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第2章 源氏の白巫女
第1話 八幡姫
しおりを挟む二年振りの北条館は大分様子が変わっていた。妹姫たちは変わらず歓待してくれたが、二年前には不在だった当主が新しい妻を連れて戻ったことで、館内の細雰囲気が一気に変わったようだった。家内を切り盛りするのは当主の妻の役割とはいえ、先妻亡き後、ずっと長女として家内を切り盛りしてきたのはアサ姫。なのに新しい妻はアサ姫と同じ歳だったのだ。嫁と小姑。ただでさえ館内に女権力者が二人という面倒な関係の上、同い歳。当然、館内の空気はどこか張り詰めていてどうにも落ち着きがない。前は質素だけれど清潔で落ち着いた雰囲気だったのが、今はあちこちに華やかな布やら小物やらが置き散りばめられ、どこかツンと澄ました公家風の誂えになっていた。三の姫曰く、当主である北条時政は新しい妻にすっかり尻に敷かれているらしく、まるで頼りにならないとのこと。新しい北の方に挨拶をとヒメコが目通りを願ったら、その必要はないと言う。
「大姉上と佐殿は隣に屋敷を建てて貰ってそちらに移ったのよ。だからヒメコ様もそちらの方がいいわ」
そう言ってヒメコの手を取って外へと連れ出す。それからひよと振り返った。
「ところで小四郎兄上にはもう会った?」
問われ、首を横に振る。佐殿の馬に乗せられて北条館に辿り着いたものの、馬屋にはコシロ兄の姿はなく、やはりもうここには居ないのだと内心がっかりしていたのだ。
「え、コシロ兄はまだこちらに居らっしゃるの?」
尋ねたら、三の姫はニマニマと笑ってヒメコの耳に口を寄せた。
「そうなのよ。一応、江間に土地と館は与えられて妻は娶ったんだけどね。全然そちらには行かないで、この北条の片隅の小屋に寝泊まりしてるのよ。父さんやあの人は文句言ってるけどね。でも仕方ないわよ。だってお相手が八重姫なんですもの。伊東のじーさん、ホント性格悪いわ。佐殿がここの入り婿になったってのは噂で聞いただろうに、いくらもう手駒が無いからって、酷い目に遭わせた娘をその当の恋人の義弟に送りつけてくるなんてさ。だって江間と佐殿のいるここは隣同士なのよ?思い遣りがないにも程があるわよねぇ」
「隣?」
「そうよ。江間は北条の隣。殆ど敷地内って言っていいくらいの小さな川の間。だから江間って名前なの。ほら、ヒメコ様がいつだか川が増水したって濡れて帰ってきたことがあったじゃない。あそこよ」
言われて思い出す。突然増水した小川のほとりに佇んでいたコシロ兄。あれはいずれ自分が治める土地を見廻っていたのだろうか。
「そう。ではコシロ兄は今は江間で八重姫とお暮らしなのね」
手を引かれ命を救って貰った遠い日を思い出しながら、そっと感傷に浸ったヒメコの耳が引っ張られる。
「ヒメコ様ったら、ちゃんと聞いてる?だからね、江間に館があって八重様はそこで暮らしてるけど、小四郎兄はそちらには寄り付かず、こっちに居るんだってば。馬屋で会わなかったの?」
「いえ、お会いしてないわ」
首を横に振ったヒメコに、三の姫はふぅんと首を傾げた後、バンとヒメコの背を叩いた。
「というわけだから頑張ってね!」
それだけ言って戻っていく。
「あの、佐殿のお屋敷は?」
慌てて尋ねたら、そっちの奥よ、と林の方を指差して三の姫は館内に姿を消した。
頑張ってと言われても、妻の居る人に何をどう頑張れというのか。そう思いつつ、つい目は馬屋へと向いてしまう。
——挨拶くらいなら。前に送って貰った時に御礼もお見送りも出来なかったし。
そんな言い訳を考える自分に微妙な浅ましさを感じてチラと館の方に目を向け、それでもいつかは会うことになるのだからお礼だけは、と勇気を振り絞って馬屋へと足を向ける。その瞬間、ぐいと手を引っ張られた。
「姫姉ちゃん、お帰りなさい!」
声をかけられて振り返れば、記憶の中のそれより、ずっと背が伸びてヒメコの目線とあまり変わらない位置に目線がくるようになった男の子が艶やかな微笑をたたえてヒメコを見つめていた。
「もしや五郎君?」
尋ねたらコクリと頷き、ぱあっと華やかな笑顔を見せる美少年。
「まぁ、相変わらずお可愛らしい」と言おうとして、でも目線の変わらなくなった男の子にそれは失礼かと口を噤む。
「長くお会い出来なかったのに私のこと覚えていてくださったのね」
嬉しくてその手を強く握り返してそう言ったら、五郎は意味ありげにニヤッと笑って繋いだ手をブンブンと振った。
