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第3章 鎌倉の石
第4話 大倉御所
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数日後、ヒメコは大倉の地で工事始めの神事を手伝った。ここに鎌倉の御所を建てるのだという。
「ヒメコ、そなたも姫の乳母として、また巫女としてこれからも二人の側に居てくれるか?」
頼朝に請われてヒメコは頷いた。
「そなたの父、比企朝宗殿は御家人として郎等を引き連れて参陣してくれている。但し、比企の家督を継ぐのは比企頼員という尼君の猶子だそうだな。そなたは知っているか?」
「はい。祖父の弟の子と聞いてます」
「その比企頼員を取り立てるよう尼君から言われたので、頼員には鎌倉の土地を一部与えるが、朝宗は尼君の実子ゆえ、普段は武蔵国の比企に尼君と共に居たいそうだ。鎌倉には屋敷を建てるだけの狭い土地で良いと。だからヒメコが御所から退出したい時は、その鎌倉の屋敷に戻れば良い。いいな?」
はい、と返事をするが、退出という言葉や御所という言葉が全く身に馴染まない。何が何だかわからないけれど、とにかくアサ姫と八幡姫の側についていればいいのだろうと理解して、ヒメコは八幡姫をあやしながら過ごした。
「殿は朝になったら兵を率いて駿河国に向かうそうよ」
そうアサ姫が呟いたのは、夜も更けた頃だった。ヒメコは驚いて立ち上がる。部屋を飛び出そうとした所をアサ姫に止められた。
「平気よ。御所の工事始めの神事を行なえるくらい余裕があるんですもの。それに此度は東国の武士が一堂に会して、何万騎と西に向かうから心配要らないって。安心して待てと笑って言っていたわ」
そして翌日、頼朝は兵を率いて鎌倉を発った。平家の少将、平維盛が数万の軍で鎌倉を目指しているという。でもそれに対して頼朝の軍は数十万。それに駿河国は牧の方の実家もあり地の利がある。北条時政、義時父子も既に戰準備を整えて待っているから、そこで迎え討つとのことだった。
コシロ兄が戰準備?あの静かな人に似合わないと思ってしまうが、時政の陰で、それを支える役を果たしているのだろう。
戦は兵の数だけでは単純に考えられないと聞くけど、土肥へと数百騎で向かった石橋山への出陣の朝よりは心に余裕が持てる気がする。頼朝はきっと勝って戻るだろう。それでも掌を合わせて一心に祈る。ふと気付けば八幡姫が隣に座って同じように頭を垂れていた。
「まぁ、姫さま。ご一緒に祈りましょうか」
「うん。姫姉ちゃまは祈るのがお役目なんでしよ?姫もおてつだいするね」
そう言って、小さな掌を合わせてナムナムと口ずさむ八幡姫。愛らしいその姿に、ヒメコは改めて神に丁寧な祈りを捧げた。どうか皆が無事で戻りますように。姫がいつも笑顔でいられますように。
頼朝が鎌倉に戻ってきたのはそれから十日程経った頃だった。新しく出来上がった大倉の御邸に入ったとのことで、アサ姫の所に迎えが来た。ヒメコと八幡も共に大倉の新邸に向かうが、頼朝はまた直ぐに常陸国に向かうらしい。
「常陸国に?何故また」
「佐竹を討つ。他にもまだ私に恭順の意を示さぬ者らがいる。それら全てを平定せねば京には上がれぬ」
問うたアサ姫に言葉短かにそれだけ答えて頼朝は席を立とうとした。
「京?駿河国まて攻めて来たという平家の軍はどうなったのです?」
すると頼朝は、ああと笑った。
「平家の軍は尻尾を巻いて逃げて行ったぞ」
ヒメコはアサ姫と顔を見合わせた。逃げて行った?合戦に負けて敗走していったたということではなくて?
数で負けたからと逃げたのだろうか?でも、それでも刃を交えないということがあるだろうか。狐につままれたような気持ちでアサ姫と首を傾げるが、その理由は後日になってわかった。
東西の両軍は富士川を挟んで陣を敷いていたが、甲斐源氏の案で平家方の背後から奇襲をかけようとしたらしい。だが、その気配に水鳥が驚いて一斉に飛び立ち、その羽音を聞いた平家の軍勢は敵襲と勘違いして大慌てで引き返していったという。
「とにかく、先ずは勝ったということね」
アサ姫がホッと息を吐く。
「姫さま、勝利ですって。姫さまのお祈りが効いたのですね」
ヒメコは八幡姫と並んで感謝の祈りを捧げた。
「きっとすぐにお戻りですよ」
だが、常陸国に向かった頼朝が次に鎌倉に戻ってきたのは、頼朝が鎌倉を発ってから一月ばかりした霜月半ばの寒い午後だった。
大勢の武者を引き連れての凱旋。大きな邸の南側の庭がガシャガシャと酷く騒がしくなる。山木攻めの翌日の庭の光景を思い出して身が震える。また首が晒されて並んでいるのだろうか?
