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第1章 若紫の恋
第5話 少年
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——カーン、カーン。
聞き慣れない音に違和感を覚えて眼を覚ます。見覚えのない模様の几帳。その向こうに誰かいる。そっと覗いたら女の子たちが沢山、それぞれ縮こまって眠っていた。スースーと安らかに続く寝息に、やっと記憶が戻る。
そうだ、ここは箱根を越えた伊豆の北条館。祖母の婿にあたる藤九郎叔父が仕える佐殿が、この北条の姫の元に通っているというので、その人となりを見定める役目を与えられたのだった。
ヒメコは観音さまのお顔を思い出して、あーあとため息をついた。
——やっぱり佐殿のお相手は観音さまだった。
佐殿は好きだ。たまに会いに来て、字などを教えてくれた。観音さまも好きだ。よくわからないけど惹かれる人だ。好きな人同士が結ばれたのだから申し分ない筈なのだが、どちらも取られてしまったようで寂しいのだろうか。
ううん。ヒメコは首を横に振った。それだけじゃない。一人の姫君の顔を思い出す。同じことを繰り返さない為だ。
——カーン、カーン。
何かを打ちつけるような音はまだ続いている。
目が冴えてしまったヒメコは外へと抜け出した。
冷たい空気が身体の芯をシャンと伸ばしてくれる。
「あ、姫姉ちゃん」
幼い声に振り返れば、五郎が晴れやかな笑顔で駆け寄ってきた。
「五郎君でしたよね。おはようございます」
挨拶をしたら、少年はぱあっと顔を輝かせて挨拶を返してくれた。
やっぱり目の眩むような可愛らしさ。さすがは観音さまの弟君だと、うっとり見とれていたら、はい、と棒きれを渡された。
「わぁい、姫姉ちゃんも朝の修行するんだね。やったぁ!」
勢いに呑まれ、よくわからないまま、棒きれを受け取り、うんと頷く。
「じゃあ、早くそれ振りかぶって!」
促され、渡された木の棒を両手で掲げ上げる。
と
——カーン!
音と共に掲げた木の棒が弾き飛ばされた。
よろけたヒメコの背がドンと何かにぶつかる。
「よけてろ」
見たことのない少年がヒメコの後ろにいて、ついっと横へと指を走らせた。言われるままそちらへと足を踏み出した時、足元を何かが駈け去ったのが見えた。
猫か犬より少し大きいもの。まさか猪?
こわごわ振り返ったヒメコの前では、五郎が大木にしがみついてよじ登っていた。見る間に登りきって枝へと足をかける。器用に枝から枝を伝っていくが、伸ばした手の先は細枝。危ないと言いけた時、五郎はいきなり更に細い蔓のような細枝めがけて飛んだ。
硬直したヒメコの横で誰かが動いた。さっきの少年だ。ホッとしたヒメコの前に、ザザザッと大きな葉がすれの音と共に五郎が落ちてきて緑の茂みの中に落ちる。
「だ、大丈夫?」
でもヒメコが駆け寄る前に五郎は茂みから飛び出すと、掴んでいた細い枝葉を投げ捨て、先にヒメコが落とした棒を拾って駆け出した。向かう先は少年。
「えぇぇぇぇい!」
気合いの入った声と共に振りかぶられる棒きれ。
対して、少年はすっと腰を落とすと大木の陰へと逃げた。五郎はそれを追って棒きれの先端を突き上げるようにして大木の陰の少年を狙う。
——ガン
少し鈍い音と共に棒が弾け飛んだ。
「チッ!」
鋭い舌打ちの音。
五郎が大木のこちら側を駆けて向こうにいるだろう少年を追うのが見える。
——もしや、あの少年は盗人?
ヒメコは飛んできた棒を拾い上げ、身構えた。
——五郎君を助けなければ!
棒をしっかり握って駆け出す。でも大木を巡ろうとした時、少年に投げ飛ばされたのか、五郎がまた茂みの中へと落ちていった。
「ええぇぇぇい!」
ヒメコは棒を振り上げ、少年がいるだろう場所へと振り下ろす。
——ガッ!
棒が何かに当たる音がした。
やった、当たった。当たったわ。盗人をやっつけた。
喜んで五郎を助けに行こうとしたヒメコの腕がぐるりと回され、背をトンと押される。つんのめって転げそうになったヒメコの手首を誰かが引っ張って立たせてくれた。
——え、誰?
