【完結】姫の前

やまの龍

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第1章 若紫の恋

第26話 天道

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「おやおや、これは」
 比企の門の所で待ち構えていたのは藤九郎叔父だった。
「遠くから見たら狩野殿かと思いましたが、まこと小四郎君とは」
 それから腹を抱えて、喉が枯れるまで笑っていた。当然コシロ兄は憮然とした顔で何も言わず、ひらりと馬から降りるとヒメコを抱え降ろし、藤九郎叔父に軽く一礼して、またすぐに馬に跨って戻ろうとする。だが藤九郎叔父がその馬の手綱をサッと奪ってくつわをとると比企の門内へと引いていく。普段ののっそりした動きとは別人のよう。京の公家のそれなりの家の出と聞いたが、意外にはしこくて卒がない。そういう所が祖母の気に入ったのだろう。娘婿として、また佐殿の側仕えとして何やかやと重宝されていた。

 さすがのコシロ兄も無理には馬を取り戻せず、仕方なげに藤九郎叔父について行く。
「いやいや、比企の尼君のお言い付けで迎えに出ましたが、まさかそのような格好でおいでとは。尼君も驚かれるでしょう」
「お祖母様がどうかしたの?」
「客人が来るから招き入れよとのご命で、わざわざ私が待たされてたんですよ。また挨拶もせずに戻ろうとするだろうからと。さすがは尼君。しかしそんなに太って現れるとは思いませんでしたな」
 そしてまたワハハと笑い出す。

「これは貫禄をつける為に、一の姫様が中に沢山着せたのです」
 ヒメコが慌てて弁解するのを藤九郎叔父は軽く聞き流して馬屋へ案内した。
「姫は確かにお届けした。私は客ではないのでこれで」
 そう言ってコシロ兄が帰ろうとするのを藤九郎叔父はいいえと首を横に振り、
「比企の尼君が小四郎君とお話をしたいとお待ちなのです。馬も休ませないと可哀想でしょう?さ、どうぞこちらへ。ああ、その直垂の下の着物はこちらでお脱ぎになるといい。さぞ重くて暑いでしょうから」
そう言って有無を言わさず館の中へとコシロ兄を招き入れる。ヒメコもその後に続いた。
「お祖母様はどうしてコシロ兄が来るとお分かりだったの?」
尋ねたら、藤九郎おじはさあと肩を竦めて
「尼君様の眼力については私なぞより姫の方がお詳しかろう?」
それからクワバラクワバラと唱えつつコシロ兄を奥へと案内する。奥では祖母が待ち受けていた。

「やっと顔を出したね。あんたが北条の次男坊かい。賢いからと佐殿が気に入って色々教え込んでると聞いてて会ってみたかったんだよ。賢いったって、実際に話をしてみないとわからないからね」
歯に衣着せない祖母の物言いにヒメコはそっと首を竦めてコシロ兄の様子を窺う。コシロ兄は祖母にジロジロと睨め付けられながらもいつもの無表情で沈黙を保っていた。暫くコシロ兄を観察していた祖母がチラとヒメコを一瞥し、ふうんと一声あげてまたコシロ兄に目を戻す。

「あんたは老子が好きなんだってね。どうしてかい?」
「惹かれることに理由などない」
淡々とした答えに祖母は笑った。
「そうだね。では質問を変えよう。天道についてだ。天道とは神仏の示す自然の摂理。万物万民の道しるべとなるもの。私はそう考えている。ところで、この国には帝という現人神が居られる。天道を神がお示しになる道とするなら、現人神である帝のお示しになる道も天道と言える。ということは、帝のお示しになるその天道にも我らは従うべきか?あんたならどう考える?」
ヒメコはぼんやりと祖母の口を見ていた。この国において絶対的な存在は主上だと教えてくれた祖母が、何故そんなことを聞くんだろう?

