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第3章 鎌倉の石
第30話 夢
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比企へと戻ったヒメコを父はあたたかく迎えてくれた。
祖母はフンと鼻を鳴らし、何をやらかして来たんだいとヒメコを睨んだ。
追って、御所からの文が届く。
父宛だった。
「勧農使として北陸へ行けと」
「北陸?」
父の隣で母が顔を青ざめる。
「木曽の義仲殿の戦で西国は食糧不足で大変なことになってるらしい。それで作物を育てる勧農と収納のお役目を賜わった」
「勧農ねぇ、ぱっとしないお役目だね。手柄を立てにくい」
「また、その後に西国の平家追討に加われと」
「戦に?」
母は胸を押さえて倒れかかった。
「大丈夫だよ。沢山の兵の中の一人だ。また、ただ付いて行くだけさ」
そう母を宥める父の笑顔を見つつ、ヒメコはもしやと祖母にそっと問うてみた。
「私が御所で不始末をしたからでしょうか?」
祖母は、首を横に振った。
「いや、そろそろ総力をあげて西国に向かう時期なんだろうよ。ま、いいじゃないか。とりあえず軍勢に付いて行けば何かしら褒美をくれるだろうさ」
「いいことありません!」
噛みついたのは母だった。
「北陸は寒くて辺鄙な所なのでしょう?殿がそんなお辛い目に遇うなんて!それに戦だなんて、怪我でもしたらどうしてくれるんですか!」
よよと泣く母。ヒメコは居た堪れなくなって外へ出た。
武蔵の空は海の気配がしない。今はそれが寂しい。
八幡姫は大丈夫だろうか。自分はどうしてあんなことをしてしまったんだろう。どう詫びればいいのか。
二度と許して貰えないかも知れない。顔を見ることも出来ないかも知れない。
ヒメコは流れていく薄い雲をぼんやりと眺めて時を過ごした。
「で、何をしでかしてきたんだい?」
振り返れば祖母が居た。ヒメコは全てを話した。祖母は黙って聞いた後、一言、馬鹿だねと言った。ヒメコははいと頷く。
祖母は重ねて言った。
「本当に馬鹿で無知で無茶でどうしようもない子だよ」
ヒメコは項垂れる。
祖母は続けて、でも、と言った。
「自分が馬鹿で無力だ。自分一人では何も出来ないんだとわかって、やっと人は少し成長する。お前はやっと少しだけ成長したのさ。よく思い返してみな。お前は何故姫を雨に打たせたんだい?」
「とにかく水を摂らさなければと。雨の気配がしていたので何となく」
「何となくねぇ。その時、お前は祈ったかい?場を祓い、神にお伺いを立ててからそう思ったのかい?」
ヒメコは少し考えてから首を横に振った。
祖母はさもありなんという顔をして腕を組んだ。
「本当に馬鹿だねぇ。水を飲まずに生きられるのは、長年修練を重ねて心身を鍛え、悟りを開いた一部の聖くらいのものさ。そんな真似、どこの誰が普通に出来るもんかい。大体、何となくってなんだい。お前は感謝の心を忘れ、慢心してたんだよ。何となくで上手くいったことが過去にあったのかもしれないが、それはたまたま場が清浄で、たまたま憐れに思って下さった高位の存在がお前に救いの手を差し伸べて下さったから運良く上手くいっただけのこと。場合によっては低位の存在に悪さをされることもあるんだからね」
祖母は大きく溜め息をつくとヒメコの手を引いた。
「来な!丁度良い。しごき直してやろう」
ヒメコはホッと息をついた。ずっと祖母に会いたかった。不安だった。心細かった。やっと帰って来られた。もしかしたらそれもまたお計らいだったのかも知れない。
その翌日、父は郎等を引き連れて出かけた。
「ヒミカ、お前には笑顔が似合うよ。平気さ。何もかもそれなりに上手くいくから、お前はお前の思った通りにやりなさい」
そう言って大きな手で頭を撫でてくれる。それから振り返った。
「行って来る。母上を頼むよ」
母に微笑んでみせる父。
その父に母は何度も頷くと大きな包みを手渡し、
「どうぞご無事で!何があろうと死なないで帰って来て下さいませね!」
と叫んでいつまでも手を振っていた。
