【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第23 話 幼妻

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「ね、姫御前。江間に通っているのですって?噂になってるわよ」

 例によって耳打ちしてきたのは阿波局で、ヒメコは思わず側にあった棒を掴み上げて、いいえと首を横に振る。

「比企の屋敷にはたまに戻ってますので、きっとその見間違いです」

 そう?と首を傾げた阿波局が、あらと指を下に向ける。
「やだ、姫御前ったら怪力。それをどこに持って行くつもり?」

 言われて目を落とせば、几帳の重石をまた片手で持ち上げていた。

「あ、いえ、そろそろどなたかお見えになりそうなので片付けようかと」

 持ち上げてしまった重石に慌てて右手を添え、部屋の隅の方へと寄せる。その時、部屋の中では八幡姫と義高、その従者らが碁を打っていた。

「姫、そろそろ負けをお認めになられませ」

 一人の少年が促すが、八幡姫は口を尖らせてそっぽを向いた。

「いいえ、まだ打つ所はあるもの」

 そう言って、摘んだ黒石をあちらこちらと乗せかけては、うーんと首を傾げる。少年らは苦笑しつつそれを許してくれているようだった。盤の上を覗けば、明らかに白地が優勢。見かねてヒメコが声をかけようとした時、

「お、やっておるな」
 廊から不意に顔を出したのは頼朝だった。

「父さま!お珍しいこと。難しいお話は終わったの?」

 姫以外の全員が一斉に頭を下げる。

「ああ。くたびれたから休憩だ。姫の顔が見たくなって遊びに来たのだが、邪魔だったかな?」

「いいえ。姫もちょうどくたびれた所よ」

 そう言って、摘んでいた黒石をそっと床に置く。頼朝が義高に顔を向けた。

「どうだ?義高。鎌倉には慣れたか?」

 穏やかな口調に義高も笑顔を返す。

「はい。山と海が美しく、町は活気があって鎌倉は素晴らしい所です。それに皆様がとても良くして下さいます」

 そう答えながら義高は盤の上の黒石を静かに寄せて片付け始める。八幡姫がホッとした顔をするのを見て、義高はそっと目を伏せて口の端を優しく上げた。

「おぉ、碁をやっておったのか。双六が好きだと聞いていたが」

「はい。双六も碁も好きです。でもこちらの江間殿は、そのどちらもお強い。聞けば御所様仕込みだとか」

 義高が頼朝の後ろに控えていたコシロ兄に目を送る。頼朝が嬉しそうに笑って頷いた。

「そうだな。伊豆に居た頃は暇を持て余して、日がな書を読み、碁を打ち、双六の賽を振って、負け続けて悔しがる小四郎をいたぶって遊んでいたっけな。懐かしい」

遠い目をして語る頼朝の言葉を義高は笑顔で頷きながら聞いていた。

 と、頼朝がドスンとその場に胡座をかいた。

「では、婿殿。一つ手合わせといこうか」

「え、宜しいのですか?」

 顔を輝かせる義高に、頼朝は鷹揚おうように頷いて手にしていた扇を懐にしまう。

「久々だから腕が落ちているかもしれんが、遠慮は無用だぞ」

 盤を引き寄せ、白石を集め始める。少年らは顔を寄せ合い二人の間の盤を上から横から覗き込んだ。

「うむ、なかなかやるな。では、こうするとどう出るか?」

「あ、それはもしかして」
少年らの声に頼朝が満足気に頷く。皆笑顔であたたかな空気が流れる。八幡姫は頼朝の膝の上に陣取りつつも正面の義高を応援していた。

「やれやれ、姫は婿殿の味方らしい。父親とは悲しいものだな」

 大袈裟に嘆いて見せる頼朝に皆が笑う。平和なひと時だった。

 コシロ兄がそっと後ろへと下がるのを見てヒメコも静かに部屋を辞した。

 だが、出た途端に阿波局に捕まる。

「で、本当の所はどうなの?小四郎兄の所に赤子が産まれるという話だけど、ヒメコ様の子じゃないのよね?」

「いいえ、とんでもない!」

 ヒメコは真っ赤になって手を振った。

「じゃあ何故江間の屋敷に通ってるの?」