だが、武者達の声はすぐに散開していき、最後には辺りはしんと静まり返った。どうしたことだろう?
不思議に思いつつ覗き見する勇気はなくてじっと待つ。そこへ一人の侍女が現れ、アサ姫に何かを伝えた。
「ヒメコ、彼女に付いて行きなさい。お父君がお待ちだそうよ」
ヒメコが侍女の後を追って、やけに広い間取りの部屋に着いたら、そこには父の姿があった。
「父さま!あ、いえ、父上。お久しぶりです」
挨拶をして頭を下げる。
「半年ぶりか?見違えたぞ。御台さまに可愛がっていただいているようだな」
変わらぬ笑顔がそこにあった。
はい、と頷いて、改めて父を見て気付く。父は甲冑姿で立っていた。
「合戦帰りなのですね」
「ああ。鎌倉の屋敷は今建てている途中だから、今から比企に戻る。近く屋敷が完成したら、そこと比企とを往き来することになるだろう。姫にももっと頻繁に会える筈だ」
「本当ですか?父上が鎌倉に」
嬉しくて声が華やぐ。でもふと気付いた。
「お怪我は?父さまが刀を手にするなんて」
父が剣を振っている所など見たことがない。恐々と父を見上げるヒメコの頭を優しく撫でて父は笑った。
「いや、私はただ馬に跨って皆の後を付いて行っただけさ。武力などハナからアテにされてない。母の名代としてその場に参陣するだけたから安心しておくれ」
おっとりと言われ、はいと素直に頷く。
「おっと。そろそろ比企に向かわねばお前の母が心配するだろうから行くよ。だが元気な顔が見られて良かった。二人にもそう伝えておくからな」
そう言って父は去って行った。ヒメコはその後ろ姿を見送りながら懐かしい比企庄を思い出していた。
佐殿は本当に東国を平定したのだ。各武将たちはそれぞれの土地に戻ったのだろう。コシロ兄のことを考える。コシロ兄は伊豆の江間に戻ったんだろうか。そこでは八重姫が待っている筈。そう思うと胸がきゅうと苦しくなる。
この想いを消すには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「ヒメコ、そなたも姫の乳母として、また巫女としてこれからも二人の側に居てくれるか?」
頼朝に請われてヒメコは頷いた。
「そなたの父、比企朝宗殿は御家人として郎等を引き連れて参陣してくれている。但し、比企の家督を継ぐのは比企頼員という尼君の猶子だそうだな。そなたは知っているか?」
「はい。祖父の弟の子と聞いてます」
「その比企頼員を取り立てるよう尼君から言われたので、頼員には鎌倉の土地を一部与えるが、朝宗は尼君の実子ゆえ、普段は武蔵国の比企に尼君と共に居たいそうだ。鎌倉には屋敷を建てるだけの狭い土地で良いと。だからヒメコが御所から退出したい時は、その鎌倉の屋敷に戻れば良い。いいな?」
はい、と返事をするが、退出という言葉や御所という言葉が全く身に馴染まない。何が何だかわからないけれど、とにかくアサ姫と八幡姫の側についていればいいのだろうと理解して、ヒメコは八幡姫をあやしながら過ごした。
「殿は朝になったら兵を率いて駿河国に向かうそうよ」
そうアサ姫が呟いたのは、夜も更けた頃だった。ヒメコは驚いて立ち上がる。部屋を飛び出そうとした所をアサ姫に止められた。
「平気よ。御所の工事始めの神事を行なえるくらい余裕があるんですもの。それに此度は東国の武士が一堂に会して、何万騎と西に向かうから心配要らないって。安心して待てと笑って言っていたわ」
そして翌日、頼朝は兵を率いて鎌倉を発った。平家の少将、平維盛が数万の軍で鎌倉を目指しているという。でもそれに対して頼朝の軍は数十万。それに駿河国は牧の方の実家もあり地の利がある。北条時政、義時父子も既に戰準備を整えて待っているから、そこで迎え討つとのことだった。
コシロ兄が戰準備?あの静かな人に似合わないと思ってしまうが、時政の陰で、それを支える役を果たしているのだろう。
戦は兵の数だけでは単純に考えられないと聞くけど、土肥へと数百騎で向かった石橋山への出陣の朝よりは心に余裕が持てる気がする。頼朝はきっと勝って戻るだろう。それでも掌を合わせて一心に祈る。ふと気付けば八幡姫が隣に座って同じように頭を垂れていた。
「まぁ、姫さま。ご一緒に祈りましょうか」
「うん。姫姉ちゃまは祈るのがお役目なんでしよ?姫もおてつだいするね」
そう言って、小さな掌を合わせてナムナムと口ずさむ八幡姫。愛らしいその姿に、ヒメコは改めて神に丁寧な祈りを捧げた。どうか皆が無事で戻りますように。姫がいつも笑顔でいられますように。
頼朝が鎌倉に戻ってきたのはそれから十日程経った頃だった。新しく出来上がった大倉の御邸に入ったとのことで、アサ姫の所に迎えが来た。ヒメコと八幡も共に大倉の新邸に向かうが、頼朝はまた直ぐに常陸国に向かうらしい。
「常陸国に?何故また」
「佐竹を討つ。他にもまだ私に恭順の意を示さぬ者らがいる。それら全てを平定せねば京には上がれぬ」
問うたアサ姫に言葉短かにそれだけ答えて頼朝は席を立とうとした。
「京?駿河国まて攻めて来たという平家の軍はどうなったのです?」
すると頼朝は、ああと笑った。
「平家の軍は尻尾を巻いて逃げて行ったぞ」
ヒメコはアサ姫と顔を見合わせた。逃げて行った?合戦に負けて敗走していったたということではなくて?
