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第2章 源氏の白巫女
第14話 鬼
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佐殿はヒメコが肩にかけていたおんぶ紐に手をかけた。
「姫は私が背負う。お前は一度屋敷に戻って眠れ。男たちが戻れば、また慌ただしくなる。今のうちに休んでおけ」
八幡姫は佐殿の背に移されても気付かないくらいすっかり寝入っていた。ヒメコは頷いて北条屋敷を後にした。シンペイのこと、コシロ兄のこと、様々なことは気にかかるが、どうしようもない。部屋へと戻り、少しだけ、とそのまま横になる。
だが次に気付いたら朝になっていた。蔀戸から漏れる日の光に複数の男の声、大勢の人の気配。
しまった、寝過ごした。急いで身支度を整えて外に出る。北条館の前には男たちが群れ集っていた。
——戻ってきた!
飛び出したヒメコの前に五郎が立ち塞がった。
「姫姉ちゃん、こっち来ちゃ駄目。戻って!」
通せんぼをされて足を留めるが、その先のものをヒメコは見てしまった。
縁の下に並べられた幾つかの生首。血に染まった男たちの鎧や刀。むせ返るような血の臭い。死の臭い。
そして、縁の端に立って、それらを腕を組んで見下ろす佐殿。無表情なその横顔はヒメコが初めて目にするもので、少なからず動揺してしまう。
鬼のような、という言葉が浮かぶ。
本当に鬼武者なんだ。祖母はもしや彼のこの顔を視て、あの幼名を進言したのだろうか?
戦とは命のやりとり。攻める方も守る方もどちらも自らの命をかけて行なうもの。そこでは生か死かはっきりと区切られる。死ねば首を取られ、晒される。
でも、生きたら生きたで次の戦に向かう。次の戦で死ぬかも知れないし、また生き残るかも知れない。武士とはそうやって生きる限り戦い続ける。それを女は見送るだけ。無事を祈って待つだけ。
そう思うとやりきれない気がする。
「まぁ、ヒメコ。青い顔をしてどうしたの?」
アサ姫の顔を見たら何かがぷつんと切れた。ヒメコはアサ姫に駆け寄って抱きついた。そのまま泣きじゃくる。アサ姫は何も言わずに力強く抱きしめ返してくれた。
男たちの喧騒は日が暮れてもずっと続いていた。ヒメコは戸を固く閉じ、着物にくるまって、何も聞かぬよう考えぬようひたすら声明を小さく唄いながら夜をあかした。
翌朝、ヒメコはいつも通り早起きはしたものの、昨日の庭の様子を思い出すと足が竦んで掃き掃除をしに表に出る勇気が出ず、とりあえずとアサ姫の元に出向く。
アサ姫は笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、ヒメコ。早速だけど握り飯をたくさん作るから手伝ってくれる?漬け物も取り出してあるからどんどん切って並べてちょうだい。その次は汁に味噌を溶いて味を見てね。大きい鍋の方よ。そっちは男たちの分だから味は少し濃い目でお願い」
気遣ってくれてるのだろう。ヒメコは努めて笑顔で返事をすると襷をかけて働き始めた。
暫くした頃、五郎が顔を出した。
「大姉上、小四郎兄を呼んで来たよ。運ぶのはどの鍋?」
現れた気配にヒメコはハッと息を呑んだ。そこにはコシロ兄がいつもの静かな佇まいで立っていた。
——良かった。無事だった。
アサ姫が答える。
「ヒメコの前の大鍋よ。ヒメコ、どう?出来上がってたら小四郎に広間に運んで貰って」
「いいか?」
コシロ兄に低い声で問われ、ヒメコはコクコクと頷いた。
——良かった。無事に戻ってきた。
すぐ隣に立つコシロ兄の気配にドキドキしながら、ヒメコは身動き出来ずにじっとしていた。コシロ兄はいつもと変わらぬ様子で鍋の中を見ている。ホッとする。
——怪我もしてないみたい。
でもコシロ兄は鍋を一度持ち上げたものの、そっと香りを嗅いで戻した。
「味噌の香りがない。入れ忘れてないか?」
「あ!」
振り返れば、入れる予定だった味噌がそのまま置き去りになっていた。
「ごめんなさい。私、うっかりして」
慌てて味噌の入った小鉢を取りに駆けたら、台の足に爪先を取られた。
「きゃあ!」
目の前には火にかけられた鍋。
零してしまう!と鍋ではなく竈に手をつこうとした時、襟首を掴まれて引き戻された。