祖母がボソッと毒づいた。
「死なないなんて狙って出来るもんかい。
どうして人はああやって人の死を恐れるのか、わかるかい?ヒミカ」
問われて首を傾げる。
「お祖母様は死が恐くないの?」
「そうだね。恐くはないよ」
「どうして?」
「死ぬのは眠るのと同じだからさ。前にも話した筈だよ。眠るように死ぬとよく言うが、死は眠りと同じ。体が眠ったきり魂が離れて帰って来なくなったのが死。お前は眠るのが怖いかい?」
「いいえ。気付いたら眠ってるわ」
「それでいい。眠りは死の世界。だから、その気になればそこでは何でも出来るんだよ」
「何でも?」
「ああ。会いたいけど会えない人に会えたり、遠くまで飛んで行けたり。生身の身体だと出来ないようなことが出来るのさ」
「確かに空を飛ぶ夢は見たことがあるけれど、あれは死んでたの?」
「体は死んでなくても魂はどこかに飛んで行ってたのだろうさ」
「会えない人って?」
「既にこの世では死んでる人や、普段は目に見えない存在。そういう相手とも会えるし話が出来る」
「でも、それはただの夢の話でしょう?」
「ああ、夢だよ。夢だから何でも出来るのさ。死も同じ。だから本当は死は恐くない。でも人は誰かの死を恐れる。それはその誰かに依存してるからさ。この人がいないと自分は辛い、寂しい。生きて行けない。そう思い込んで、その相手に依存してるのさ。人は一人で生まれ、一人で死んでいく。だから本当は一人で生きていかなくてはいけないのに、誰かに依存してるからその相手の死を恐れる。赤子が泣くのは一人では生きていけないからだ。それは仕方ない。でも分別がつくようになったら、依存せずに一人で立って生きて、誰かに依存しないと生きていけない赤子や老人を支えて生きていかなくてはならない」
ヒメコはぼんやりと祖母を見ていた。一人で生きていける人なんているんだろうか?
それが伝わったのか祖母がヒメコを見て笑った。
「そうさね。口では簡単だが、一人で生きるのはなかなか難しいから皆死を恐れるのさ。私だってそうだよ。真に一人で生きている人などどこにもいないよ。一人で生きてるつもりの聖だって、結局はお日様や山や川の気によって生かされてるんだからね。人は皆何かに支えられて生きてる。だから生きてる限り支えてくれてる何かに常に感謝して謙虚に生きろという話さ」
ヒメコは天を見上げた。自分は今、祖母に依存している。祖母が居なくなったらと考えると恐ろしい。でも、祖母もいつか居なくなる。それまでに自分は一人で立てるようになっていないといけないのだ。
背後の草むらで虫がジジーと鳴いた。ヒメコはクラクラとして倒れそうになった。祖母に捕まる。祖母は強い力でヒメコを支えてくれた。
「私にとってもお前は支えだよ。お前達が居てくれるから生きていられる。だから私からも佐殿に話してみようね。それとももう鎌倉には戻らずに比企に居るかい?どっちがいい?」
どっちでもいいよ、そう言いつつ、祖母の目は比企に居ていいよと言ってくれてるように見えた。瞳の奥に仄見える寂しさ。甘えたい。甘えさせたい。そう思いつつ、ヒメコは顎を上げた。
「いいえ。私は鎌倉に戻ります。戻らなきゃ」
すると祖母は笑った。
「負けん気が強いのは一体誰に似たんだかね。だが、それでこそ私の孫だよ。でも困ったらいつでもお呼び。飛んで行くからね」
ヒメコは笑って答えた。
「はい。夢の中で待ってます」
祖母も笑った。
でも、ややして呟く。
「しかしねぇ、家人も馬も出払ってしまったよ。鎌倉から迎えを送って貰わないといけないね」
ヒメコは慌てて首を横に振った。
「いえ、それは結構です!」
呼ばれてないのに迎えをくれなどと、とても言える状況ではない。
と、馬の蹄の音が近付いてくる。
「おやおや、あんたかい」
現れたのはコシロ兄だった。コシロ兄は馬上から軽く祖母に会釈をするとヒメコに手を差し出した。
「姫御前、御台さまがお呼びだ。すぐ来られるか?」
問われ、祖母を振り返る。祖母は笑った。
「お迎えだよ。行っといで」
ヒメコは頷くと祖母に抱きついた。
「おやおや、何をしてんだい。まだ子どもだね」
