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第1章 若紫の恋
第1話 出逢い
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ヒミカです」
咄嗟にそう答えてしまってから慌てて自分の口を塞ぐ。
いけない。秘しておくよう言われていた自分の真名を明かしてしまった。
——どうしよう。
言い直して誤魔化そうかと顔を上げた時、その女性と真正面から目が合った。卵型の面に真っ直ぐな鼻筋、少し褪せたような淡い色の瞳はメダカのように緩やかな弧を描いて吊り上っていたけれど、おかしそうに上がった口角につられて、太くしっかりとした眉尻が下がり、全体として柔和な観音さまのような包容力を感じさせた。だからヒミカは真名を渡したことに却って安堵した。だって祖母はよく言っていた。
「咄嗟の言動には神が宿る。善いことも悪いこともその結果を受け入れろ、と。
さて、私の真名を得たこの観音さまはどう出るか?
恐る恐る、でも不思議と心ときめかせて観音さまを今一度見上げる。すると観音さまはそのメダカのような瞳を一瞬カッと大きく見開いて鷲のような鋭い眼光でヒミカの瞳の奥を覗き込んだ。その瞬間、ヒミカの胸は射抜かれたように一つ大きく鼓動し、早鐘のようにドクドクと収縮を繰り返し始め、熱を帯びた何かが全身を駆け抜けていった。同時に背の下の方からゾワゾワとした悪寒が首の付け根に向かって走り上ってきて、ヒミカはブルリと身を震わせた。
——な、何これ。
コクリと喉が鳴る。でも呑み込む唾が出ない。声も出ない。口が開かない。熱い塊が喉につっかえたように留まって息が出来ない。
苦しい。
何なの、これ。
頭がガンガンとする。手が震える。苦しい。胸を押さえるけれど、どうにもならない。
「あ!」
誰かが小さく悲鳴をあげたけど、ヒミカはそれが自分に向けられたものとわからなかった。視界が暗くなって音が聴こえなくなっていく恐怖を覚えた直後、背の真ん中辺りにトンと軽い衝撃を与えられた。
——あったかい。
誰かが肩を支えてくれている。大きくて温かい掌がヒミカの口元を軽く覆った。
「落ち着け。ゆっくり息をしろ。落ち着いたら鼻から少し吸ってもいい」
耳元で囁かれる低い声にコクコクと頷き、ハッハッと息をしてみて、それから思い切って鼻からゆっくり息を吸い込む。
水の気配と共に風が体の中に入ってきて体の中を冷やし、めまぐるしく駆け回っていた体の中の何かが落ち着いていく。
でも気付く。自分の口を覆うこの手は誰の物?
口元を覆う手を引き剥がし、立ち上がって振り返ろうとした途端、くらりと目が回って前につんのめった。誰かがヒミカの脇を後ろから持って抱え上げる。その時、厳しい声が飛んだ。
「これ、小四郎!手荒に扱うんじゃありません!ヒメコ様は比企の姫君なんですからね。奥の南の部屋に丁重にお運びして!」
強いけど軽やかで勢いのある命令口調。これは誰の声?
やがてヒミカは陽当たりの良い一室に横にされてホッと息を吐いた。開け放たれた蔀戸。爽やかな風と共に漂ってきた一筋のお香の匂い。これは沈香?そう、あの人の香りだ。やはり、あの人はここに居るんだ。
そこで、はたと自分の役割を思い返す。ヒミカは祖母より言いつかって、あの人が選んだ姫を視はかる為にここに来たのだった。
咄嗟にそう答えてしまってから慌てて自分の口を塞ぐ。
いけない。秘しておくよう言われていた自分の真名を明かしてしまった。
——どうしよう。
言い直して誤魔化そうかと顔を上げた時、その女性と真正面から目が合った。卵型の面に真っ直ぐな鼻筋、少し褪せたような淡い色の瞳はメダカのように緩やかな弧を描いて吊り上っていたけれど、おかしそうに上がった口角につられて、太くしっかりとした眉尻が下がり、全体として柔和な観音さまのような包容力を感じさせた。だからヒミカは真名を渡したことに却って安堵した。だって祖母はよく言っていた。
「咄嗟の言動には神が宿る。善いことも悪いこともその結果を受け入れろ、と。
さて、私の真名を得たこの観音さまはどう出るか?
恐る恐る、でも不思議と心ときめかせて観音さまを今一度見上げる。すると観音さまはそのメダカのような瞳を一瞬カッと大きく見開いて鷲のような鋭い眼光でヒミカの瞳の奥を覗き込んだ。その瞬間、ヒミカの胸は射抜かれたように一つ大きく鼓動し、早鐘のようにドクドクと収縮を繰り返し始め、熱を帯びた何かが全身を駆け抜けていった。同時に背の下の方からゾワゾワとした悪寒が首の付け根に向かって走り上ってきて、ヒミカはブルリと身を震わせた。
——な、何これ。
コクリと喉が鳴る。でも呑み込む唾が出ない。声も出ない。口が開かない。熱い塊が喉につっかえたように留まって息が出来ない。
苦しい。
何なの、これ。
頭がガンガンとする。手が震える。苦しい。胸を押さえるけれど、どうにもならない。
「あ!」
誰かが小さく悲鳴をあげたけど、ヒミカはそれが自分に向けられたものとわからなかった。視界が暗くなって音が聴こえなくなっていく恐怖を覚えた直後、背の真ん中辺りにトンと軽い衝撃を与えられた。
——あったかい。
誰かが肩を支えてくれている。大きくて温かい掌がヒミカの口元を軽く覆った。
「落ち着け。ゆっくり息をしろ。落ち着いたら鼻から少し吸ってもいい」
耳元で囁かれる低い声にコクコクと頷き、ハッハッと息をしてみて、それから思い切って鼻からゆっくり息を吸い込む。
水の気配と共に風が体の中に入ってきて体の中を冷やし、めまぐるしく駆け回っていた体の中の何かが落ち着いていく。
でも気付く。自分の口を覆うこの手は誰の物?
口元を覆う手を引き剥がし、立ち上がって振り返ろうとした途端、くらりと目が回って前につんのめった。誰かがヒミカの脇を後ろから持って抱え上げる。その時、厳しい声が飛んだ。
「これ、小四郎!手荒に扱うんじゃありません!ヒメコ様は比企の姫君なんですからね。奥の南の部屋に丁重にお運びして!」
強いけど軽やかで勢いのある命令口調。これは誰の声?
やがてヒミカは陽当たりの良い一室に横にされてホッと息を吐いた。開け放たれた蔀戸。爽やかな風と共に漂ってきた一筋のお香の匂い。これは沈香?そう、あの人の香りだ。やはり、あの人はここに居るんだ。
そこで、はたと自分の役割を思い返す。ヒミカは祖母より言いつかって、あの人が選んだ姫を視はかる為にここに来たのだった。
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