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第1章 若紫の恋
第6話 学
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悲鳴をあげる間もなく腰を抱えられ、逆さまに持ち上げられる。
さっきの盗人だ。攫われてしまう。
「きゃああぁぁぁ!」
観音さまに助けを求める。
すると、トンと地面におろされた。
良かった。逃げよう!
駆け出した瞬間、手首を掴まれる。またもう一悲鳴を、と開きかけた口の前に掌が差し出された。
「違う!」
「え?」
「手首を掴まれたら悲鳴など上げずに、まず捻って手を取り戻せ。手が自由になったら相手の手の届かぬ場まで間合いを取って、それから助けを求めよ」
佐殿だった。
「な、な、なんで」
「なんでも何もあるか。体の自由を奪われたら、お前などあっという間に攫われて売り飛ばされるぞ。いいのか?」
「それは嫌だけど、どうして佐殿にそんなこと言われなくちゃいけないのよ」
「隙だらけのお前が悪い」
前で腕を組み、ニヤニヤ笑って見下ろしてくる佐殿。
「そうだな。お前の容貌なら、そこらの川宿の主が高く買うと言ってくれるだろうさ」
川宿?よくわからないけれど、ひどいことを口にされている気がする。咄嗟にヒメコは佐殿の草履の先、出ていた爪先を思いっきり踏みつけてやった。そしてザリザリと踏みにじる。
「あつっ!」
悲鳴があがる。
いい気味、とほくそ笑んだヒメコの視界に茶色い棒きれが入った。
——ガツッ!
痛そうな音が響き渡り、佐殿が小さく呻いてその場にしゃがみ込む。直後、
「五郎!」
厳しい声と共に五郎が宙釣りにされた。
「佐殿に何てことするの!」
観音さまが立っていた。観音さまは左手に五郎を吊り下げ、右手でバシバシと五郎のお尻を叩いている。
「放せ!佐殿が悪いんだ。姫姉ちゃんをいじめたから俺がやっつけたんだ!もっとこらしめてやる!邪魔すんな!大姉上なんか大っ嫌いだ!あっち行け」
同時にわっと泣き出す五郎。観音さまがもう一声上げようとした時、佐殿がそっと観音さまの脇に寄り添った。観音さまの肩に手をかけ、五郎を取り上げると両腕で抱えあげる。
「五郎、悪かったな。お前の言う通りだ。アサ、悪いのは私だ。許してやってくれ。ヒメコもすまなかったな。本気を出させようとして、つい口が滑った」
「本気?」
「相手を倒すのは無理でも、打撃を与えて隙を見つける稽古さ」
「稽古?」
「ああ、逃げる為の稽古。ん?聞いてないのか?」
——稽古?確かに最初に修行と五郎が言っていたけど、逃げる為の稽古だったのか。
観音さま、いえ、佐殿がアサと呼んでいたから本当はアサ姫というのだろう、が後を継いだ。
「ヒメコ様、驚かしてしまってごめんなさいね。近頃この辺りも物騒で、人攫いや盗っ人が増えているの。父は大番で京だし、兄はその代理で留守が多いから不用心で。だから毎朝こうやってそれぞれが自身の身を最低限守れるように稽古しているのよ」
はぁ、と曖昧に頷いて、佐殿の胸でむせび泣く五郎を眺める。
と、ぱちっと目が合った。途端、五郎はニコッと口の端をもたげ、片目を瞑ってきた。泣いた目は確かに赤くなっているけど、全く懲りてないようだ。
この子、どういう子なのかしら。末恐ろしいというか、頼もしいというか。
ふと、あの盗人の少年は?と首を廻らしたけど、既に逃げおおせたようで気配もなかった。
朝餉の後、遊ぶ為に三の姫と部屋に向かったヒメコの肩が叩かれた。振り返れば佐殿だった。
「というわけで、ヒメコは祓詞と巫女舞の師だ。二の姫は組み紐の師で三の姫は隠れん坊の師。それぞれよく教え、学べよ」
何が「というわけ」なのか分からないまま、一方的に告げ去る佐殿をポカンと見送ったヒメコを妹姫たちがキャアと取り囲んだ。
「ハラエコトバってなぁに?おまじない?ヒメコ様は巫女なのね。巫女舞って絵巻に出てくるような美しい衣装で舞うのでしょう?どんななの?教えて教えて」
口々に問われて困惑するヒメコを助けてくれたのは二の姫だった。
「あなたたちはまず与えられた課題を終えてから新たに教えを請いなさい」
おっとりと優しげながら、しっかりと芯の通った声に、三の姫と四の姫がすごすごと下がる。空いた場に二の姫がそっと腰を下ろした。間近で見たその横顔はほっそりとして、透き通るような白い肌に桜色の頰。長く黒い睫毛が落ちてはまた上がっていく様は、アゲハチョウが羽を震わせているみたい。天女みたいな人だと見惚れてしまう。
「ヒメコ様は比企の尼君の孫姫様で、宮中の祭祀や風習にもお詳しいと聞きました。今度、私にも教えて下さいましね」
二の姫は、ふわりと花のように微笑むと少し離れた小机の横に膝をついて、ヒメコより年かさの少女が手にしていた色とりどりの糸を指にかけて何か話しかけている。
二の姫は佐殿のお相手のアサ姫様のすぐ下の妹の筈。確かに似た部分もあるけれど、アサ姫が中性的なのに比べて、いかにも女性的で水仙のような芳しい姫だった。
佐殿は何故二の姫でなくアサ姫を選んだのかと考え、それからハッと息を呑む。
二の姫は、佐殿が少し前に通っていた伊東の八重姫に雰囲気がそっくりだった。
さっきの盗人だ。攫われてしまう。
「きゃああぁぁぁ!」
観音さまに助けを求める。
すると、トンと地面におろされた。
良かった。逃げよう!
