23 / 225
第1章 若紫の恋
第21話 いたいのいたいの
しおりを挟む
目を上げれば、すぐ目の前にコシロ兄の顔があった。細面に長い首。丸くてふっくらと厚みのある大きな耳が、やや下の方についている。父のそれより存在感のある綺麗な耳を食い入るように見ていたヒメコの目が捉えられる。少し吊り上がった目尻とやや薄い色の瞳。この瞳は前にも見たような気がする。その瞳に困惑の色が混じった瞬間、ヒメコは我に返った。
「きゃあ!」
悲鳴をあげて左手に掴んでいた物をボロリと取り零す。直後、うっという低い呻き声と共に、その薄い色の瞳は固く閉じられた。
——え、何事?
キョトンとするヒメコの目の前には床に転がる大きな石と、そしてその下敷になってるコシロ兄の足。
え、私が落としたのって、この大きな石?
「ごめんなさい!私、なんて謝っていいか。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
平謝りに謝るけど、足りない。絶対足りない。彼に迷惑をかけるのはもう何度目だろう。頭がクラクラしてくる。
「ヒメコ、もういいそうだぞ。もう謝るな」
佐殿の声に恐る恐る顔を上げる。でも怖くてコシロ兄の方を向けない。
「それにしても、そなたはまこと、怪力の持ち主なのだな。まさか几帳の台座を左手だけで軽々持ち上げるとは」
「本当に。神事の時もその力で助けてくれたのね。最初は信じられなかったけど、こうして実際に見て納得したわ。でも佐殿、もうヒメコ様をからかっては駄目よ。巫女の力はいざという時の為のものなのでしょうから」
佐殿とアサ姫が話しているけれど、ヒメコは何も言えずに俯いた。ヒメコ自身が信じられなかった。佐殿のからかいに、ついカッとして手近にあったものを掴んだのは何となく覚えてる。だけどまさかそれが几帳の台座だったなんて。
台座は大きな重石で出来ていて、大人が両手で持ち上げて移動させるものだ。まだ子どものヒメコが、片手、それも利き手でない左手で掴めるような代物ではない。でもヒメコは台座の重石を鞠のように軽々と持ち上げて投げようとしたらしい。コシロ兄が止めてくれたので事なきを得たが、その重石をヒメコはコシロ兄の足の上に落としてしまったのだ。
「本当にごめんなさい」
もう一度謝って、そっとコシロ兄の様子を窺う。
部屋の隅、むっつり顔のまま足を投げ出して手当てして貰っているコシロ兄。とても、もういいと言ってくれた顔には見えない。でもヒメコのした事を考えれば当たり前のこと。
「い、痛かったです、よね。骨が折れたりはしてない?歩ける?」
おずおずと尋ねるが、やはり何も答えがない。泣くに泣けず、小さく縮こまったヒメコの耳に、パコンという音が届いた。
「小四郎ったら、このしんねりむっつり!首ばっか振ってないでちゃんと返事なさい!」
アサ姫がコシロ兄の後ろに立っていた。その手の扇でコシロ兄の頭をパコパコ叩いてる。コシロ兄は叩かれ慣れているのか、されるままに黙ってアサ姫を見上げている。
「元はと言えば、あんたが鈍くさいから悪いのよ。重石くらいサッと避けなさいよ。ヒメコ様が持ち上げたのを素早く受け取ってそっと戻すくらいの余裕を持てなかったあんたが悪い。そしたらヒメコ様も泣かなくて良かったし、あんたも怪我せずに済んだんだから。全て鈍くさい小四郎の責任よ!」
無茶を言うアサ姫に仰天する。
「いえ!私、泣いてませんから!」
でも頬に触れたら、アサ姫の言葉通り涙が溢れていた。慌ててゴシゴシと顔をこする。あんな怪我をさせておいて、更に泣いてコシロ兄を追い込んでしまうなんて。改めてコシロ兄に申し訳なく、いたたまれない気持ちになる。
