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第3章 鎌倉の石
第29話 水
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「姫さま、ユキの所に参りましょう」
八幡姫に声をかける。八幡姫の頰がピクリと動いた。でも目はこちらにくれない。ヒメコは浅い皿に水を少量入れて八幡姫の口元に近付ける。だが姫はそれを払いのけた。
ヒメコは八幡姫の手首を掴むと引っ張りあげた。
「ユキの子が産まれる頃です。姫が行かなくて誰が行くのです。義高さまが嘆かれましょう。さあ」
無理矢理外に引きずり出す。外は雨が降っていたが、ヒメコはそのまま裸足で厩へと向かう。口から摂らずとも肌から呼気から水気は身体の中に多少入る筈。
「姫御前、一体何を!」
御所や小御所の廊から侍女達が騒ぐのが聞こえたが、ヒメコは無視して厩へと向かった。
厩ではお腹を大きく膨らませたユキが暴れていた。
——大き過ぎる。
ふと過ぎった嫌な予感。
「ユキ!どうしたの?しっかりして!」
八幡姫が叫ぶ。
茶鷲も大きく鋭くいなないて暴れ出した。引っ張られた杭が軋む音が響く。
——とにかくユキを落ち着かせなくては。ユキに向かって腕を大きく伸ばすが、その腕が途中で強く掴まれた。
「お産が始まる。お前たちは外に出ていろ!」
コシロ兄が何人かの男と共に厩に入って来ていた。八幡姫の手を引いて急いで外へ出る。
「お産?仔馬が産まれるの?」
ずぶ濡れになりながら八幡姫がヒメコに尋ねる。
「そのようです。私たちは邪魔になりますから下がりましょう」
言って、チラとユキの大きく大きく膨れた腹を見る。先の嫌な予感が当たらないように願うばかり。
——どうか。どうか母子とも無事で。
部屋に戻ってずぶ濡れになった八幡姫を着替えさせ、自らも着替える。
「白湯です。身体を温めて待ちましょう」
言って器を差し出したら、八幡姫は素直にそれを受け取って飲み干した。それから二人並んでじっと待つ。
ひととき、ふたとき。どのくらい待っただろうか。阿波局がやって来た。
「姫御前、小四郎兄上が呼んでるわ」
八幡姫と二人、手を繋いで急いで向かう。コシロ兄は無表情だった。
「多胎だった。一頭は無事産まれたが、もう一頭は死産だった。母馬は無事だ」
「たたいって何?」
姫の問いにコシロ兄が答えた。
二頭同時に身篭っていたということだ。馬では珍しい。一頭無事だっただけでも有難いことだ」
その言葉に八幡姫が噛み付いた。
「どこが有難いの?死んでしまったもう一頭が可哀想じゃない!」
「死んだもののことを考えるより生き残ったもののことを考えろ。人も馬もだ」
「え?」
八幡姫が顔を上げる。
「義高殿の従者だった海野幸氏と望月重隆らは拘束を解かれ、一時的に江間で預かることになった。時が経てば会えよう。だが、今のその顔で彼らに会うつもりか?主である義高殿を守れず、またその妻も死んだとあっては、その従者である彼らはどうなる?姫は義高殿の妻だろう?その従者を気遣えずして妻と言えるか?生き残ったものは生きている責任を果たすべきだ。私は彼らを死なせない。この鎌倉で生きられるように支える。姫はどうする?今のその様子で、彼らに、そして義高殿に顔向け出来るのか?」
強い語気に八幡姫がビクッと身を震わせる。
ヒメコは手を広げ、間に入った。
「江間様、お待ちください。姫さまはまだ苦しみの中なのです。どうかもう少しお待ちください」
コシロ兄は黙って去って行った。
その時、ぽつりと八幡姫が呟いた。
「幸氏達は生き残るのね?」
「ええ。御台さまが義高殿とお約束をなさってました」
「母さまが?」
ヒメコは頷く。
「彼らは私が守る、とそう義高殿にお約束なさってました」
「約束?その約束を、ヒメコあなたも聞いていたの?」
問われ、頷く。途端。八幡姫の口元が大きく歪んだ。
「皆、みんな知っていたのね。知らなかったのは私だけ」
「姫さま、それは」
「う、うぅ、うぅ、うぅぅ!」
ボロボロと零れ落ちる涙。
「あぁぁぁぁ!義高様!」
絶叫した直後、八幡姫はその場に崩れ落ちた。
「姫さま!」
抱え上げて急ぎ部屋に戻る。
だが、その日から八幡姫は高熱を出して伏したままになった。
「ヒミカ。そなたが姫を無理強いして雨に打たせたと聞いたが、まことか?」
頼朝に呼び出され、ヒメコは頭を下げたまま答えた。
「はい。仰る通りです」
「お前は八幡の乳母であろう!何故そんな無茶をした!」
「申し訳ございません」
「申し訳ないで済むか!ただでさえ衰弱している所を!」
——バサッ!
