【完結】姫の前

やまの龍

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第3章 鎌倉の石

第6話 名馬・池月

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はぁ、と大きく息を吐く。まだ胸が大きく波打っている。久々だからだろうか。声を聞いたのはどのくらいぶりだろう?石橋山の合戦に向かう前にお護りを渡して以来だ。耳に残る低い声を思い返してぼんやり立っていたら、咳払いが聞こえた。振り返れば佐々木四郎高綱がこちらを見ていた。

「あーあ。こっちには全く気付いてくれないんだもんな」

 当て擦るように言われて、慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって」

掌を振って誤魔化そうとしたら、その左手を取られた。

「本当、驚いたぜ。竹を握り潰すんだもんな。ほら、見せてみろよ。俺、目はいいからさ」

 そう言ってヒメコの掌の傷口を丹念に見てくれる。
「うん、竹は残ってねぇな。後はしっかり洗って薬草貼っておけよ」
「え、四郎兄は薬草に詳しいの?」
驚いて問い返したら高綱は頷いた。
「ほんの少しだけな。昔、寺に入れられそうになったんだけど坊主になるのは嫌だから逃げ出したんだ。それから父の元に向かう途中で会った僧と少しだけ一緒に旅をして、その途中で色々教えて貰った」
「へえ、お坊様に」
相槌を打って高綱の横顔を見たヒメコは、その顔が冴えないのに気付く。
「どうかしました?」
声をかけたら、彼は空を見上げて暫く雲を眺めていたが、突然プルプルと首を横に振ってヒメコの横にしゃがみ込んだ。
「いや、何つーかさ。それで京から父の居る相模に着くまで色々あったんだけど、今思い出すとひどいこととか恥ずかしいこととか沢山しちまったんだよな。あれ、取り消せないかなって」
そうして、ハアと大きな溜め息をつく。
 ヒメコは何も言えず、ただその隣で空を見上げていた。こんな世の中なのだ。生きる為に皆あがいている。綺麗なままで生きられる人などいない。だから巫女は祓い続けなくてはいけないのだろうと改めて祖母の言葉を思い返す。
 
 その時、ドルルルルという地響きにも似た物凄い音が聴こえた。先程コシロ兄が出て来た、厩というにはかなり大きな建物からだった。馬がいなないたのだろうか。それにしても大きな音。

 佐々木四郎はパッと立ち上がるとヒメコの手を引いた。

「なーんて、暗くしてごめん。お詫びにすげーの見せてやるよ。驚くぜ?」
先程物凄い音がした方へと引っ張られる。
「いえ、私はすげーのには興味ありませんから」
そう言って逃げようとするも、ズルズルと引きずられて建物の入り口を跨いでしまう。中には数え切れないくらい多くの馬がいた。コシロ兄が言った通り食餌中だったようで、モシャモシャと草を食んでいる。

「わぁ」
興味ないと言った癖に、思わず感嘆の声をあげてしまう。

 中に一頭、一際美しい馬が居たのだ。黒光りする毛並の所々に白い斑点が浮かんでいる。

「な、すげーだろ?安房で千葉殿、上総殿と合流した後、陸路で鎌倉へ向かう途中に大きな池の畔で休んでいたら、いきなりこの馬が現れたんだ。野馬だし、余りに大きいもんだから皆驚いちまって捕らえるのに手こずったんだけど、俺ら兄弟で行く手を阻んで追い込んで、最後は根比べよ。嚙みつこうと歯をガチガチ鳴らしてくるのを必死で抑え込んだんだ。俺はこいつの耳を引っ掴んでたんだけどさ、ふと思いついて試してみたんだ」

「試したって何を?」

 問い返したら四郎はニヤッと笑った。

「馬の耳に念仏って本当かなってさ。で、般若心経を大声ですげー速さで耳元で叫んでやったの。そしたらこいつ急に大人しくなっちまって。それからゆっくり鎌倉まで連れて来れたってわけ。馬の耳に念仏って本当なんだな」

『馬の耳に念仏』ってそういう意味だったっけと思ったが、ヒメコは笑って頷いた。馬だってたまには念仏を聞いたっていいのではないか。でもふと思う。耳元で叫んだら大人しくなったということは、もしや耳が聞こえなくなって馬も驚いたのではないだろうか?ほんの少し心配になる。

 ヒメコは恐る恐るその黒光りする馬に話しかけた。

「大丈夫?お耳聞こえてる?さっきは食餌を邪魔してごめんね」

 そっと声をかけたら、白い斑点のあるその馬はピクンと耳を立ててヒメコの方を振り返った。その時、同時に西日が差し込んできて厩の中が明るくなる。黒光りしていたその毛は実は青く、薄灰色がかった綺麗な色をしていた。

「綺麗!夜空の星みたい」
「その通り!佐殿もすげー感動してさ。池月って名を付けたんだぜ。本当に格好いいよな。こんな逞しい馬、俺初めて見たよ。いいなぁ、欲しいなぁ」

 幼い子のように目を輝かせて池月を眺める高綱。男の人はやっぱり馬が好きなんだなと微笑ましく思う。コシロ兄も馬にはいつも優しい。

「そう言えば、さっき四郎兄って呼んでくれたろ」

 そう言われたら口走ってしまったかもしれない。
「あ、五郎君がそう呼んでいたので、つられてつい」

 四郎はニイと口の端を上げた。
「ちっと格上げだな」

 高綱は厩の奥の方にいた小柄な馬を引き出してきた。
「じゃ、俺はこれから渋谷殿の所に戻るからまたな」
そう言って馬の背にヒラリと跨る。

「傷口には弟切草おとぎりそうの葉と茎をよく揉んで、その汁をつけとくといいぜ。試してみな」
そう言って颯爽と駆け去っていった。

「有難うございます!」
慌てて礼を言ったが、顔を上げた時には高綱の姿はもう見えなくなっていた。


「いいなぁ」

そっと呟く。男たちは皆、楽しそうに馬に乗って駆けて行く。自分も馬に乗れたら比企庄でもどこでも自由に行けるのだろうか?
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