「これは、違うんです。ごめんなさい。悲しいとか辛いとかで泣いてるんじゃなくて。ええと」
「い、痛い!そう、痛くて!右手が痛いの!だから、なの!」
叫んだら、本当に右腕がジンジンと痛みを強く訴えてきて、ボロボロと大粒の涙が溢れ出た。涙は後から後から溢れて止まらない。腕よりも胸が痛くてヒメコは泣いた。声をあげて泣いた。
アサ姫がそっと近寄って抱きしめてくれた。トントンと背を叩き、頭を撫でてくれる。
「ヒメコ様、いいのよ。泣いていいの。あなたはいつも大人ぶって、いい子であろうとするけれど、そんなに強がって背伸びしなくていいのよ。お父上もお母上もいない、知らない土地で貴女はよく頑張ってるわ。でもそんなに頑張らなくていいのよ」
それから優しく右肩を摩ってくれた。
「痛いの痛いの飛んでいけ」
小さく優しい歌声。懐かしいと思った。
母がこんな風に歌ってくれた記憶はない。でも懐かしく温かく感じた。だから安心してアサ姫の胸に抱かれて目を閉じた。
トクトクと耳に届く波の音。
アサ姫とお腹の中の子が歌ってる。声を合わせて歌う祝詞のようにヒメコには聞こえた。
「きゃあ!」
悲鳴をあげて左手に掴んでいた物をボロリと取り零す。直後、うっという低い呻き声と共に、その薄い色の瞳は固く閉じられた。
——え、何事?
キョトンとするヒメコの目の前には床に転がる大きな石と、そしてその下敷になってるコシロ兄の足。
え、私が落としたのって、この大きな石?
「ごめんなさい!私、なんて謝っていいか。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
平謝りに謝るけど、足りない。絶対足りない。彼に迷惑をかけるのはもう何度目だろう。頭がクラクラしてくる。
「ヒメコ、もういいそうだぞ。もう謝るな」
佐殿の声に恐る恐る顔を上げる。でも怖くてコシロ兄の方を向けない。
「それにしても、そなたはまこと、怪力の持ち主なのだな。まさか几帳の台座を左手だけで軽々持ち上げるとは」
「本当に。神事の時もその力で助けてくれたのね。最初は信じられなかったけど、こうして実際に見て納得したわ。でも佐殿、もうヒメコ様をからかっては駄目よ。巫女の力はいざという時の為のものなのでしょうから」
佐殿とアサ姫が話しているけれど、ヒメコは何も言えずに俯いた。ヒメコ自身が信じられなかった。佐殿のからかいに、ついカッとして手近にあったものを掴んだのは何となく覚えてる。だけどまさかそれが几帳の台座だったなんて。
台座は大きな重石で出来ていて、大人が両手で持ち上げて移動させるものだ。まだ子どものヒメコが、片手、それも利き手でない左手で掴めるような代物ではない。でもヒメコは台座の重石を鞠のように軽々と持ち上げて投げようとしたらしい。コシロ兄が止めてくれたので事なきを得たが、その重石をヒメコはコシロ兄の足の上に落としてしまったのだ。
「本当にごめんなさい」
もう一度謝って、そっとコシロ兄の様子を窺う。
部屋の隅、むっつり顔のまま足を投げ出して手当てして貰っているコシロ兄。とても、もういいと言ってくれた顔には見えない。でもヒメコのした事を考えれば当たり前のこと。
「い、痛かったです、よね。骨が折れたりはしてない?歩ける?」
おずおずと尋ねるが、やはり何も答えがない。泣くに泣けず、小さく縮こまったヒメコの耳に、パコンという音が届いた。
「小四郎ったら、このしんねりむっつり!首ばっか振ってないでちゃんと返事なさい!」
アサ姫がコシロ兄の後ろに立っていた。その手の扇でコシロ兄の頭をパコパコ叩いてる。コシロ兄は叩かれ慣れているのか、されるままに黙ってアサ姫を見上げている。