コシロ兄は祖母の問いから殆ど間を置かず「従う」と答えた。だが、ふうんと唸った祖母に続ける。
「ただし世の乱れは天道からの踏み外しに起因すると聞く。ならばそれは正されるべきと思う」
珍しくはっきりと言い切るコシロ兄。でも祖母が「それは佐殿の意見かい」と問うたら微かに首を傾げた。

「まぁいいよ。これからまた考えればいい。佐殿と一緒にね。因みにあんたの名は?」
「まだ名乗れる名がない」
「そうか。北条殿が戻ってから元服するって話だったね。ま、じゃああんたもそろそろ戻って佐殿を頼むよ。あのお人は言うことは大きいが、存外頼り甲斐がなくて小心者だからね。苦労をかけるが、これも縁と諦めとくれ」
ヒメコはそれらのやり取りを不思議な感動を持って聞いていた。その後も何度か二人の応酬があったが、その殆どが京の都の話だったのでヒメコにはよくわからず耳にも残らず、どこか夢心地でいた。



「ヒミカ」
唐突に声をかけられてハッと顔を上げたら、その場には祖母だけが残っていた。コシロ兄の姿はもう無く、帰ってしまったのだと悟る。慌てて追いかけようとしたヒメコだが、その時丁度奥から出て来た母に捕まり、見送りにも出られなかった。

「まったく、おまえは今頃になって現れて。一体今まで何処で何をノロクサしてたんだい!」
 怒鳴り声に振り返れば祖母が母を叱っていた。
「客が来るから瓜を冷やして、折の良い頃に持ってこいと言っといただたろう。とっくに帰ってしまったよ。本当に気の利かない子だね」
 祖母は怒る時、母を子ども扱いする。そう言われても仕方ないような態度の母がいけないのだが、娘からしたら情けないことこの上ない。
「だって、何やら難しいお話をしてるんですもの。入る機を逃してしまいましたの」
「そこをそっと差し入れるのが嫁の気遣いってもんだろう。まったく。可哀想に汗だくで何も出せずに返してしまったじゃないか。一体どうしてくれるんだい」
 怒り心頭の祖母に、だって、だって、と繰り返しながら、よよ、と泣く母。
「義母上様、ご安心召されよ。瓜なら幾つかお持たせしましたよ。重いからと嫌がるのを無理矢理ね。これで佐殿のお口にも入りましょう」
 戸口に立ってニヤリと笑う叔父に、そうかいと満足気に頷いた祖母が、あーあとあからさまなため息をついて母を一瞥する。母はキーと悔しそうに袖を噛み、涙目で祖母を睨み付けると足音高く下がって行った。
それに続いて祖母と藤九郎叔父も去る。ヒメコだけがぼんやりとその場に残された。

 お礼も言えず、見送りも出来なかった。落ち込んでコシロ兄が居た辺りに心残りの視線を送ったヒメコは、そこに一本の紐が落ちているのに気付く。コシロ兄の長い垂髪を束ねていた組紐だった。
髪を結い直した時に着物に紛れ、それが忘れられたのだろうか。ヒメコはそっとそれを拾い上げると懐に入れ、そそくさと部屋へと下がった。

部屋に戻ってから紐を取り出して小机の上の文箱に大事にしまう。ふと、邦通から預かった二つの巻紙のことを思い出し、改めて祖母の部屋を訪れた。
「お祖母様、北条館で藤原殿からお祖母様にと文を預かっておりました」
祖母は受け取るとぱらりと開き、ああと頷いた。
「鐘楼のことだね。おや、随分と絵の達者なお人のようだね」
「ええ。私の顔も描いて頂きました」
祖母はふうんと頷き、ぱらりとヒメコの前にそれを開いて見せて寄越した。

「二つあったが、此方も私が受け取っていいのかい?」
 言われてそれに目をやったヒメコは、ギョッとして立ち上がった。その一枚に覆いかぶさるように飛びかかると祖母の手から奪い取り、隠すように慌ててパタパタと畳む。
そこでやっと邦通の言葉を思い出す。一つは尼君にと言っていたけど、もう一つについては何も言ってなかった。その時に気付くべきだったのだ。
「いえ、これは、あの、一つはお祖母様にと」
「もう一つはお前にかい」
「は、はい。恐らくは」
途端に祖母が高笑いを始めた。
ヒメコは真っ赤になってそのもう一つを懐の奥へと押し込んだ。
「似せ絵かい。見事な筆だね。いつかお会い出来たら幸いだよ。ま、そちらはお前の好きにすればいいさ」
祖母の高笑いに、何事かと母が踏み込んでくる。ヒメコが懐に隠した物に鋭い目を投げかけるが、ヒメコはそれを振り切り自分の部屋へと逃げ戻って戸の前に行李を引っ張って来て開けられないようにした。それから懐の奥でくしゃくしゃになった巻紙をそっと開いて指で皺を丁寧に伸ばす。

 そこに描かれていたのは垂髪姿のコシロ兄の絵だった。

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