駆け出した瞬間、手首を掴まれる。またもう一悲鳴を、と開きかけた口の前に掌が差し出された。
「違う!」
「え?」
「手首を掴まれたら悲鳴など上げずに、まず捻って手を取り戻せ。手が自由になったら相手の手の届かぬ場まで間合いを取って、それから助けを求めよ」
佐殿だった。
「な、な、なんで」
「なんでも何もあるか。体の自由を奪われたら、お前などあっという間に攫われて売り飛ばされるぞ。いいのか?」
「それは嫌だけど、どうして佐殿にそんなこと言われなくちゃいけないのよ」
「隙だらけのお前が悪い」
前で腕を組み、ニヤニヤ笑って見下ろしてくる佐殿。
「そうだな。お前の容貌なら、そこらの川宿の主が高く買うと言ってくれるだろうさ」
川宿?よくわからないけれど、ひどいことを口にされている気がする。咄嗟にヒメコは佐殿の草履の先、出ていた爪先を思いっきり踏みつけてやった。そしてザリザリと踏みにじる。
「あつっ!」
悲鳴があがる。
いい気味、とほくそ笑んだヒメコの視界に茶色い棒きれが入った。
——ガツッ!
痛そうな音が響き渡り、佐殿が小さく呻いてその場にしゃがみ込む。直後、
「五郎!」
厳しい声と共に五郎が宙釣りにされた。
「佐殿に何てことするの!」
観音さまが立っていた。観音さまは左手に五郎を吊り下げ、右手でバシバシと五郎のお尻を叩いている。
「放せ!佐殿が悪いんだ。姫姉ちゃんをいじめたから俺がやっつけたんだ!もっとこらしめてやる!邪魔すんな!大姉上なんか大っ嫌いだ!あっち行け」
同時にわっと泣き出す五郎。観音さまがもう一声上げようとした時、佐殿がそっと観音さまの脇に寄り添った。観音さまの肩に手をかけ、五郎を取り上げると両腕で抱えあげる。
「五郎、悪かったな。お前の言う通りだ。アサ、悪いのは私だ。許してやってくれ。ヒメコもすまなかったな。本気を出させようとして、つい口が滑った」
「本気?」
「相手を倒すのは無理でも、打撃を与えて隙を見つける稽古さ」
「稽古?」
「ああ、逃げる為の稽古。ん?聞いてないのか?」
——稽古?確かに最初に修行と五郎が言っていたけど、逃げる為の稽古だったのか。
観音さま、いえ、佐殿がアサと呼んでいたから本当はアサ姫というのだろう、が後を継いだ。
「ヒメコ様、驚かしてしまってごめんなさいね。近頃この辺りも物騒で、人攫いや盗っ人が増えているの。父は大番で京だし、兄はその代理で留守が多いから不用心で。だから毎朝こうやってそれぞれが自身の身を最低限守れるように稽古しているのよ」
はぁ、と曖昧に頷いて、佐殿の胸でむせび泣く五郎を眺める。
と、ぱちっと目が合った。途端、五郎はニコッと口の端をもたげ、片目を瞑ってきた。泣いた目は確かに赤くなっているけど、全く懲りてないようだ。
この子、どういう子なのかしら。末恐ろしいというか、頼もしいというか。
ふと、あの盗人の少年は?と首を廻らしたけど、既に逃げおおせたようで気配もなかった。
朝餉の後、遊ぶ為に三の姫と部屋に向かったヒメコの肩が叩かれた。振り返れば佐殿だった。
「というわけで、ヒメコは祓詞と巫女舞の師だ。二の姫は組み紐の師で三の姫は隠れん坊の師。それぞれよく教え、学べよ」
何が「というわけ」なのか分からないまま、一方的に告げ去る佐殿をポカンと見送ったヒメコを妹姫たちがキャアと取り囲んだ。
「ハラエコトバってなぁに?おまじない?ヒメコ様は巫女なのね。巫女舞って絵巻に出てくるような美しい衣装で舞うのでしょう?どんななの?教えて教えて」
口々に問われて困惑するヒメコを助けてくれたのは二の姫だった。
「あなたたちはまず与えられた課題を終えてから新たに教えを請いなさい」
おっとりと優しげながら、しっかりと芯の通った声に、三の姫と四の姫がすごすごと下がる。空いた場に二の姫がそっと腰を下ろした。間近で見たその横顔はほっそりとして、透き通るような白い肌に桜色の頰。長く黒い睫毛が落ちてはまた上がっていく様は、アゲハチョウが羽を震わせているみたい。天女みたいな人だと見惚れてしまう。
「ヒメコ様は比企の尼君の孫姫様で、宮中の祭祀や風習にもお詳しいと聞きました。今度、私にも教えて下さいましね」
二の姫は、ふわりと花のように微笑むと少し離れた小机の横に膝をついて、ヒメコより年かさの少女が手にしていた色とりどりの糸を指にかけて何か話しかけている。
二の姫は佐殿のお相手のアサ姫様のすぐ下の妹の筈。確かに似た部分もあるけれど、アサ姫が中性的なのに比べて、いかにも女性的で水仙のような芳しい姫だった。
佐殿は何故二の姫でなくアサ姫を選んだのかと考え、それからハッと息を呑む。
二の姫は、佐殿が少し前に通っていた伊東の八重姫に雰囲気がそっくりだった。
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