「当たり前でしょ。姫姉ちゃんはオレの初恋の人だもん。この手もオレの物だって前に言ったの忘れたの?」
言われてみればそんな会話があったような気もするけれど、初恋というのは初耳だった。こんな可愛い子、いや少年にそんなことを言って貰えるなんて光栄というか、純粋に嬉しくて何だか泣けてくる。
合戦が始まるから手伝いに行けと、半ば追い出されるような形で比企を出て久々の北条館。すっかり様変わりした様子に、心細くなかったと言えば嘘になる。その萎んだ心が五郎のおかげでほわんと温かく膨らんだ気がした。
「こら、五郎。あんたは口ばっかり達者なんだから。冗談言ってヒメコ様を困らせるんじゃありません。薪を頼んでおいたでしょ?早く行ってきなさい。でないと瓜を分けてあげないわよ」
アサ姫の声に五郎が駆け出す。でも行きしなにアサ姫を振り返り、ベーと舌を出した。
「男の冗談の半分は本気なんだよ。そんなのもわかんないんじゃ、今に佐殿に浮気されちゃうからな!」
「こら!」と拳を振り上げるアサ姫に、五郎はお尻をペンペンと叩いて駆け出す。ヒメコはそれを見送ってからアサ姫に向き直り、頭を下げた。
「ご無沙汰しておりました。お変わりないご様子。嬉しゅうございます」
顔を上げれば、二年前と変わらない優しい顔がヒメコを見下ろしていた。
「ヒメコ様、いらっしゃい。直接こちらにお呼びしようかと思ったんだけど、妹達が会いたがっていたし、あなたも会いたいだろうと思って先ずは一応あちらにお通ししたの。ところであの人はその辺にいた?」
あの人。きっと新しい女主人のことだろう。「いえ、お姿は」と曖昧に答えると、アサ姫はそうと頷いてヒメコを手招きした。
「あの人のことなら気にしなくていいわ。もし偶然会ったら会釈だけすればいい。お互いに干渉しないという約束をしたからこちらに寄り付くこともないわ。安心して」
そしてヒメコの手を取ってスタスタと歩く。その先に少し小振りの屋敷があった。
「父に造らせたの。佐殿の屋敷よ。
顎を上げて胸を反らせ、どうよと言わんばかりの姿勢で本館の方を一暼するアサ姫に、つい噴き出してしまう。
「まぁ、一の姫様。お父君との闘いに勝利されたのですね」
「そんな大層なものじゃないわ。ただ、あの狸親父めが渋って色々変な工作をしようとするからちょっと脅してやっただけよ」
はぁ、と曖昧に頷きながら、きっとちょっとどころの騒ぎではなかったのだろうと想像する。
「五郎や妹達もこちらにと言ったんだけど父が反対してね。と言うより、父はもうあの人の言いなりだから。あの人は少しでも味方を増やそうと妹たちを懐柔する為に囲い込んでるのよ。でももし、父とあの人が、伊東の爺みたいに五郎や妹達を悪用しようとしたら断固戦うつもりだけどね」
鼻息荒く言い切るアサ姫。その時、その足元にタタッと少女が駆け寄った。
「かぁさま、だっこ」
腕を伸ばして甘える女の子。アサ姫は言われた通りに少女を抱き上げるとヒメコの隣に並んだ。
「大きくなったでしょう?八幡姫よ」
八幡姫——。
佐殿とアサ姫の間の初めてのお子。ヒメコが乳母としてお世話を手伝った姫だった。
佐殿とアサ姫に姫の名を相談された時のことを思い出す。
「私の最初の子は永くめでたくと千鶴丸と名付けたが叶わなかった。この子は姫だが、強く逞しく生き抜いて欲しい。だから父祖の義家公にあやかって八幡姫としたい。どうか?」
どうか?とヒメコに尋ねながら、佐殿とアサ姫は目を強く合わせ口を引き結んでヒメコの言葉を待っていた。二人の心の中では、既にそうと決めたことなのだろう。ではヒメコが口を挟むことではない。ただ、そっと何か視えないか聴こえないかと気を鎮めて兆候を窺う。でも何も視えず聴こえなかった。ならば、その名に反対する理由はない。
「宜しいかと思います。ただ、その御名はとても強いので、厳重に秘しておくのが良いかと思います」
言えたのはそれだけだった。
そして今。姫は駆け回る程に大きく健やかに成長している。
「はい」と声をかけられ、手渡されるままに姫を預かる。ずっしりと重くなった体。ヒメコの記憶の中ではまだ這い這いも出来ないくらい軽くて小さかったのに。でも懐かしい抱き心地。二年もあいて大きさも重さも全く違うのに、不思議にしっくりと身に馴染むその感覚にヒメコは改めて乳母としての自らの役割を重く感じた。
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