【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第31話 期待と不安

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 コシロ兄に差し出された手を掴む。グイと引っ張り上げられ、ヒメコは見送る祖母と母に手を振った。

 馬が足を速め、比企の風景はすぐに遠去かる。

「あの、姫さまは」

 二人の姿が見えなくなってすぐに尋ねたら、コシロ兄は一言、無事だと答えた。

 ヒメコはホッとする。その途端、馬から落ちそうになった。

「何をやっている!気を抜くな!」

 怒鳴られる。


 ふと気付けば、いつもはコシロ兄の前に跨って乗せられていたのに、今日はコシロ兄の膝の上に横向きに座らされていて、手綱を引くコシロ兄の腕の中に抱かれるようにして乗っていた。

「あ、ごめんなさい。私、乗馬用の格好をしてなくて」

「いや、こちらこそ済まなかった。急いでいた」

 思わずコシロ兄の顔を見上げる。

「なんだ?」

「いえ、コシロ兄に謝られたの初めてかもしれないと思って。いつも怒られてばかりだから」

 素直にそう答えたら、
「お前が怒られるような事ばかりやるんだろうが」

 そう睨まれた。でもその目は心なしか優しい。

「でも、まぁ、それがお前なんだろうな」

 言って、ヒメコの体を抱え直す。ヒメコの肩がコシロ兄の胸に触れ、コシロ兄の顎がヒメコの頭の上を掠める。馬上とは言え、こんな風に接近して会話をしたのは幼い時以来で、どこを見ていいのかわからない。とにかく言葉を継いだ。

「急いでるって、何かあるのですか?」

 すると僅かな間があり、コシロ兄の顎がヒメコの頭の上に乗った。

「少ししたら平家追討の為に出陣する」
「出陣?」

「ああ。その前にお前に会っておきたかった。だから迎えに行く役を買って出た」
「え」

振り返ろうとしたが、頭の上にはコシロ兄の顎。それに気付いたら抱き締められていた。

——出陣前に会っておきたかったって、それは、どういう意味?


 でも言葉が出て来ない。ただ息が苦しく、胸が高鳴るばかり。

 少しは期待していいんだろうか?嫌われてないと。

 続く沈黙。肩にかかる掌の熱。クラクラと目眩を起こしそうになるのを懸命に耐える。

  ややしてコシロ兄が口を開いた。
「姫に水を飲ませてたのか?」

 問われてビクッと肩が震えた。そうだ。浮ついたこと考えてる場合じゃない。

「姫のご容体は?お熱は下がられたのですか?」

「まだ伏せってはいるが峠は越えた。典医の話では水を何処かで飲んだ筈。でなければ持たなかったのではないか、と。そうしたら姫が答えたらしい。姫御前が飲ませてくれたと」

 それで思い出す。

「雨に濡れた後にユキのお産を待ってる間にお白湯を一杯だけ」

 コシロ兄はそうかと答えると馬の歩みを止めた。

「ここからすぐ鎌倉に入る。これを被っていろ」

 言って、鈍色の直垂をヒメコに被せた。

 そして馬はまたゆっくりと進み始める。ヒメコの体勢が安定したのを確認してコシロ兄の体が離れる。ヒメコはそっと直垂の隙間から辺りを覗いた。

 賑やかな人通り。潮の香り。鎌倉だ。ほんの少し離れただけだったのに帰ってこれたという気持ちになる。ヒメコは胸いっぱいに鎌倉の香りを吸い込んだ。

 馬が見慣れた御所の門を入る直前、コシロ兄が言った。

「出陣している間、金剛と屋敷を頼めるか?」

 ヒメコは頷いた。それから合点がいく。そうか。出陣前にそれを頼みたかったから会いたいと言ったのか。

 変な期待をしてしまった自分が恥ずかしく、またちょっぴり残念に思いつつ、それでも大切な役目を任されたことが嬉しくてヒメコは笑顔で頷いた。

「はい、おまかせください」

 馬から下り、別れる時に被っていた直垂を返そうとしたら、ぐいとまた深く被せられた。

「いいから笠の代わりに被ってろ。お前はただでさえ目立つ。あまり顔を晒すな。早く戻れ」

 言って、小御所の方に追い立てられた。

 ヒメコは返事をすると急いで小御所へ向かった。でも途中、足を止めて振り返る。

 出陣ということは二度と会えなくなるかも知れない。せめてその背中だけでも。そう思ったのだ。

 そうしたら、コシロ兄は止まってこちらを見ていた。驚いて咄嗟にお辞儀をする。そうしたらコシロ兄も頭を下げた。

——どうかご無事で。

 ヒメコは心の中で祈り、胸の前で揺れる鈍色の直垂をそっと撫でる。
コシロ兄の匂いがする気がした。
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