その時、ヒメコの横を朱や萌黄色した何かが走り抜けていった。
隙あり、覚悟!」
「今日こそふん縛ってやるわ!」
「早く縄かけて!」
「今日は足からかけましょ」
「あ、すり抜けた!そっち、もっと強く押さえてて!」
「あっ逃げた!急所押さえて一気に息の根とめないと駄目よ!」
そっち行ったわよ、五郎!足を狙いなさい」
甲高い女の子の声が複数。でもその内容はかなり殺伐としている。
よくよく見てみれば、妹姫たちが勢揃いしていた。襷をかけて鉢巻をしめ、縄を手に、盗人少年を取り囲んでいる。きっと何度も何度も盗みに入っているのだろう。
それにしても姫たちの逞しさには惚れ惚れするばかり。
と、ヒメコの腕がいきなり引っ張り上げられた。
聞き慣れない音に違和感を覚えて眼を覚ます。見覚えのない模様の几帳。その向こうに誰かいる。そっと覗いたら女の子たちが沢山、それぞれ縮こまって眠っていた。スースーと安らかに続く寝息に、やっと記憶が戻る。
そうだ、ここは箱根を越えた伊豆の北条館。祖母の婿にあたる藤九郎叔父が仕える佐殿が、この北条の姫の元に通っているというので、その人となりを見定める役目を与えられたのだった。
ヒメコは観音さまのお顔を思い出して、あーあとため息をついた。
——やっぱり佐殿のお相手は観音さまだった。
佐殿は好きだ。たまに会いに来て、字などを教えてくれた。観音さまも好きだ。よくわからないけど惹かれる人だ。好きな人同士が結ばれたのだから申し分ない筈なのだが、どちらも取られてしまったようで寂しいのだろうか。
ううん。ヒメコは首を横に振った。それだけじゃない。一人の姫君の顔を思い出す。同じことを繰り返さない為だ。
——カーン、カーン。
何かを打ちつけるような音はまだ続いている。
目が冴えてしまったヒメコは外へと抜け出した。
冷たい空気が身体の芯をシャンと伸ばしてくれる。
「あ、姫姉ちゃん」
幼い声に振り返れば、五郎が晴れやかな笑顔で駆け寄ってきた。
「五郎君でしたよね。おはようございます」
挨拶をしたら、少年はぱあっと顔を輝かせて挨拶を返してくれた。
やっぱり目の眩むような可愛らしさ。さすがは観音さまの弟君だと、うっとり見とれていたら、はい、と棒きれを渡された。
「わぁい、姫姉ちゃんも朝の修行するんだね。やったぁ!」
勢いに呑まれ、よくわからないまま、棒きれを受け取り、うんと頷く。
「じゃあ、早くそれ振りかぶって!」
促され、渡された木の棒を両手で掲げ上げる。
と
——カーン!
音と共に掲げた木の棒が弾き飛ばされた。
よろけたヒメコの背がドンと何かにぶつかる。
「よけてろ」
見たことのない少年がヒメコの後ろにいて、ついっと横へと指を走らせた。言われるままそちらへと足を踏み出した時、足元を何かが駈け去ったのが見えた。
猫か犬より少し大きいもの。まさか猪?
こわごわ振り返ったヒメコの前では、五郎が大木にしがみついてよじ登っていた。見る間に登りきって枝へと足をかける。器用に枝から枝を伝っていくが、伸ばした手の先は細枝。危ないと言いけた時、五郎はいきなり更に細い蔓のような細枝めがけて飛んだ。
硬直したヒメコの横で誰かが動いた。さっきの少年だ。ホッとしたヒメコの前に、ザザザッと大きな葉がすれの音と共に五郎が落ちてきて緑の茂みの中に落ちる。
「だ、大丈夫?」
でもヒメコが駆け寄る前に五郎は茂みから飛び出すと、掴んでいた細い枝葉を投げ捨て、先にヒメコが落とした棒を拾って駆け出した。向かう先は少年。
「えぇぇぇぇい!」
気合いの入った声と共に振りかぶられる棒きれ。
対して、少年はすっと腰を落とすと大木の陰へと逃げた。五郎はそれを追って棒きれの先端を突き上げるようにして大木の陰の少年を狙う。
——ガン
少し鈍い音と共に棒が弾け飛んだ。
「チッ!」
鋭い舌打ちの音。
五郎が大木のこちら側を駆けて向こうにいるだろう少年を追うのが見える。
——もしや、あの少年は盗人?
ヒメコは飛んできた棒を拾い上げ、身構えた。
——五郎君を助けなければ!
棒をしっかり握って駆け出す。でも大木を巡ろうとした時、少年に投げ飛ばされたのか、五郎がまた茂みの中へと落ちていった。
「ええぇぇぇい!」
ヒメコは棒を振り上げ、少年がいるだろう場所へと振り下ろす。
——ガッ!
棒が何かに当たる音がした。
やった、当たった。当たったわ。盗人をやっつけた。
喜んで五郎を助けに行こうとしたヒメコの腕がぐるりと回され、背をトンと押される。つんのめって転げそうになったヒメコの手首を誰かが引っ張って立たせてくれた。
——え、誰?
その時、ヒメコの横を朱や萌黄色した何かが走り抜けていった。
隙あり、覚悟!」
「今日こそふん縛ってやるわ!」
「早く縄かけて!」
「今日は足からかけましょ」
「あ、すり抜けた!そっち、もっと強く押さえてて!」
「あっ逃げた!急所押さえて一気に息の根とめないと駄目よ!」
そっち行ったわよ、五郎!足を狙いなさい」
甲高い女の子の声が複数。でもその内容はかなり殺伐としている。
よくよく見てみれば、妹姫たちが勢揃いしていた。襷をかけて鉢巻をしめ、縄を手に、盗人少年を取り囲んでいる。きっと何度も何度も盗みに入っているのだろう。
それにしても姫たちの逞しさには惚れ惚れするばかり。
と、ヒメコの腕がいきなり引っ張り上げられた。
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