「慌てるな」
ごめんなさいと小さく謝ってヒメコはその場に縮こまった。
コシロ兄は味噌を取ると慣れた手付きで汁に溶き始める。小皿で味見をすると鍋を持って出て行った。
「コシロ兄は煮炊きも出来るんですか?」
アサ姫に聞いたら、当然よという顔をされた。
「うちは大所帯だしね。それに狩場や戦場では煮炊きは男の仕事。小さい頃から仕込んであるわ。ま、本人はあまり食べないんだけどね」
「へぇ」
返事をしながらヒメコは改めて武家の逞しさを思った。その点、比企は東国に暮らしているものの呑気なものだった。未だに光源氏の世界にいるような雰囲気さえある。多分に都の公家達の生活に近いのだろう。都の平家一門は自らは在京したまま現地に代官を送るか在地の豪族を家人として領地を守らせてきた。そうやってずっと頭を押さえられてきた武士達。でも、ここ最近の都での政変で、その力関係に大きな亀裂が入りつつある。武士達が反乱を起こすのは不思議でないのだろう。
でも戦が起きれば必ず人が死ぬ。首を晒される。
皆が揃って平和に暮らす道はないんだろうか?
男たちの食事の準備が整い、ヒメコはザルに盛られた握り飯を広間へと運んだ。我先にと手を伸ばす男たちによって、ザルの上の山はあっという間に消える。次のザルを取りに戻ろうとした時、袖をツンと引っ張られた。
「よぉ、無事戻ったぞ」
佐々木四郎だった。
「なぁ、俺の大活躍聞いてくれた?」
満開の笑顔で問われ、答えに詰まった時、四郎の横から三郎盛綱が口を出した。
「何が大活躍だ。俺の方が大変だったんだぞ。お前なんて忍び込んだだけじゃねーか」
「何言ってやがる。三郎兄は途中までグースカ眠ってたそうじゃねーか。なのに最後の最後に加藤に出し抜かれやがって。佐々木の恥だぜ、恥!」
「何だと!俺は佐殿を護るという大切なお役目をこなしてたんだ。加藤のヤツは長刀を佐殿に貰った上に抜け駆けしやがったんだぞ」
すると、加藤が斜めから顔を出す。
「ヘッ。俺は長刀持ってても足が速いんだよ。お前は手ぶらなのにノロマなんだな。祭り帰りの女に見惚れてぬかるみにでもハマったんじゃねぇの?」
「何だと、このやろう!見惚れちゃねぇよ!ってお前も見てたってことじゃねぇか!なのに何で!やっぱ佐殿の長刀の力だったんだな。クソ、俺だってあれ狙ってたってのによ。許せねぇ!俺に寄越せ!」
「あれは佐殿が直々に俺に下されたもの。末代までの宝にするんだ。誰がお前みたいな間抜けにやるもんか!」
「間抜けだとぉ?テメエやるか?
戦を終えて興奮状態の男たちは常より更にガラが悪い。
取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになってヒメコはオロオロと辺りを見回した。少し離れた所にコシロ兄がいたが、コシロ兄は我関せずの顔で汁をすすっている。男たちの大声には大分慣れたものの、喧嘩になってはたまらない。オロオロと逃げ場を探した時、バンと戸が大きく開かれた。アサ姫だった。アサ姫は仁王立ちして一喝する。
「あんた達、喧嘩するなら今すぐここから出て行きなさい!あんたらが今すべきことは、黙ってよく噛んで腹に入れた食物を自らの血肉にしっかりと変えて次の戦に備えることでしょ。喋っててそれが出来ると思ってんの?次に無駄口叩いて汁を溢したり米粒を落としたりして食べ物を粗末にしようもんなら、今後は量を減らすから、その覚悟でいなさい!」
アサ姫の怒号に男たちは黙々と握り飯を頬張り、味噌汁を飲み込んだ。
静かになったその場を見計らったかのように、いや多分に間を見計らっていたのだろう。のほほん顔の佐殿が現れる。
「姫は私が背負う。お前は一度屋敷に戻って眠れ。男たちが戻れば、また慌ただしくなる。今のうちに休んでおけ」
八幡姫は佐殿の背に移されても気付かないくらいすっかり寝入っていた。ヒメコは頷いて北条屋敷を後にした。シンペイのこと、コシロ兄のこと、様々なことは気にかかるが、どうしようもない。部屋へと戻り、少しだけ、とそのまま横になる。
だが次に気付いたら朝になっていた。蔀戸から漏れる日の光に複数の男の声、大勢の人の気配。
しまった、寝過ごした。急いで身支度を整えて外に出る。北条館の前には男たちが群れ集っていた。
——戻ってきた!
飛び出したヒメコの前に五郎が立ち塞がった。
「姫姉ちゃん、こっち来ちゃ駄目。戻って!」
通せんぼをされて足を留めるが、その先のものをヒメコは見てしまった。
縁の下に並べられた幾つかの生首。血に染まった男たちの鎧や刀。むせ返るような血の臭い。死の臭い。
そして、縁の端に立って、それらを腕を組んで見下ろす佐殿。無表情なその横顔はヒメコが初めて目にするもので、少なからず動揺してしまう。
鬼のような、という言葉が浮かぶ。
本当に鬼武者なんだ。祖母はもしや彼のこの顔を視て、あの幼名を進言したのだろうか?
戦とは命のやりとり。攻める方も守る方もどちらも自らの命をかけて行なうもの。そこでは生か死かはっきりと区切られる。死ねば首を取られ、晒される。
でも、生きたら生きたで次の戦に向かう。次の戦で死ぬかも知れないし、また生き残るかも知れない。武士とはそうやって生きる限り戦い続ける。それを女は見送るだけ。無事を祈って待つだけ。
そう思うとやりきれない気がする。
「まぁ、ヒメコ。青い顔をしてどうしたの?」
アサ姫の顔を見たら何かがぷつんと切れた。ヒメコはアサ姫に駆け寄って抱きついた。そのまま泣きじゃくる。アサ姫は何も言わずに力強く抱きしめ返してくれた。
男たちの喧騒は日が暮れてもずっと続いていた。ヒメコは戸を固く閉じ、着物にくるまって、何も聞かぬよう考えぬようひたすら声明を小さく唄いながら夜をあかした。
翌朝、ヒメコはいつも通り早起きはしたものの、昨日の庭の様子を思い出すと足が竦んで掃き掃除をしに表に出る勇気が出ず、とりあえずとアサ姫の元に出向く。
アサ姫は笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、ヒメコ。早速だけど握り飯をたくさん作るから手伝ってくれる?漬け物も取り出してあるからどんどん切って並べてちょうだい。その次は汁に味噌を溶いて味を見てね。大きい鍋の方よ。そっちは男たちの分だから味は少し濃い目でお願い」
気遣ってくれてるのだろう。ヒメコは努めて笑顔で返事をすると襷をかけて働き始めた。
暫くした頃、五郎が顔を出した。
「大姉上、小四郎兄を呼んで来たよ。運ぶのはどの鍋?」
現れた気配にヒメコはハッと息を呑んだ。そこにはコシロ兄がいつもの静かな佇まいで立っていた。
——良かった。無事だった。
アサ姫が答える。
「ヒメコの前の大鍋よ。ヒメコ、どう?出来上がってたら小四郎に広間に運んで貰って」
「いいか?」
コシロ兄に低い声で問われ、ヒメコはコクコクと頷いた。
——良かった。無事に戻ってきた。
すぐ隣に立つコシロ兄の気配にドキドキしながら、ヒメコは身動き出来ずにじっとしていた。コシロ兄はいつもと変わらぬ様子で鍋の中を見ている。ホッとする。
——怪我もしてないみたい。
でもコシロ兄は鍋を一度持ち上げたものの、そっと香りを嗅いで戻した。
「味噌の香りがない。入れ忘れてないか?」
「あ!」
振り返れば、入れる予定だった味噌がそのまま置き去りになっていた。
「ごめんなさい。私、うっかりして」
慌てて味噌の入った小鉢を取りに駆けたら、台の足に爪先を取られた。
「きゃあ!」
目の前には火にかけられた鍋。
零してしまう!と鍋ではなく竈に手をつこうとした時、襟首を掴まれて引き戻された。
「慌てるな」
ごめんなさいと小さく謝ってヒメコはその場に縮こまった。
コシロ兄は味噌を取ると慣れた手付きで汁に溶き始める。小皿で味見をすると鍋を持って出て行った。
「コシロ兄は煮炊きも出来るんですか?」
アサ姫に聞いたら、当然よという顔をされた。
「うちは大所帯だしね。それに狩場や戦場では煮炊きは男の仕事。小さい頃から仕込んであるわ。ま、本人はあまり食べないんだけどね」
「へぇ」
返事をしながらヒメコは改めて武家の逞しさを思った。その点、比企は東国に暮らしているものの呑気なものだった。未だに光源氏の世界にいるような雰囲気さえある。多分に都の公家達の生活に近いのだろう。都の平家一門は自らは在京したまま現地に代官を送るか在地の豪族を家人として領地を守らせてきた。そうやってずっと頭を押さえられてきた武士達。でも、ここ最近の都での政変で、その力関係に大きな亀裂が入りつつある。武士達が反乱を起こすのは不思議でないのだろう。
でも戦が起きれば必ず人が死ぬ。首を晒される。
皆が揃って平和に暮らす道はないんだろうか?
男たちの食事の準備が整い、ヒメコはザルに盛られた握り飯を広間へと運んだ。我先にと手を伸ばす男たちによって、ザルの上の山はあっという間に消える。次のザルを取りに戻ろうとした時、袖をツンと引っ張られた。
「よぉ、無事戻ったぞ」
佐々木四郎だった。
「なぁ、俺の大活躍聞いてくれた?」
満開の笑顔で問われ、答えに詰まった時、四郎の横から三郎盛綱が口を出した。
「何が大活躍だ。俺の方が大変だったんだぞ。お前なんて忍び込んだだけじゃねーか」
「何言ってやがる。三郎兄は途中までグースカ眠ってたそうじゃねーか。なのに最後の最後に加藤に出し抜かれやがって。佐々木の恥だぜ、恥!」
「何だと!俺は佐殿を護るという大切なお役目をこなしてたんだ。加藤のヤツは長刀を佐殿に貰った上に抜け駆けしやがったんだぞ」
すると、加藤が斜めから顔を出す。
「ヘッ。俺は長刀持ってても足が速いんだよ。お前は手ぶらなのにノロマなんだな。祭り帰りの女に見惚れてぬかるみにでもハマったんじゃねぇの?」
「何だと、このやろう!見惚れちゃねぇよ!ってお前も見てたってことじゃねぇか!なのに何で!やっぱ佐殿の長刀の力だったんだな。クソ、俺だってあれ狙ってたってのによ。許せねぇ!俺に寄越せ!」
「あれは佐殿が直々に俺に下されたもの。末代までの宝にするんだ。誰がお前みたいな間抜けにやるもんか!」
「間抜けだとぉ?テメエやるか?
戦を終えて興奮状態の男たちは常より更にガラが悪い。
取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになってヒメコはオロオロと辺りを見回した。少し離れた所にコシロ兄がいたが、コシロ兄は我関せずの顔で汁をすすっている。男たちの大声には大分慣れたものの、喧嘩になってはたまらない。オロオロと逃げ場を探した時、バンと戸が大きく開かれた。アサ姫だった。アサ姫は仁王立ちして一喝する。
「あんた達、喧嘩するなら今すぐここから出て行きなさい!あんたらが今すべきことは、黙ってよく噛んで腹に入れた食物を自らの血肉にしっかりと変えて次の戦に備えることでしょ。喋っててそれが出来ると思ってんの?次に無駄口叩いて汁を溢したり米粒を落としたりして食べ物を粗末にしようもんなら、今後は量を減らすから、その覚悟でいなさい!」
アサ姫の怒号に男たちは黙々と握り飯を頬張り、味噌汁を飲み込んだ。
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