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第1章 鎌倉

第1話 囚

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今は遠い昔の話。
 ちじゅ。と、そう呼んでくれる人があった。

 その人は遠い西国の都に高貴な方のお子として生まれ、私は海に程近い駿河国の安倍川のほとり、手越という田舎の宿場町の長者の娘として生まれた。出逢う筈などなかった。
でも会ってしまった。その声を聴き、その奏でる笛の起こす風を感じ、その白い肌から立ち昇る麗々しい匂いを嗅いでしまった。香りには魔力が宿る。私は魔に囚われた。二度と戻れぬ道へと足を踏み入れた。


私の名は千寿。代々の村長をしていた家はそれなりに裕福で、両親は一人娘の千寿を大層可愛がってくれたけれど、千寿の容姿は人並み。いつか近隣の働き者を婿に取り、生涯この川辺で過ごすのだ。それが幸せな生き方なのだと信じていた。そんな千寿のただ一つの楽しみは琵琶を奏でること。


千寿は琵琶の音が好きだった。一押しした時のベンと気張った凛々しい音、一跳ねした時のビンと張り詰めた音、ばちを寝かせて掻き揺らした後の、えもいわれぬ物寂しげな余韻よいん。父母は琴を習うよう薦めたけれど、千寿は琵琶に固執した。ずんぐりとした猫の後ろ姿のようなまろやかなその姿を愛していた。その細い首に指を添え、腰を抱えて腹に撥を当てる。琵琶は時に甘え、すり寄り、千寿に翻弄ほんろうされながら嬉し気に催促さいそくする。もっと弾いて。爪弾つまびいて。押して。押し上げて引っ張って。その甘いささやきに千寿は酔いしれた。朝から晩まで、食も忘れる程に琵琶とたわむれおぼれていると、やがて村の人がうわさを広げる。

「手越の長者の娘は、器量は人並みで地味なつまらない娘だが、琵琶の音は素晴らしく、琵琶を抱えて掻き鳴らしている姿は妖艶で、そのあでやかさは手越の宿の名売れの遊女を超すとか」

 噂を聞いた男たちが千寿を妻にと請うてきたけれど、父母は全てはねのけてくれた。
 でも二十歳になったある日、千寿は急に鎌倉に呼ばれ、御台様付きの侍女として仕えることになった。琵琶が得意な女官を探していたのだと言われた。また、容姿が人並みで地味で目立たないのが却って好ましく思われたらしい。女官名として、千手という名が与えられた。でも千寿は御所になど上がりたくなかった。鎌倉の御所には華やかで美しい女官、女房らが数多いる。どの方々も名だたる武将の姫君。その中で一人、地味で不美人な平民の娘など浮くばかり。ひっそりと裏の仕事をこなす日々。狭い女官部屋では大好きな琵琶を気軽に弾くことも出来ずに鬱々うつうつと過ごす。

 そんなある日、突然御所様に呼ばれた。琵琶を持って御所の敷地内の小さな建物に入るよう命じられる。案内されて着いた建物の周辺には十数名の武士達が鎧をつけて立っている。何事だろう?

 でも何事も何も、女が呼ばれて建物に入れられるとなったら、用など知れている。千寿は覚悟を決めた。琵琶を弾くと人が変わるという噂を聞きつけ、余興になぶるつもりなのかもしれない。しょんない。鎌倉に呼ばれた時から、その危惧はあった。でも御台さま付きということだったので、もしかしたら姫さまの琵琶の手解きをと言われるのかもしれないと淡い期待をしていたのだ。鎌倉の御所様は、浮気相手の屋敷を御台さまに打ち壊されたことがあると聞いていた。
 ということは、明日にはこの建物は壊されるのかも知れない。こんな地味な女だからと御台さまは油断したのだろうか。でも断じて浮気ではない。単なる暇つぶしの余興なのだ。だからどうか建物は壊しても、私とこの琵琶だけは見逃して欲しい。

  虚しくそう祈りながら建物の中で琵琶を抱き締め、そのまろやかなお尻を撫でゆく。そうしている内に少しずつ心が落ち着いてきた。
  もういい。どうせなぶられて殺されるなら、その前に心ゆくまでこの子を弾こう。


  千寿は深く息を吸うと、バチを握って寝かせた。


——ボロロン。

  ああ、良い音。千寿は琵琶が放った音の波と、抱えた丸い体が千寿の肚に伝えて来た弦の細かな震えに身を震わせた。


——ビン。ビン。ベンベンベン。ボロボロロン。
 一掻きするごとに空気が震え、建物の小さな部屋の壁にぶつかり、千寿の額に返ってくる。チリチリと焼けるようによろこぶ眉間。


  その時突然、笛の甲高い響きが重なった。戸が開いて誰かが入ってくる。濃い藍色の直垂に高い烏帽子。身分の高そうな品の良い若い男性だった。続いて、 落ち着いた渋い色合いの水干姿の年配の男性と、鮮やかな水色の直垂姿の中年の男性。彼らがそれぞれ座についたら、女官らによって、どっさりと菓子や果物が乗せられた高坏が次々と運び込まれてきた。年配の男性が若い男性に向かって頭を下げて礼をすると口を開いた。
「お慰みにと、御所様が酒も下されました。東国の酒が中将殿のお口に合えば良いのですが」
 対して、若い男性が笑顔を返す。
「これは有難い。では、早速」
 そう言って、中将殿と呼ばれた若い男性は千寿を見た。
「ゆきましょうか」
  え、どこへ?そう問いかけようとした千寿の前で、彼は竜笛りゅうてきを口にした。
——ヒュルリ~
  あ。千寿は気付いた。この曲は聴いたことがある。ゆくとはそういう意味か。
 千寿は琵琶を抱え直した。笛の音の間に撥を入れていく。

 少ししたら鼓の音が追ってきた。中年の男性が鼓の前に座って調子を取っている。高い龍笛の旋律が舞い上がり、その合間に琵琶が拍子を取る。そして年配の男性が声を震わせる。まるでしょうの笛の音を口にしているような不思議な声。

 終わりまで来た時に若い男性が横笛から口を放し、微笑んで言った。
「『五常楽の急』をまた合奏出来るとは思いもしませんでした。しかし、今の私には『五常楽』ではなく、『後生、楽』と言うべきですね」
 千寿は首を傾げた。何を言ってるのかわからなかったから。
「では次は皇ジョウ急を。と言っても私にとっては往生、急、ですね」
  そう言って明るく笑いだす。またしても意味がわからず、千寿は戸惑って周りを見回した。千寿以外の皆は分かり合えているようで、明るく楽しげに笑っているのが何だか少し気にかかったが、どうせ自分は余興。気にしないで琵琶を弾いていればいいのだ。そう、オウジョウキュウという曲は確かこんなではなかったか。

 千寿は琵琶に撥を当てて鳴らし始めた。すると鼓と横笛が後を付いてくる。いつも殆ど一人で弾いていたから、音が重なると、こんなにもビリビリと肌が粟立つものなのかと目眩めまいがする程に心が大きく揺さぶられる。
——楽しい。

 千寿は夢中で波を追いかけ、うねりに合わせて弾かせた。その内に、知らない節になっていったけれど気にせずに付いて行く。琵琶は熱く火照り、撥を握った右手はビリビリと痺れ、弦を押さえる左手の指が悲鳴を上げる。でもこの波に乗り損ねたくなかった。必死に左手を操る。


——ビン!

 唐突な音に場が静まった。
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