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第1章 若紫の恋
第25話 真名
しおりを挟む「ほら、これならどう?誰かに見咎められたら、狩野の何某だと言ってやればいいのよ。あのおっさんの肥満体型はそこら中に知れ渡ってるから誰も何も疑わないわ」
そう言って、アサ姫は得意気な顔で着替えの済んだコシロ兄をヒメコの前に連れてきた。
その口元には黒いちょび髭。眉は不自然に黒々と足され、後ろに長く束ねられていた垂髪は烏帽子の中に畳み込まれ、一見は元服した壮年の武士に見える。ただ、その身体はぶ厚く丸々と太っていて、陸揚げされたフグのようだった。
彼が現れた瞬間、皆が揃って笑い転げ、コシロ兄はその眉間に深い深い皺を刻んだ。
「動きにくい」
コシロ兄の文句にアサ姫はそう?とだけ答えて、その実、顔を背けてこっそり笑ってる。
「仕方ないでしょ。馬が可哀想だから重い鎧は着けたくないって言うんだもの。あんたは痩せてるから普通に直垂を着たら威厳が出ないの。でも、こうして重ね着して太らせたら少しは貫禄が出たでしょ」
それにしても着せ過ぎではないかとその場にいる皆が思ったが、誰も口を挟まなかった。
結局、コシロ兄の往復を考えて、ヒメコは翌朝に比企へと出発した。丸々と膨らんでムッツリ顔のコシロ兄に抱え上げられて馬に乗ったヒメコの元に、北条家の姫たちが駆け寄る。
「ヒメコ様、またお会い出来るわね」
手を握る三の姫、四の姫に笑顔で頷いて手を握り返す。
「ヒメコ、尼君にくれぐれも宜しくな」
普段より言葉少なで顔色もあまり冴えない佐殿。来たる北条殿との対決の予感に、ヒメコの背もスッと伸びる。
「別れをば山のさくらにまかせてむ とめむとめじは花のまにまに」
さらりと詠まれた和歌に目を向けたら、藤原邦通が馬上のヒメコに巻紙を差し出していた。
比企の姫、暫しのお別れにこちらを。一つは比企の尼君様に」
往きに鐘楼の件で文を預かったからその返事なのだろう。あまり深く考えずそれを受け取ると懐に入れる。馬が静かに歩き出した。
「姫姉ちゃん!またすぐに帰ってきてね!」
五郎が馬を追って駆けてくる。堀に落ちやしないかと心配になるが、二の姫がしっかりと手を繋いでくれたのが見えてホッとする。橋を渡った堀の外まで見送りに出てくれた北条家の面々にヒメコが大きく手を振ると、馬が駆け出した。追いかけようと駆け出した五郎の向こうに、姫を抱いたアサ姫と佐殿が並んで手を振っている。
——どうか、無事に北条の殿のお許しが出ますように。
掌を合わせ、北条館が見えなくなるまでヒメコは祈りを捧げた。
馬は林の中を進んでいく。ヒメコは自分の後ろに跨るコシロ兄をチラと見上げた。
普段より更にムッツリ顔のコシロ兄。でも北条館を離れて諦めがついたのか、先程よりは少し尖りが消えたように感じる。
「コシロ兄、暑くない?」
返事がない。でもその額から汗が流れていた。
「暑くないわけ、ないわよね」
今は夏。なのに何枚も重ね着して、その上に直垂を着ているのだから無理もない。本当はもっと速く馬を掛駆けさせたいのだろうが、ただ乗っかっているだけのヒメコを気遣ってだろう。揺れの少ない緩やかな歩み。
「ね、コシロ兄」
せめて何か気晴らしでも、と話しかけるが、やはり返事はない。コシロ兄にとっては話しかけられない方が気が楽なのだろう。ヒメコは口を噤むと、通り過ぎる林の中から聴こえる鳥の声や規則正しく鳴る鎧の音を聴きながらぼんやりとしていた。
その時、唐突に頭上から低い声が降って来た。
「相手の後ろに回るのはやめておけ」
え、とコシロ兄を仰ぎ見る。
「背に回るのは、相手を完全に仕留められる時だけだ。人も馬も、生き物は背後をとられると恐怖を覚える。思わぬ反撃を受けかねないから相手の背には絶対に回るな」
あ、と思い出す。
昨日、相手の後ろに回る方法を尋ねたヒメコへの返事だ。
気にかけてくれていたんだ。泣きたくなる。
どうして自分はこんなに子どもなんだろう。どうして北条から遠い比企なんかに生まれたんだろう。もっとコシロ兄の近くに生まれたかった。一緒にいたかった。
その時、パッと視界が開ける。山の切れ目だった。
前にコシロ兄に送って貰った時、人買い達が現れた場所。ということは比企の館はもうすぐ。
ヒメコは持ち手にしていた鞍の出っ張りをしっかり握ると、くるりと振り返った。コシロ兄がグイと馬の手綱を引いてヒメコを見下ろす。どうした?と目が聞いてくれている。こめかみを流れ下る汗。それを手の甲で拭うコシロ兄の目の中を覗き込む。
「コシロ兄、私の名を呼んで」
コシロ兄は目を見開いた。僅か首を傾げつつ口を開きかけたのを手で制してヒメコは続けた。
「ヒメコじゃない方。私の真名よ」
汗を拭った手が、迷うように口元を覆う。困らせているのは百も承知で、ヒメコは黙ってコシロ兄を見続けた。
ややして
「ヒミカ」
遠慮がちに、でもはっきりと音としてヒメコに届く低い声。
——ああ。ヒメコは息をついた。
ちゃんと聞いて覚えてくれていた。
「はい」
答える。
「お日さまのヒに、水のミ、風のカで、ヒミカです」
コシロ兄はじっとヒミカを見下ろしてから、そっとその目元と口元をやわらかく緩めた。
——あ、笑った。
「そうか。日と水と風か。お前らしいな」
初めて見たコシロ兄の笑顔。優しい顔、優しい声。涙が溢れそうになるのを懸命に堪えて両の口の端をもたげる。
「忘れないでね」
コシロ兄は黙ったままヒミカを見ていた。その目に映る幼い少女。彼は暫し、その目を外さずにいてくれた。
——いつか。いつかまた会える時に恥ずかしくないように生きよう。離れていても、彼が誰と結婚しても、きっと自分は彼を想い続ける。そう確信しながら、真名を呼んでくれた低い声を思い返し、そっと空を見上げた。
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