【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第14話 安産岩

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帰り道、アサ姫が問う。
「ヒメコ、あなた、あそこの祠のこと知っていて私を連れ出したの?」
ヒメコは首を横に振った。知る由もない。そっと天を見上げて目を閉じた。
「きっと祓いが済んで心身が清められたので、観音さまが女衆を遣わして下さったんですよ」

 それからアサ姫は早朝に御所を抜け出すようになった。ヒメコも同行したかったが、頼朝の食事の支度があるので同行出来ず、代わりに侍女を一人連れて行って貰うことにした。アサ姫は一人で行きたがったが身の安全が優先。毎朝出かけて行く二人を見送りながら、ヒメコもそっと手を合わせた。

——どうか願いが叶いますように。

 でもなかなかアサ姫の顔は冴えない。元気かと思うとがっかり落ち込んだり。ヒメコも気を揉む。

 ある日、アサ姫が神職の住吉を連れてやって来た。
「あの祠を新造中の鶴岡若宮にお移ししたいの」
ヒメコは悩んだ。あの祠はあそこに長く置かれて地元の女衆に護られている。移してしまっていいのだろうか?

「鶴岡若宮は誰でも出入り出来、手入れも怠りなくできますから却って宜しいのではないですか」

住吉の言葉で、裸弁天の祠と裏の二つの岩は鶴岡若宮の池の小島へと移されることになった。弁天様のお移しはアサ姫とヒメコとで行なった。

 祠の扉を開いたら、腰巻だけであとは白い肌の女体を大らかに見せた木の弁天像が安置されていた。多分、古い古い時代のものだろう。着せられた上衣は色褪せた麻。ボロボロに崩れかけたその上衣をアサ姫と共に丁寧に繕い直してそっと羽織らせる。この木像が彫られた時代は、多分もっと女性が大らかで、生命を生み出すことが今より尊重されていたのだろう。

 またそんな時代になりますようにと祈りを込め、ヒメコはアサ姫と共に弁天様を大事に抱き抱えると、若宮の池の中央、橋を渡った小島に新しく造られた社へとお移しした。岩はさすがに男衆に任せた。その岩は安産岩と呼ばれ、永く鶴岡八幡宮の池に安置されることとなる。


 お移しから少ししたある日、アサ姫の顔がガラリと変わった。

 元々キリッとした目尻に締まった口元だったけれど、その目が更に吊り上がり、逆に口元はふわりと緩んだ。

懐妊したんだ。

ヒメコはそう確信した。だが同時にアサ姫は起き上がれない程に憔悴しょうすいし、食どころか水も取れずに倒れ臥す日が続く。周りの者達は御台所が病にかかったと大騒ぎを始めた。祟りではないかという者も現れて祈祷やら薬やら騒がしくなって落ち着かない。大量に持ち込まれる薬をヒメコは全て回収してそっと火にくべた。男性にはわからないものなのか。懐妊の兆しなのに。でもアサ姫自身もまだ気付いていない。もし今懐妊の噂が立てば、すわ嫡男かと鎌倉中が大騒ぎになってアサ姫の心労が増えてしまう。ヒメコは心苦しさを秘めながら、アサ姫の身に危険がないように側に付き添って、ひたすら場を祓い続けた。

 それにしてもアサ姫の具合は芳しくなかった。八幡姫の時は腹が脹れても気づかない程に元気だったのに。
 ふと、母子の縁が深いと安産。薄いと難産になると祖母が言っていたことを思い出し、ヒメコは首を横に振ってその不吉な予感を頭から追い出した。

 結局、御台所の懐妊の噂が流れたのは年が明けて少ししてからだった。当然、頼朝は大喜びで祈祷や産屋の準備に取り掛かる。アサ姫の前では口にしないものの、今度は男児をと願っているのが感じられて、ヒメコはアサ姫の心中を想ってそっと嘆息した。

 頼朝は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までの参道を整備し、伊豆から切り出してきた石を敷き詰め、無事に男児が産まれたら、この路を若宮大路と呼ぼうと言い出した。

「諸将が争って手ずから大石を運んで敷き詰めて美しい参道を造ってるとか。小四郎兄も手伝わされてるらしいわよ」

 三の姫の言葉にアサ姫はため息をつく。
「これで姫だったら皆がっかりするでしょうね」

「大丈夫よ。波中太が残念そうに姫じゃないのかって呟いてたもの」

 阿波局の言葉に皆で目を瞬かせる。
「中原殿がお戻りなの?」
「ええ、帰って来るなり私にそう言ったのよ。今回は男児かぁって」
「え、どうして?」

ヒメコとアサ姫とで阿波局に詰め寄る。
「知らないわよ。彼に聞いて」

 早速中原親能が呼び出される。
「ああ。この度は御目出度うございます」

 中原親能は相変わらずの飄々とした感じで部屋に入ってきてアサ姫の前にどっかりと座った。

「あなた、姫じゃないのかって残念がったって本当?」

アサ姫が問うたら、親能はええと頷いて
「此度は男児のようですな。ま、とりあえずおめでたいことで、心よりお祝い申し上げます」
 と頭を下げた。

「まったくおめでたくなさそうな顔で言わないでよ。一体どういうわけ?」

 アサ姫が半ば笑いながらそう問い詰めたら、親能はハァと頭をかいた。

「姫ならば、縁のある子だろうと感じただけのこと」
「感じた、ねぇ。随分曖昧だわね。とにかく、私は今男児を身ごもってると理解していいのかしら?」
親能は頷いた。アサ姫はホッとした顔になる。ヒメコもホッとした。嫡男か姫かは産まれるまでわからないものの、アサ姫が心穏やかに出産を迎えることが、今一番大切なことだった。


 そして夏の暑い盛り、アサ姫は産所として定められた比企能員の邸に入った。

 彼は祖母の養子で、父からは従兄弟になる。つまり、頼朝は自分の第二子の乳母夫をまた比企の者に託すつもりなのだ。

 嫡男か姫か。鎌倉中が固唾かたずを呑んで待つ中、アサ姫は無事に男児を出産した。待望の鎌倉殿の嫡男。皆がこぞって祝いに駆け付ける。

 だが直後に騒動が起きた。アサ姫の懐妊中に、頼朝は新田の姫に艶書えんしょを送っていた。また、伊豆の流人時代から関係のあった亀という女性を密かに鎌倉に招き入れて通っていたというのだ。
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