら出し抜いて奇襲をかけたり。兵は詭道なり、の孫子の兵法を用いた。孫子の兵法は短期的な勝ちは取れるけど、長期的な勝ちは取れない。だから殿は孫子の兵法ではなく『闘戦経』を選んだの。長く続く安寧の世をつくるには、そこに集う御家人らが皆、強く正しく仁義礼智の四つの徳を実践出来る立派な大ますらおでなければいけないからと」
「オオマスラオ?」
アサ姫は紙に「大丈夫」と書いてヒメコに寄越した。
「孟子の教えよ。人の本性は善だと。でも時として悪が行なわれるのはその本性を失ってしまうせい。だから人というものは常によく学び、よく努力して四つの徳を身につけ、また伸ばさなければいけない。それを実践する者には浩然の気が備わる。浩然の気とは自らを省みて、正しいと確信して行動を起こす勇気のこと。その浩然の気を養い、何事にも動じない立派な人物のことを大丈夫と呼ぶのよ」
ヒメコはホゥと吐息をついてアサ姫を眺めた。孟子。名前は聞いたことがあるけれど全く興味がわかなかった。でもこうやってアサ姫から聞くと、心に染み入る立派な教えだと思えるから不思議だ。学びとは誰から学ぶかというのも大事なのかもしれないと思った。アサ姫はきっと頼朝から学んだのだろう。その目はキラキラと輝いていてヒメコは暫し見惚れる。
「浩然の気」
ヒメコはぼんやりと繰り返した。それから手元の紙に目を落とす。
「それが備わった立派な人のことを大丈夫、というのですね」
「ええ。この国をその大丈夫で一杯にして、長く続く平安な世を作りたい。その為に殿は国の武を統一しようとしているの。この国から争いを無くすには、唯一絶対の権力を有する者が一人だけ必要だと。本来、その一人とは帝であるべきで、神代はそうしてこの国は纏っていた。だが今の帝にはその武力がない。だから自分がこの国の武力を統一して帝の武となり、この国から争いを無くすのだ、と」
「帝の武、ですか」
「格好いいでしょう?それで惚れたのよ」
惚気るアサ姫に笑顔を返し、ヒメコは天を見上げた。白い鳥が飛んでいた。白鳥になって飛んで行ったと伝わる日本武尊。彼が父王の為に国土統一の戦に出たように、頼朝も国の為に戦っているのか。鬼になって。
アサ姫は続けた。
最初に聞いた時は途方も無い話だと思ったわ。でも実際に動き出したらどんどん仲間が増えて大きくなっていって、残るは奥州だけとなった。だから義経殿を逃すわけにはいかないのよ。彼が奥州と手を組んで武が二つに分かれてしまったら、人々はどちらについていいのか迷ってしまう。迷いは争いを生んでしまうから」
ヒメコは大丈夫の紙を丁寧に畳んで胸元に入れると江間へと向かった。覚えている内に金剛に伝えたかった。
「あら、姫御前。あなたが来るなら一緒に出れば良かった」
江間の邸には八幡姫が居た。
「大姫様、また抜け出されたのですか」
「平気よ。体調いいもの。それより稽古の成果を見て」
「稽古?」
「弓よ。五郎が幸氏に習って上達したと言ってたから私も習おうと思って」
「はぁ」
八幡姫は既に弽まで付けて庭に出ようとしていた。庭には幸氏が待っていてヒメコの顔を見ると軽く頭を下げる。ヒメコは会釈を返して八幡姫の姿を見守った。
顔立ちはやはり頼朝に似ている気がする。でもキリリと鋭い目はアサ姫譲り。その美しい横顔を見ていたヒメコの目が突如隠される。
「だーれだ?」
幼く愛らしい声。ヒメコはうーんと考える振りをした。
「こんなイタズラをする童子はスクナヒコ様でしょうか」
答えたら明るい笑い声がして目隠しが外された。
「違うよ。仁王だよ」
言って、金剛が笑顔を見せる。
「姫御前、久しぶり。ね、見て!字が大分上手になったんだよ!」
ヒメコの前に紙を突き出す。そこには漢字が幾つか書いてあった。
「まぁ、もう漢字を?」
金剛はまだ四つ。
「うん、父上が教えてくれたの。数字とか自分の名は書けるようになったんだよ」
紙には仁王、金剛、八重、父、母、とあった。
「でも父上の名は難しくてまだ書けないの。あと姫御前も。だから絵を描いたんだ」
言って別の紙を持って来る。
「こっちが姫御前で、こっちが八幡。で、これが母上でこれが父上」
言って順々に指差して教えてくれる。ヒメコの顔も描いてくれたのか。ヒメコは嬉しくて涙が溢れそうになった。
だが、その次に金剛が指差した絵を見て、その涙が引っ込む。
それからこれがスケドノ」
右下に大きく描かれた一人の男性の顔。
黒い烏帽子に口髭、堂々とした体格にスッキリした目つきと高い鼻。上手だ。よく特徴を掴んでいる。
でも。
チラリと庭の方を窺う。八幡姫は金剛が実は腹違いの弟とは知らない筈。
「す、助っ人ですか」
誤魔化そうとする。が、金剛は首を横に振った。
「違うよ、スケドノだよ。スケドノって母上の何?金剛の本当の父上なのではないの?あまりこちらには来て下さらないけど、いつもは何処に居るの?」
ヒメコは答えに窮した。隣の部屋に八重姫はいる。でも庭に大姫がいることも聞こえてわかっている筈。今頃は固唾をのんで事の成り行きを窺っているかと思うと、うまく話を逸らせなかった自分が恨めしい。
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