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第3章 鎌倉の石
第18話 動かない男
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伏見広綱の屋敷が打ち壊された二日後、頼朝は広綱と亀殿が逃げ込んだ別宅へと出掛け、牧宗親を問い質し、制裁を加えた。烏帽子を払い落として髷を掴み、刀を入れて切り落としたのだ。それは当時の男にとっては最大級の恥辱だった。牧宗親は泣いて逃げ出し、婿である北条時政の元に身を寄せる。舅を辱しめられた時政は報復に出た。鎌倉の名越の北条館を引き払い、一族郎等全てを連れて伊豆に戻る支度を始めたのだ。
「父が激怒して伊豆に戻ることになったの。姉上は御所に残るけど私は伊豆に帰るわ。姉上を頼むわね」
阿波局が慌ただしく荷を纏めるのをヒメコは驚いて見つめた。
「名越の北条館は空になるわ。この隙に鎌倉に何かあるかも知れない。姫御前は御所で姉上の側に付きながら、その動きが出てこないか見張って」
阿波局はそう言い残して御所を去った。
「鎌倉で何か?」
ヒメコはコシロ兄の言葉を思い出していた。
「御所と姉上の間に何かあるかもしれんが」
そうだ。アサ姫が比企に居る間もコシロ兄はずっと御所と一緒だったのだろう。亀殿の所にも付き従っていたとしたら、御所とアサ姫の間で騒動が起こることは予想出来ていた筈。それで二人の側に付いていてくれと言ったのかと納得する。
でも北条が本当に鎌倉から全て撤退してしまったら、鎌倉はアサ姫はどうなるのか。
喜ぶ御家人もいるだろう。この隙に何かを企む輩もいるかもしれない。折角ここまで立ち上げつつある鎌倉の町が、あっという間に戦火に包まれてしまうかもしれない。そんなの見たくない。何とかしなきゃ。
勢いづいて立ち上がるも、ヒメコに何が出来ようか。ヒメコには何の力もないのだ。
動くとしたらどの御家人だろうか?上総?武田?頼朝は常陸の辺りを強制的に押さえ込んだ。でも残党勢力は少なからずいる。だから頼朝は常に命を狙われているのだ。
どうしよう?どうすればいい?
二人の側。御所とアサ姫の側に居るだけなら自分にも出来る。
でも御所と北条の間に入れるのはコシロ兄しかいない。本来ならそこにアサ姫が入るべきなのだろうが、今のアサ姫はそれを良しとしないだろう。
頼朝にもアサ姫にも意地がある。勿論北条にも牧殿にも。
ヒメコは立ち上がった。じっと座って考えていても何も始まらない。動かない何かを動かしたい時には、何でもいい。小さくていいから自分の手の届く範囲いっぱいに手を広げて自分から動かなきゃ。
ヒメコはアサ姫に一刻の暇を願うと、水干姿になって御所を飛び出した。
鎌倉の町は変わらず人が多かったが、どこかざわざわとした不安気な空気に包まれていた。
北条が鎌倉を抜けたことを察してだろうか。戦とはまた微妙に違う不穏な気配。潮風も常とは違う向きに流れている気がする。その中をヒメコは駆けた。
若宮大路の御家人屋敷。比企朝宗の向かいの江間の屋敷。その戸を強く叩く。
顔を出した男にシロ兄への取り次ぎを頼む。
「御台さまの侍女、姫御前という者。江間殿にお願いあって参りました!」
でも男は目を険しくして、戸を閉めようとした。
「侍女?ふざけるな。怪しい奴め。子どもとて盗っ人と見れば容赦せぬぞ」
言われて、水干姿だったことに気付く。宵闇だったので女の姿では無用心と思ったのだ。殺気だった男に追いやられそうになり、ヒメコは声を上げた。
「江間様、ヒメコです。お願いです。話を聞いて下さい!」
と、人影が動いた。
「いい。彼女は確かに姉の侍女だ。通せ」
低い声がしてコシロ兄が顔を出してくれる。ヒメコはホッとして江間の屋敷に足を踏み入れた。
ガランとした何もない空間。それが二つ三つ。一番奥がコシロ兄の居室なのか、小机が置かれていて書物がたくさん積み重ねてある。そして部屋の片隅には広げられた布の上に何枚か畳んで重ねられた着物と刀が二本。旅支度だと分かった。
「行かないで」
ヒメコはコシロ兄に縋り付いた。
コシロ兄はヒメコを見下ろしたが何も声を発しない。
「伊豆に行かないでください」
繰り返す。
コシロ兄は黙ったまま目を戸口の方に向けた。そこには先程、戸口を守っていた男が立っていた。
「殿、大殿が急げと仰っておられましたが」
よく見れば、下男ではなく刀を脇に差した家人のようだった。
コシロ兄は、ああと返事をしてヒメコを剥がそうとした。でもヒメコは譲らなかった。
「お願いです!鎌倉に残って!」
「何故お前がそんなことを言う。お前は御所に戻れ」
「嫌です。コシロ兄が伊豆に行かないと言うまで御所には戻りません」
「俺が鎌倉に残ってどうする。ここには僅か数人の家人しか居ない。何も出来ない」
「それでいいんです」
そう言ってコシロ兄の袖を引っ張ったら、コシロ兄は怪訝な目をしてヒメコを見た。
「誰の差し金だ?何を言われてきた」
「いいえ、誰も何も。私が勝手に来たのです。御所と御台さまの側に居ることは私は出来ます。でもそれでは鎌倉は守れない。鎌倉を守れるのは、北条を鎌倉に戻せるのは今はあなただけ。そう思ったからここに来ました」
「父はもう伊豆へ向かった。俺も後を追う」
「いいえ、追わないで。あなたは鎌倉に残ってください」
コシロ兄は首を横に振った。
「何度も言う通り、俺がここに居ても何も出来ない。俺は父の従属物でしかない。伊豆へ行かないとならないんだ」
「あなたは北条の従属物ではありません。江間義時殿です!歴とした一当主で、御家人。それに子は父を超えていくもの。あなたはあなたとして鎌倉に残るべきです!」
「何も出来なくてもか?」
ヒメコは大きく頷いた。
それでも。いいえ、それでいいんです。あなたは鎌倉に居るだけでいいんです」
コシロ兄は首を傾げた。
お前は俺に何を求めている?お前の言っていることは全く要領を得ない。何がそれでいいんだ。いいわけないだろう。お前は俺に何をさせたいんだ」
「鎌倉に居てくださいと言ってるだけです」
「居ても何も出来ないと言っている。いい加減にしろ。お前の我が儘には付き合えん。とっとと御所へ戻れ!」
そう言って、コシロ兄はヒメコの腕を掴んで引き剥がすと家人へ目を送って外へ出せと告げた。家人が腕を掴みに来るのを、その内側に入って背に回り込み、逆に男の肘を捻りあげる。男が呻いて掴んでいたヒメコの腕を離した隙にヒメコは駆け戻ってコシロ兄の脚に左腕を引っ掛けた。
「我が儘ではありません!私は私の道に従うまで。あなたは鎌倉に居なくてはいけない人だから、そうお願いしてるだけです!」
「父が激怒して伊豆に戻ることになったの。姉上は御所に残るけど私は伊豆に帰るわ。姉上を頼むわね」
阿波局が慌ただしく荷を纏めるのをヒメコは驚いて見つめた。
「名越の北条館は空になるわ。この隙に鎌倉に何かあるかも知れない。姫御前は御所で姉上の側に付きながら、その動きが出てこないか見張って」
阿波局はそう言い残して御所を去った。
「鎌倉で何か?」
ヒメコはコシロ兄の言葉を思い出していた。
「御所と姉上の間に何かあるかもしれんが」
そうだ。アサ姫が比企に居る間もコシロ兄はずっと御所と一緒だったのだろう。亀殿の所にも付き従っていたとしたら、御所とアサ姫の間で騒動が起こることは予想出来ていた筈。それで二人の側に付いていてくれと言ったのかと納得する。
でも北条が本当に鎌倉から全て撤退してしまったら、鎌倉はアサ姫はどうなるのか。
喜ぶ御家人もいるだろう。この隙に何かを企む輩もいるかもしれない。折角ここまで立ち上げつつある鎌倉の町が、あっという間に戦火に包まれてしまうかもしれない。そんなの見たくない。何とかしなきゃ。
勢いづいて立ち上がるも、ヒメコに何が出来ようか。ヒメコには何の力もないのだ。
動くとしたらどの御家人だろうか?上総?武田?頼朝は常陸の辺りを強制的に押さえ込んだ。でも残党勢力は少なからずいる。だから頼朝は常に命を狙われているのだ。
どうしよう?どうすればいい?