「元はと言えば、あんたが鈍くさいから悪いのよ。重石くらいサッと避けなさいよ。ヒメコ様が持ち上げたのを素早く受け取ってそっと戻すくらいの余裕を持てなかったあんたが悪い。そしたらヒメコ様も泣かなくて良かったし、あんたも怪我せずに済んだんだから。全て鈍くさい小四郎の責任よ!」
無茶を言うアサ姫に仰天する。
「いえ!私、泣いてませんから!」
でも頬に触れたら、アサ姫の言葉通り涙が溢れていた。慌ててゴシゴシと顔をこする。あんな怪我をさせておいて、更に泣いてコシロ兄を追い込んでしまうなんて。改めてコシロ兄に申し訳なく、いたたまれない気持ちになる。
「これは、違うんです。ごめんなさい。悲しいとか辛いとかで泣いてるんじゃなくて。ええと」
「い、痛い!そう、痛くて!右手が痛いの!だから、なの!」
叫んだら、本当に右腕がジンジンと痛みを強く訴えてきて、ボロボロと大粒の涙が溢れ出た。涙は後から後から溢れて止まらない。腕よりも胸が痛くてヒメコは泣いた。声をあげて泣いた。
アサ姫がそっと近寄って抱きしめてくれた。トントンと背を叩き、頭を撫でてくれる。
「ヒメコ様、いいのよ。泣いていいの。あなたはいつも大人ぶって、いい子であろうとするけれど、そんなに強がって背伸びしなくていいのよ。お父上もお母上もいない、知らない土地で貴女はよく頑張ってるわ。でもそんなに頑張らなくていいのよ」
それから優しく右肩を摩ってくれた。
「痛いの痛いの飛んでいけ」
小さく優しい歌声。懐かしいと思った。
母がこんな風に歌ってくれた記憶はない。でも懐かしく温かく感じた。だから安心してアサ姫の胸に抱かれて目を閉じた。
トクトクと耳に届く波の音。
アサ姫とお腹の中の子が歌ってる。声を合わせて歌う祝詞のようにヒメコには聞こえた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
鷹の翼
那月
歴史・時代
時は江戸時代幕末。
新選組を目の敵にする、というほどでもないが日頃から敵対する1つの組織があった。
鷹の翼
これは、幕末を戦い抜いた新選組の史実とは全く関係ない鷹の翼との日々。
鷹の翼の日常。日課となっている嫌がらせ、思い出したかのようにやって来る不定期な新選組の奇襲、アホな理由で勃発する喧嘩騒動、町の騒ぎへの介入、それから恋愛事情。
そんな毎日を見届けた、とある少女のお話。
少女が鷹の翼の門扉を、めっちゃ叩いたその日から日常は一変。
新選組の屯所への侵入は失敗。鷹の翼に曲者疑惑。崩れる家族。鷹の翼崩壊の危機。そして――
複雑な秘密を抱え隠す少女は、鷹の翼で何を見た?
なお、本当に史実とは別次元の話なので容姿、性格、年齢、話の流れ等は完全オリジナルなのでそこはご了承ください。
よろしくお願いします。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
たれやも通ふ萩の下道(したみち)
沢亘里 魚尾
歴史・時代
平和憲法のもと、象徴天皇として即位された今上天皇(明仁)の御代、平成の世は終わろうとしている。
歴史を紐解けば、日本という国は、天皇とともに歩んで来た、と言っていい。
しかし、その天皇も、順風だけで続いてきたわけではない。
幾度となく、天皇家は苦難の時代を経験してきた。
あるいは、今の時代こそ、まさにその時かもしれない。
順徳天皇の生涯を追っていくと、そのことを考えずにはいられなかった。
いや、そう思わないでも、なんと不遇な生涯であったことか。
筆者は、第八十四代天皇、順徳院に捧げる哀悼の物語として、これを書き上げた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる