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第2章 源氏の白巫女
第10話 混迷
しおりを挟む夜半、ヒメコはふと目を覚ました。子の泣く声がする。ヒメコは枕元に畳んで置いていた水干を羽織り、袴を着けると立ち上がった。部屋を出て耳を澄ませる。
泣き声は佐殿とアサ姫、そして八幡姫の部屋からだった。夜泣きだろうか。アサ姫のあやす声もする。
二年前、比企に戻る前にも、時折八幡姫が夜にぐずることがあった。でも大抵はアサ姫が抱いて乳をやるとすぐに泣き止んだ。それなりの家の姫は自らの乳をやらず、乳母に全てを任せることが普通だったが、アサ姫は八幡姫に自らの乳をやり、抱いて寝かしつけ、世話のほぼ全てを自らでやっていたので、ヒメコは乳母と言っても名ばかりで、アサ姫が家事をやる時に替わっておぶり、あやすくらいしかしてなかった。たまに夜泣きが長い時におんぶして庭を歩き回ったことが何度かあったくらいだった。
——どうしよう?
八幡姫の泣き声は止まない。中からぼそぼそと人が話す気配もする。でも呼ばれないのに声をかけるわけにもいかない。
ヒメコが逡巡していると
「そこに居るのは誰だ?」
佐殿の声がした。
昔から佐殿は人の気配に敏い。
命が危うかった経験があるからだろうか。比企の館で寛いでいても、人の気配や僅かな空間の変化に敏感だった。
「ヒメコです。姫さまの泣き声が聞こえましたので。もし夜泣きでしたら、私がおぶって庭を回って来ましょうか?」
声をかける。
少しの沈黙の後、アサ姫の声が答えた。
「ええ。ヒメコ、ありがとう。でも先ずは入って来てくれる?」
小さく返事をして静かに戸を開ける。
中は暗いままだったが、ヒメコも暗闇から来た身。すぐに見えるようになる。
手前で胡座をかいて俯いているのが佐殿。その奥に八幡姫を前に抱っこしたアサ姫が横坐りしている。ヒメコが礼をしてアサ姫の側に寄ったら、俯いていた佐殿が口を開いた。
「私が寝ぼけて叫んでしまったそうなのだ。裏切られた。許さん。信じた私が愚かだったと、大きな声でそう叫んだらしい。それで姫を起こしてしまった」
佐殿はそう言うと頭を抱え込み、ドンと床を叩いた。
ヒメコは懐から守り袋を出し、佐殿へと差し出した。
「何だ、これは?」
「祖母から預かった守り袋です。佐殿はお小さい頃からよくうなされる子だったと。佐殿が夜眠れぬようならば、それを差し上げるよう言われておりました」
すると佐殿は、その守り袋をバンと床に叩きつけた。
「私はもう子どもではない!合戦前だぞ。こんなものに頼っている場合ではない。ふざけるな!」
頭を掻きむしり、立てた膝に額を乗せて、うぅ、うぅ、と唸り出す佐殿。困惑する女達の前で佐殿はブツブツ喋り始めた。
「そうだ、私が愚かだったのだ。何故、佐々木の兄弟を行かせてしまったのか。裏切るかもしれぬという予感はあったのに」
「殿!何てことを言い出すの」
アサ姫が声をあげるが、佐殿は止まらない。
「いや、そもそもどうして令旨を受け取ってしまったのか。何故、舅殿や三郎と挙兵の相談などしてしまったのか。もしや全てが罠だったのではないか?それともこれが私の運めということか?私も父のように裏切られて殺されるべく今生きてるのか?」
「あなた、止めて!」
アサ姫の悲鳴に八幡姫が呼応した。火がついたように泣き叫ぶ八幡姫。
「いや、そもそも私は何故伊豆に流されたのだ。あの時、処刑される筈だったのに」
その時、アサ姫がバッと立ち上がった。抱えていた八幡姫をヒメコに手渡すと佐殿の正面に立つ。
「いい加減になさい!」
叫ぶと同時にアサ姫はその足を振り上げた。
——ドカッ!
佐殿は腹を蹴り上げられ、吹っ飛んで後ろの壁に激突した。
「う、う」
腹を抱えて呻く佐殿。ヒメコは呆気に取られるばかりで、八幡姫を抱きしめる他なかった。
「お、おまえ、何をする!」
「蹴ったのよ。目は覚めた?」
乱れた裾をサッと直したアサ姫は、続いて 袂から布を出し、くるくると襷をかけ始めた。そして部屋の隅に置いてある弓の前まで歩いて行き、その脇に置いてあった皮の細い袋を左腕に通して紐を結び、矢筒を肩にかける。
「な、何をしてる?まさか私を」
ヒメコは八幡姫を抱き上げて、いつでも動けるようにと身構えた。例え二人に何があろうと、八幡姫だけは守る。
「まさか私を、何?殺すとでも?」
アサ姫は常よりも更に低い声で佐殿を睨みつけた。闇の中なのに仄かに光っているように見える。龍の目だとヒメコは思った。
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