 どう説明しようかヒメコが迷った時、低い声が答えた。

「彼女は今度産まれる子の乳母だからだ」

 振り返れば、コシロ兄が立っていた。

「産まれる子って、もしや八重様の?」
 コシロ兄が黙ったまま頷く。
「え、あの」

八重のことを阿波局に言って良かったのかとコシロ兄の袖を掴むが、コシロ兄は小さく息を吐いて三の姫を睨んだ。

「お前はあちこちに首を突っ込み過ぎる。とにかく江間の子だ。これは父上も姉上も承諾済みの話。分かったな?無駄なお喋りはするなよ」

 阿波局はふぅんと唸った後にニヤッと笑った。

「ああ、そういうこと。いいわ、わかった。姫御前が江間に通ってると男どもの間で噂になってたから、小四郎兄とヒメコ様の子ならいいなぁと思っただけなの。違うんならしょんない。また別の噂でも流しておいてあげるわね」

「おい!」

 コシロ兄が凄むが、阿波局はきゃらきゃらと笑って駆け去っていた。

「まったくあいつはろくでもない」
 苦笑するコシロ兄を見上げてヒメコはホッと息を吐いた。

 その夏、八重は無事に男児を出産した。幼名は金剛。後の北条泰時である。

 頼朝は沢山の祝いの品を送り、殊更に深く喜んだので御家人らはいぶかしんだ。江間の嫡男は、実は御所のご落胤ではないのか?と。
 その母が明らかにされなかった為もあって、様々な噂が流された。

「知ってる?江間殿のお子の母君は阿波局様なんですって」

 女官仲間からもたらされた思いもよらない話にヒメコは目を瞬かせる。

「全然お腹目立たなかったのにねぇ。でもそう言えば最近太ったって言ってたかしら。ああ、それでここの所、御所に参内してないのね。でも江間の嫡男ということは阿野様のお子ではないってこと?それに江間殿と阿波局様は同母兄妹じゃなかったかしら。えー、一体どういうこと?ね、姫御前は阿波局様のご様子に気付いてらした?」

 問われてヒメコはいいえと首を横に振る。

 と、一人の女官が呟いた。

「やっぱり御所様のご落胤なんじゃない?でもご姉妹で御所様のお子を産むなんて醜聞だからと、江間殿の子ということにしたのよ。だから御台様も今回は黙ってお認めになったんだわ。そうに違いないわ」

逞しく想像を膨らませる女官達の声を聞くように聞かないようにしながら、ヒメコは阿波局の心境を思った。

 別の噂を流すと言っていた。産まれる子が頼朝の子とわかった上で、自らの名を汚してでも、兄のやろうとしていることを助けようと思ったのだろう。阿波局は今、名越の屋敷に下がっていた。

 北条の兄妹は本当に仲が良い。北条は御家人の中では勢力が小さいから御台所も肩身が狭いだろうとよく言われるけれど、アサ姫を中心に支え合って助け合っている。

——仲間。

昔祖母が言っていた言葉を思い出す。きっと縁の深い仲間同士なのだろう。

 小御所に戻れば、八幡姫が内庭で義高と馬の世話をしていた。

「義高様、義高さまのお馬に姫も乗せて下さいませ」

 言って、義高の褐色の背の高い馬に手を伸ばす。

「ユキがヤキモチを妬かないかな?」
「平気ですわ。だってユキも茶鷲のことが大好きですもの。ね、ユキ?」

 白馬の首筋を撫でながら茶鷲にも手を伸ばす。

「きっと良い夫婦になるわ。ね、義高さま」

 愛らしく微笑む八幡姫に義高も柔らかく応える。

「ああ、そうだね。いつかユキと茶鷲と一緒に木曾の山を駆けたいね」
「木曽の山?」

「ああ、私の生まれ育った山だよ。ゴツゴツした岩がたくさんだけれど乗馬の上手い姫ならすぐに慣れる」

「ええ。絶対連れて行って下さいませね。お約束ですよ」
義高は頷いてから、ハッとヒメコを見た。ヒメコは微笑んで頷いた。

 いつか木曾に帰れる日は来る。頼朝と義仲は従兄弟なのだ。共に平家を追い詰める味方同士。

 でも、この時既に義仲は先んじて京へと入っていた。
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