二人の側。御所とアサ姫の側に居るだけなら自分にも出来る。
でも御所と北条の間に入れるのはコシロ兄しかいない。本来ならそこにアサ姫が入るべきなのだろうが、今のアサ姫はそれを良しとしないだろう。
頼朝にもアサ姫にも意地がある。勿論北条にも牧殿にも。
ヒメコは立ち上がった。じっと座って考えていても何も始まらない。動かない何かを動かしたい時には、何でもいい。小さくていいから自分の手の届く範囲いっぱいに手を広げて自分から動かなきゃ。
ヒメコはアサ姫に一刻の暇を願うと、水干姿になって御所を飛び出した。
鎌倉の町は変わらず人が多かったが、どこかざわざわとした不安気な空気に包まれていた。
北条が鎌倉を抜けたことを察してだろうか。戦とはまた微妙に違う不穏な気配。潮風も常とは違う向きに流れている気がする。その中をヒメコは駆けた。
若宮大路の御家人屋敷。比企朝宗の向かいの江間の屋敷。その戸を強く叩く。
顔を出した男にシロ兄への取り次ぎを頼む。
「御台さまの侍女、姫御前という者。江間殿にお願いあって参りました!」
でも男は目を険しくして、戸を閉めようとした。
「侍女?ふざけるな。怪しい奴め。子どもとて盗っ人と見れば容赦せぬぞ」
言われて、水干姿だったことに気付く。宵闇だったので女の姿では無用心と思ったのだ。殺気だった男に追いやられそうになり、ヒメコは声を上げた。
「江間様、ヒメコです。お願いです。話を聞いて下さい!」
と、人影が動いた。
「いい。彼女は確かに姉の侍女だ。通せ」
低い声がしてコシロ兄が顔を出してくれる。ヒメコはホッとして江間の屋敷に足を踏み入れた。
ガランとした何もない空間。それが二つ三つ。一番奥がコシロ兄の居室なのか、小机が置かれていて書物がたくさん積み重ねてある。そして部屋の片隅には広げられた布の上に何枚か畳んで重ねられた着物と刀が二本。旅支度だと分かった。
「行かないで」
ヒメコはコシロ兄に縋り付いた。
コシロ兄はヒメコを見下ろしたが何も声を発しない。
「伊豆に行かないでください」
繰り返す。
コシロ兄は黙ったまま目を戸口の方に向けた。そこには先程、戸口を守っていた男が立っていた。
「殿、大殿が急げと仰っておられましたが」
よく見れば、下男ではなく刀を脇に差した家人のようだった。
コシロ兄は、ああと返事をしてヒメコを剥がそうとした。でもヒメコは譲らなかった。
「お願いです!鎌倉に残って!」
「何故お前がそんなことを言う。お前は御所に戻れ」
「嫌です。コシロ兄が伊豆に行かないと言うまで御所には戻りません」
「俺が鎌倉に残ってどうする。ここには僅か数人の家人しか居ない。何も出来ない」
「それでいいんです」
そう言ってコシロ兄の袖を引っ張ったら、コシロ兄は怪訝な目をしてヒメコを見た。
「誰の差し金だ?何を言われてきた」
「いいえ、誰も何も。私が勝手に来たのです。御所と御台さまの側に居ることは私は出来ます。でもそれでは鎌倉は守れない。鎌倉を守れるのは、北条を鎌倉に戻せるのは今はあなただけ。そう思ったからここに来ました」
「父はもう伊豆へ向かった。俺も後を追う」
「いいえ、追わないで。あなたは鎌倉に残ってください」
コシロ兄は首を横に振った。
「何度も言う通り、俺がここに居ても何も出来ない。俺は父の従属物でしかない。伊豆へ行かないとならないんだ」
「あなたは北条の従属物ではありません。江間義時殿です!歴とした一当主で、御家人。それに子は父を超えていくもの。あなたはあなたとして鎌倉に残るべきです!」
「何も出来なくてもか?」
ヒメコは大きく頷いた。
それでも。いいえ、それでいいんです。あなたは鎌倉に居るだけでいいんです」
コシロ兄は首を傾げた。
お前は俺に何を求めている?お前の言っていることは全く要領を得ない。何がそれでいいんだ。いいわけないだろう。お前は俺に何をさせたいんだ」
「鎌倉に居てくださいと言ってるだけです」
「居ても何も出来ないと言っている。いい加減にしろ。お前の我が儘には付き合えん。とっとと御所へ戻れ!」
そう言って、コシロ兄はヒメコの腕を掴んで引き剥がすと家人へ目を送って外へ出せと告げた。家人が腕を掴みに来るのを、その内側に入って背に回り込み、逆に男の肘を捻りあげる。男が呻いて掴んでいたヒメコの腕を離した隙にヒメコは駆け戻ってコシロ兄の脚に左腕を引っ掛けた。
「我が儘ではありません!私は私の道に従うまで。あなたは鎌倉に居なくてはいけない人だから、そうお願いしてるだけです!」
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