ヒメコはいいえと首を横に振った。
「少し成長しました。もう子どもではありません」
祖母はフンと鼻を鳴らし、何をやらかして来たんだいとヒメコを睨んだ。
追って、御所からの文が届く。
父宛だった。
「勧農使として北陸へ行けと」
「北陸?」
父の隣で母が顔を青ざめる。
「木曽の義仲殿の戦で西国は食糧不足で大変なことになってるらしい。それで作物を育てる勧農と収納のお役目を賜わった」
「勧農ねぇ、ぱっとしないお役目だね。手柄を立てにくい」
「また、その後に西国の平家追討に加われと」
「戦に?」
母は胸を押さえて倒れかかった。
「大丈夫だよ。沢山の兵の中の一人だ。また、ただ付いて行くだけさ」
そう母を宥める父の笑顔を見つつ、ヒメコはもしやと祖母にそっと問うてみた。
「私が御所で不始末をしたからでしょうか?」
祖母は、首を横に振った。
「いや、そろそろ総力をあげて西国に向かう時期なんだろうよ。ま、いいじゃないか。とりあえず軍勢に付いて行けば何かしら褒美をくれるだろうさ」
「いいことありません!」
噛みついたのは母だった。
「北陸は寒くて辺鄙な所なのでしょう?殿がそんなお辛い目に遇うなんて!それに戦だなんて、怪我でもしたらどうしてくれるんですか!」
よよと泣く母。ヒメコは居た堪れなくなって外へ出た。
武蔵の空は海の気配がしない。今はそれが寂しい。
八幡姫は大丈夫だろうか。自分はどうしてあんなことをしてしまったんだろう。どう詫びればいいのか。
二度と許して貰えないかも知れない。顔を見ることも出来ないかも知れない。
ヒメコは流れていく薄い雲をぼんやりと眺めて時を過ごした。
「で、何をしでかしてきたんだい?」
振り返れば祖母が居た。ヒメコは全てを話した。祖母は黙って聞いた後、一言、馬鹿だねと言った。ヒメコははいと頷く。
祖母は重ねて言った。
「本当に馬鹿で無知で無茶でどうしようもない子だよ」
ヒメコは項垂れる。
祖母は続けて、でも、と言った。
「自分が馬鹿で無力だ。自分一人では何も出来ないんだとわかって、やっと人は少し成長する。お前はやっと少しだけ成長したのさ。よく思い返してみな。お前は何故姫を雨に打たせたんだい?」
「とにかく水を摂らさなければと。雨の気配がしていたので何となく」
「何となくねぇ。その時、お前は祈ったかい?場を祓い、神にお伺いを立ててからそう思ったのかい?」
ヒメコは少し考えてから首を横に振った。
祖母はさもありなんという顔をして腕を組んだ。
「本当に馬鹿だねぇ。水を飲まずに生きられるのは、長年修練を重ねて心身を鍛え、悟りを開いた一部の聖くらいのものさ。そんな真似、どこの誰が普通に出来るもんかい。大体、何となくってなんだい。お前は感謝の心を忘れ、慢心してたんだよ。何となくで上手くいったことが過去にあったのかもしれないが、それはたまたま場が清浄で、たまたま憐れに思って下さった高位の存在がお前に救いの手を差し伸べて下さったから運良く上手くいっただけのこと。場合によっては低位の存在に悪さをされることもあるんだからね」
祖母は大きく溜め息をつくとヒメコの手を引いた。
「来な!丁度良い。しごき直してやろう」
ヒメコはホッと息をついた。ずっと祖母に会いたかった。不安だった。心細かった。やっと帰って来られた。もしかしたらそれもまたお計らいだったのかも知れない。
その翌日、父は郎等を引き連れて出かけた。
「ヒミカ、お前には笑顔が似合うよ。平気さ。何もかもそれなりに上手くいくから、お前はお前の思った通りにやりなさい」
そう言って大きな手で頭を撫でてくれる。それから振り返った。
「行って来る。母上を頼むよ」
母に微笑んでみせる父。
その父に母は何度も頷くと大きな包みを手渡し、
「どうぞご無事で!何があろうと死なないで帰って来て下さいませね!」
と叫んでいつまでも手を振っていた。
祖母がボソッと毒づいた。
「死なないなんて狙って出来るもんかい。
どうして人はああやって人の死を恐れるのか、わかるかい?ヒミカ」
問われて首を傾げる。
「お祖母様は死が恐くないの?」
