【完結】姫の前

やまの龍

文字の大きさ
上 下
77 / 225
第3章 鎌倉の石

第29話 水

しおりを挟む
「姫さま、ユキの所に参りましょう」

 八幡姫に声をかける。八幡姫の頰がピクリと動いた。でも目はこちらにくれない。ヒメコは浅い皿に水を少量入れて八幡姫の口元に近付ける。だが姫はそれを払いのけた。

 ヒメコは八幡姫の手首を掴むと引っ張りあげた。

「ユキの子が産まれる頃です。姫が行かなくて誰が行くのです。義高さまが嘆かれましょう。さあ」

 無理矢理外に引きずり出す。外は雨が降っていたが、ヒメコはそのまま裸足で厩へと向かう。口から摂らずとも肌から呼気から水気は身体の中に多少入る筈。

「姫御前、一体何を!」

 御所や小御所の廊から侍女達が騒ぐのが聞こえたが、ヒメコは無視して厩へと向かった。

 厩ではお腹を大きく膨らませたユキが暴れていた。

——大き過ぎる。

ふと過ぎった嫌な予感。

「ユキ!どうしたの?しっかりして!」
 八幡姫が叫ぶ。

 茶鷲も大きく鋭くいなないて暴れ出した。引っ張られた杭が軋む音が響く。

——とにかくユキを落ち着かせなくては。ユキに向かって腕を大きく伸ばすが、その腕が途中で強く掴まれた。

「お産が始まる。お前たちは外に出ていろ!」

 コシロ兄が何人かの男と共に厩に入って来ていた。八幡姫の手を引いて急いで外へ出る。

「お産?仔馬が産まれるの?」

 ずぶ濡れになりながら八幡姫がヒメコに尋ねる。

「そのようです。私たちは邪魔になりますから下がりましょう」

 言って、チラとユキの大きく大きく膨れた腹を見る。先の嫌な予感が当たらないように願うばかり。

——どうか。どうか母子とも無事で。

 部屋に戻ってずぶ濡れになった八幡姫を着替えさせ、自らも着替える。

「白湯です。身体を温めて待ちましょう」

 言って器を差し出したら、八幡姫は素直にそれを受け取って飲み干した。それから二人並んでじっと待つ。

 ひととき、ふたとき。どのくらい待っただろうか。阿波局がやって来た。

「姫御前、小四郎兄上が呼んでるわ」

 八幡姫と二人、手を繋いで急いで向かう。コシロ兄は無表情だった。

「多胎だった。一頭は無事産まれたが、もう一頭は死産だった。母馬は無事だ」

「たたいって何?」
姫の問いにコシロ兄が答えた。

二頭同時に身篭っていたということだ。馬では珍しい。一頭無事だっただけでも有難いことだ」

 その言葉に八幡姫が噛み付いた。

「どこが有難いの?死んでしまったもう一頭が可哀想じゃない!」

「死んだもののことを考えるより生き残ったもののことを考えろ。人も馬もだ」

「え?」
八幡姫が顔を上げる。

「義高殿の従者だった海野幸氏と望月重隆らは拘束を解かれ、一時的に江間で預かることになった。時が経てば会えよう。だが、今のその顔で彼らに会うつもりか?主である義高殿を守れず、またその妻も死んだとあっては、その従者である彼らはどうなる?姫は義高殿の妻だろう?その従者を気遣えずして妻と言えるか?生き残ったものは生きている責任を果たすべきだ。私は彼らを死なせない。この鎌倉で生きられるように支える。姫はどうする?今のその様子で、彼らに、そして義高殿に顔向け出来るのか?」

 強い語気に八幡姫がビクッと身を震わせる。

ヒメコは手を広げ、間に入った。

「江間様、お待ちください。姫さまはまだ苦しみの中なのです。どうかもう少しお待ちください」

 コシロ兄は黙って去って行った。


 その時、ぽつりと八幡姫が呟いた。

「幸氏達は生き残るのね?」

「ええ。御台さまが義高殿とお約束をなさってました」
「母さまが?」

 ヒメコは頷く。

「彼らは私が守る、とそう義高殿にお約束なさってました」

「約束?その約束を、ヒメコあなたも聞いていたの?」

 問われ、頷く。途端。八幡姫の口元が大きく歪んだ。

「皆、みんな知っていたのね。知らなかったのは私だけ」

「姫さま、それは」

「う、うぅ、うぅ、うぅぅ!」
 ボロボロと零れ落ちる涙。

「あぁぁぁぁ!義高様!」

 絶叫した直後、八幡姫はその場に崩れ落ちた。
「姫さま!」
 抱え上げて急ぎ部屋に戻る。

だが、その日から八幡姫は高熱を出して伏したままになった。



「ヒミカ。そなたが姫を無理強いして雨に打たせたと聞いたが、まことか?」

 頼朝に呼び出され、ヒメコは頭を下げたまま答えた。
「はい。仰る通りです」

「お前は八幡の乳母であろう!何故そんな無茶をした!」

「申し訳ございません」
「申し訳ないで済むか!ただでさえ衰弱している所を!」

——バサッ!

 扇が飛んできてヒメコに当たった。

「暫く比企に戻っておれ!」
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

あづま日記(頼朝と政子の出逢い

やまの龍
歴史・時代
平治の乱で敗れて伊豆に流された まだうら若き頼朝が、初めて政子と会った話。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴

もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。 潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

むしゃくしゃしてやった、後悔はしていないがやばいとは思っている

F.conoe
ファンタジー
婚約者をないがしろにしていい気になってる王子の国とかまじ終わってるよねー

私訳戦国乱世  クベーラの謙信

zurvan496
歴史・時代
 上杉謙信のお話です。  カクヨムの方に、徳川家康編を書いています。

処理中です...