扇が飛んできてヒメコに当たった。
「暫く比企に戻っておれ!」
八幡姫に声をかける。八幡姫の頰がピクリと動いた。でも目はこちらにくれない。ヒメコは浅い皿に水を少量入れて八幡姫の口元に近付ける。だが姫はそれを払いのけた。
ヒメコは八幡姫の手首を掴むと引っ張りあげた。
「ユキの子が産まれる頃です。姫が行かなくて誰が行くのです。義高さまが嘆かれましょう。さあ」
無理矢理外に引きずり出す。外は雨が降っていたが、ヒメコはそのまま裸足で厩へと向かう。口から摂らずとも肌から呼気から水気は身体の中に多少入る筈。
「姫御前、一体何を!」
御所や小御所の廊から侍女達が騒ぐのが聞こえたが、ヒメコは無視して厩へと向かった。
厩ではお腹を大きく膨らませたユキが暴れていた。
——大き過ぎる。
ふと過ぎった嫌な予感。
「ユキ!どうしたの?しっかりして!」
八幡姫が叫ぶ。
茶鷲も大きく鋭くいなないて暴れ出した。引っ張られた杭が軋む音が響く。
——とにかくユキを落ち着かせなくては。ユキに向かって腕を大きく伸ばすが、その腕が途中で強く掴まれた。
「お産が始まる。お前たちは外に出ていろ!」
コシロ兄が何人かの男と共に厩に入って来ていた。八幡姫の手を引いて急いで外へ出る。
「お産?仔馬が産まれるの?」
ずぶ濡れになりながら八幡姫がヒメコに尋ねる。
「そのようです。私たちは邪魔になりますから下がりましょう」
言って、チラとユキの大きく大きく膨れた腹を見る。先の嫌な予感が当たらないように願うばかり。
——どうか。どうか母子とも無事で。
部屋に戻ってずぶ濡れになった八幡姫を着替えさせ、自らも着替える。
「白湯です。身体を温めて待ちましょう」
言って器を差し出したら、八幡姫は素直にそれを受け取って飲み干した。それから二人並んでじっと待つ。
ひととき、ふたとき。どのくらい待っただろうか。阿波局がやって来た。
「姫御前、小四郎兄上が呼んでるわ」
八幡姫と二人、手を繋いで急いで向かう。コシロ兄は無表情だった。
「多胎だった。一頭は無事産まれたが、もう一頭は死産だった。母馬は無事だ」
「たたいって何?」
姫の問いにコシロ兄が答えた。
二頭同時に身篭っていたということだ。馬では珍しい。一頭無事だっただけでも有難いことだ」
その言葉に八幡姫が噛み付いた。
「どこが有難いの?死んでしまったもう一頭が可哀想じゃない!」
「死んだもののことを考えるより生き残ったもののことを考えろ。人も馬もだ」
「え?」
八幡姫が顔を上げる。
「義高殿の従者だった海野幸氏と望月重隆らは拘束を解かれ、一時的に江間で預かることになった。時が経てば会えよう。だが、今のその顔で彼らに会うつもりか?主である義高殿を守れず、またその妻も死んだとあっては、その従者である彼らはどうなる?姫は義高殿の妻だろう?その従者を気遣えずして妻と言えるか?生き残ったものは生きている責任を果たすべきだ。私は彼らを死なせない。この鎌倉で生きられるように支える。姫はどうする?今のその様子で、彼らに、そして義高殿に顔向け出来るのか?」
強い語気に八幡姫がビクッと身を震わせる。
ヒメコは手を広げ、間に入った。
「江間様、お待ちください。姫さまはまだ苦しみの中なのです。どうかもう少しお待ちください」
コシロ兄は黙って去って行った。
その時、ぽつりと八幡姫が呟いた。
「幸氏達は生き残るのね?」
「ええ。御台さまが義高殿とお約束をなさってました」
「母さまが?」
ヒメコは頷く。
「彼らは私が守る、とそう義高殿にお約束なさってました」
「約束?その約束を、ヒメコあなたも聞いていたの?」
問われ、頷く。途端。八幡姫の口元が大きく歪んだ。
「皆、みんな知っていたのね。知らなかったのは私だけ」
「姫さま、それは」
「う、うぅ、うぅ、うぅぅ!」
ボロボロと零れ落ちる涙。
「あぁぁぁぁ!義高様!」
絶叫した直後、八幡姫はその場に崩れ落ちた。
「姫さま!」
抱え上げて急ぎ部屋に戻る。
だが、その日から八幡姫は高熱を出して伏したままになった。
「ヒミカ。そなたが姫を無理強いして雨に打たせたと聞いたが、まことか?」
頼朝に呼び出され、ヒメコは頭を下げたまま答えた。
「はい。仰る通りです」
「お前は八幡の乳母であろう!何故そんな無茶をした!」
「申し訳ございません」
「申し訳ないで済むか!ただでさえ衰弱している所を!」
——バサッ!
扇が飛んできてヒメコに当たった。
「暫く比企に戻っておれ!」
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