「そうだね。恐くはないよ」
「どうして?」
「死ぬのは眠るのと同じだからさ。前にも話した筈だよ。眠るように死ぬとよく言うが、死は眠りと同じ。体が眠ったきり魂が離れて帰って来なくなったのが死。お前は眠るのが怖いかい?」
「いいえ。気付いたら眠ってるわ」
「それでいい。眠りは死の世界。だから、その気になればそこでは何でも出来るんだよ」
「何でも?」
「ああ。会いたいけど会えない人に会えたり、遠くまで飛んで行けたり。生身の身体だと出来ないようなことが出来るのさ」
「確かに空を飛ぶ夢は見たことがあるけれど、あれは死んでたの?」
「体は死んでなくても魂はどこかに飛んで行ってたのだろうさ」
「会えない人って?」
「既にこの世では死んでる人や、普段は目に見えない存在。そういう相手とも会えるし話が出来る」
「でも、それはただの夢の話でしょう?」
「ああ、夢だよ。夢だから何でも出来るのさ。死も同じ。だから本当は死は恐くない。でも人は誰かの死を恐れる。それはその誰かに依存してるからさ。この人がいないと自分は辛い、寂しい。生きて行けない。そう思い込んで、その相手に依存してるのさ。人は一人で生まれ、一人で死んでいく。だから本当は一人で生きていかなくてはいけないのに、誰かに依存してるからその相手の死を恐れる。赤子が泣くのは一人では生きていけないからだ。それは仕方ない。でも分別がつくようになったら、依存せずに一人で立って生きて、誰かに依存しないと生きていけない赤子や老人を支えて生きていかなくてはならない」
ヒメコはぼんやりと祖母を見ていた。一人で生きていける人なんているんだろうか?
それが伝わったのか祖母がヒメコを見て笑った。
「そうさね。口では簡単だが、一人で生きるのはなかなか難しいから皆死を恐れるのさ。私だってそうだよ。真に一人で生きている人などどこにもいないよ。一人で生きてるつもりの聖だって、結局はお日様や山や川の気によって生かされてるんだからね。人は皆何かに支えられて生きてる。だから生きてる限り支えてくれてる何かに常に感謝して謙虚に生きろという話さ」
ヒメコは天を見上げた。自分は今、祖母に依存している。祖母が居なくなったらと考えると恐ろしい。でも、祖母もいつか居なくなる。それまでに自分は一人で立てるようになっていないといけないのだ。
背後の草むらで虫がジジーと鳴いた。ヒメコはクラクラとして倒れそうになった。祖母に捕まる。祖母は強い力でヒメコを支えてくれた。
「私にとってもお前は支えだよ。お前達が居てくれるから生きていられる。だから私からも佐殿に話してみようね。それとももう鎌倉には戻らずに比企に居るかい?どっちがいい?」
どっちでもいいよ、そう言いつつ、祖母の目は比企に居ていいよと言ってくれてるように見えた。瞳の奥に仄見える寂しさ。甘えたい。甘えさせたい。そう思いつつ、ヒメコは顎を上げた。
「いいえ。私は鎌倉に戻ります。戻らなきゃ」
すると祖母は笑った。
「負けん気が強いのは一体誰に似たんだかね。だが、それでこそ私の孫だよ。でも困ったらいつでもお呼び。飛んで行くからね」
ヒメコは笑って答えた。
「はい。夢の中で待ってます」
祖母も笑った。
でも、ややして呟く。
「しかしねぇ、家人も馬も出払ってしまったよ。鎌倉から迎えを送って貰わないといけないね」
ヒメコは慌てて首を横に振った。
「いえ、それは結構です!」
呼ばれてないのに迎えをくれなどと、とても言える状況ではない。
と、馬の蹄の音が近付いてくる。
「おやおや、あんたかい」
現れたのはコシロ兄だった。コシロ兄は馬上から軽く祖母に会釈をするとヒメコに手を差し出した。
「姫御前、御台さまがお呼びだ。すぐ来られるか?」
問われ、祖母を振り返る。祖母は笑った。
「お迎えだよ。行っといで」
ヒメコは頷くと祖母に抱きついた。
「おやおや、何をしてんだい。まだ子どもだね」
ヒメコはいいえと首を横に振った。
「少し成長しました。もう子どもではありません」
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