数で負けたからと逃げたのだろうか?でも、それでも刃を交えないということがあるだろうか。狐につままれたような気持ちでアサ姫と首を傾げるが、その理由は後日になってわかった。
東西の両軍は富士川を挟んで陣を敷いていたが、甲斐源氏の案で平家方の背後から奇襲をかけようとしたらしい。だが、その気配に水鳥が驚いて一斉に飛び立ち、その羽音を聞いた平家の軍勢は敵襲と勘違いして大慌てで引き返していったという。
「とにかく、先ずは勝ったということね」
アサ姫がホッと息を吐く。
「姫さま、勝利ですって。姫さまのお祈りが効いたのですね」
ヒメコは八幡姫と並んで感謝の祈りを捧げた。
「きっとすぐにお戻りですよ」
だが、常陸国に向かった頼朝が次に鎌倉に戻ってきたのは、頼朝が鎌倉を発ってから一月ばかりした霜月半ばの寒い午後だった。
大勢の武者を引き連れての凱旋。大きな邸の南側の庭がガシャガシャと酷く騒がしくなる。山木攻めの翌日の庭の光景を思い出して身が震える。また首が晒されて並んでいるのだろうか?
だが、武者達の声はすぐに散開していき、最後には辺りはしんと静まり返った。どうしたことだろう?
不思議に思いつつ覗き見する勇気はなくてじっと待つ。そこへ一人の侍女が現れ、アサ姫に何かを伝えた。
「ヒメコ、彼女に付いて行きなさい。お父君がお待ちだそうよ」
ヒメコが侍女の後を追って、やけに広い間取りの部屋に着いたら、そこには父の姿があった。
「父さま!あ、いえ、父上。お久しぶりです」
挨拶をして頭を下げる。
「半年ぶりか?見違えたぞ。御台さまに可愛がっていただいているようだな」
変わらぬ笑顔がそこにあった。
はい、と頷いて、改めて父を見て気付く。父は甲冑姿で立っていた。
「合戦帰りなのですね」
「ああ。鎌倉の屋敷は今建てている途中だから、今から比企に戻る。近く屋敷が完成したら、そこと比企とを往き来することになるだろう。姫にももっと頻繁に会える筈だ」
「本当ですか?父上が鎌倉に」
嬉しくて声が華やぐ。でもふと気付いた。
「お怪我は?父さまが刀を手にするなんて」
父が剣を振っている所など見たことがない。恐々と父を見上げるヒメコの頭を優しく撫でて父は笑った。
「いや、私はただ馬に跨って皆の後を付いて行っただけさ。武力などハナからアテにされてない。母の名代としてその場に参陣するだけたから安心しておくれ」
おっとりと言われ、はいと素直に頷く。
「おっと。そろそろ比企に向かわねばお前の母が心配するだろうから行くよ。だが元気な顔が見られて良かった。二人にもそう伝えておくからな」
そう言って父は去って行った。ヒメコはその後ろ姿を見送りながら懐かしい比企庄を思い出していた。
佐殿は本当に東国を平定したのだ。各武将たちはそれぞれの土地に戻ったのだろう。コシロ兄のことを考える。コシロ兄は伊豆の江間に戻ったんだろうか。そこでは八重姫が待っている筈。そう思うと胸がきゅうと苦しくなる。
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