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第四章 火伏せり、風封じ
第22話 金克木
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あちらこちらに行き交う人の波に呑まれ、開耶と少女は暫し、その場で茫然と立ち尽くす。でも逃げる他ないのだ。
開耶は痛む脚を押さえて辺りを見回した。
——どちらに行けばいい?
風向きを見る。強い南風だけど、真南ではない。少し西へと流れて行く風。ならば東寄りの小路なら、逃げられるかもしれない。
潤んだ目で開耶を見上げる少女の手を引いて、東に通じる小路へ入り込む。思った通り人通りは少ない。既に荷を纏めて逃げ終えた後なのか、不気味に静まった家々の間を抜けて、東寄りの海へと続く路に辿り着く。
そこで咲耶は大きく息を吐いてその場に腰を下ろした。右の脚が熱を発していた。
「ここを真っ直ぐ行けば、由比の海よ。あなたの家族もきっとそこであなたを探しているわ。さぁ、あの人たちの後をついて行きなさい!」
前を駈けて行く親子連れを指差し、開耶は少女の背を押した。動けない開耶をつと顧みて、でも口を引き結んで駈け出す少女の背を見送りながら、その家族の無事を祈る。連れて行ってあげたかった。家族を探してあげたかった。でも、もう脚が動きそうになかった。それに煙を吸い込んでしまって焼き付くように痛む喉。胸。
開耶はその場に留まって、類焼を免れた壁にもたれかかりながら、先ほど上空から見た光景を思い出していた。この火を起こしたのは母だ。中身はどうあれ、その身体は母のものだ。火付けは重罪。いや、それよりも、これだけの大火となったのだ。どれだけの死者が出ているかわからない。火はまだ消える気配を見せず、鎌倉中を燃やし尽くすように赤黒く天を焦がしている。逃げ遅れている人もまだいるだろう。何とか火を弱める手はないものか。母の身を、魂をこれ以上穢すわけにはいかない。開耶は手を合わせて懸命に祈った。
「諏訪の龍神様、どうか雨を降らせてださいませ。火を……火を消してくださいませ」
枯れた咽でそう念じた時、ふと開耶は思った。火を抑えられるのは水。でも今のここにはそれだけの水の、雲の気配がない。土も。
でも——
開耶は辺りを見回した。
——でも、この風を抑えることなら出来ないだろうか?
考えを巡らせた開耶は思い出した。
「そうだ、風封じの術……!」
諏訪の社では秋の大風の前に薙鎌を御柱に突き立て、風封じの儀式を行う。金気である鉄の鎌を木に打ち込むことで、木気である風を封じこめて災禍を軽くしようという祝法だ。五行説での金克木。
——何でもいい。何でもいいから金と木があれば。
急いで周りを見回すが、金となるものが見当たらない。その時、ふと自分の首に掛けていた紐が震えて、その気配を開耶に伝えてきた。
そうだ!
胸元からお守りの木片を取り出す。
その中央に埋め込まれた黒曜石。開耶は木片を左手に握り、右手の中指と人差し指の二本を真っ直ぐ伸ばしてぴたりと揃えて手刀にし、黒曜石目掛けて十字を刻んだ。
「風よ、鎮まって!」
幾度それを繰り返しただろうか。
風がそよりとやわらかくなった。ズズズ……と重たい何かが風を押しとどめるような気配。開耶は空を見上げた。樹々を激しく揺らしていた風が、その激しさを弱めている。代わりに、焼き焦がされた天が黒雲を流してきてくれた。ポツリと落ちてくる涙のような雫。
「あ……」
開耶は木片を握り締め、感謝を申し上げる。
「有り難う御座います。諏訪の神様、建御名方様、龍神様——」
ホッとしてその場にへたり込む。
——だがその直後、開耶は腕を掴み上げられた。
手の中にあった木片を繋いでいた紐がぷつりと切れる。
「お前。今、何をしていた!」
大柄な男が開耶を見下ろしていた。
「これは火打の石だな!」
強い怒声に開耶は竦み上がる。
「おまえが火を付けたのか!」
辺りに広がる鋭い殺気。開耶は慌てて立ち上がった。
「違います! 私は火など付けていません!」
「でも石を打っていたのを俺は見たぞ!」
「違います! 十字を切っていただけです。私はまじない師です。風を止めようと祈っていただけ!」
「まじない師だと? 鎌倉に呪詛をかけているのか!」
「違います!」
開耶の周りの人達は刃のように鋭い殺気を帯びた目で開耶を見ていた。
「私は、火など付けていません! そんなことするわけありません!」
懸命に叫ぶが、そうしながら感じた。叫べば叫ぶ程、人々が開耶を見る目が冷たくなっていくことに。
彼らは誰かを犯人にして、火の恐怖から逃れたいのだ。誰かを捕まえて生贄にしてしまえば火は消え、全ては収まると。
開耶は痛む脚を押さえて辺りを見回した。
——どちらに行けばいい?
風向きを見る。強い南風だけど、真南ではない。少し西へと流れて行く風。ならば東寄りの小路なら、逃げられるかもしれない。
潤んだ目で開耶を見上げる少女の手を引いて、東に通じる小路へ入り込む。思った通り人通りは少ない。既に荷を纏めて逃げ終えた後なのか、不気味に静まった家々の間を抜けて、東寄りの海へと続く路に辿り着く。
そこで咲耶は大きく息を吐いてその場に腰を下ろした。右の脚が熱を発していた。
「ここを真っ直ぐ行けば、由比の海よ。あなたの家族もきっとそこであなたを探しているわ。さぁ、あの人たちの後をついて行きなさい!」
前を駈けて行く親子連れを指差し、開耶は少女の背を押した。動けない開耶をつと顧みて、でも口を引き結んで駈け出す少女の背を見送りながら、その家族の無事を祈る。連れて行ってあげたかった。家族を探してあげたかった。でも、もう脚が動きそうになかった。それに煙を吸い込んでしまって焼き付くように痛む喉。胸。
開耶はその場に留まって、類焼を免れた壁にもたれかかりながら、先ほど上空から見た光景を思い出していた。この火を起こしたのは母だ。中身はどうあれ、その身体は母のものだ。火付けは重罪。いや、それよりも、これだけの大火となったのだ。どれだけの死者が出ているかわからない。火はまだ消える気配を見せず、鎌倉中を燃やし尽くすように赤黒く天を焦がしている。逃げ遅れている人もまだいるだろう。何とか火を弱める手はないものか。母の身を、魂をこれ以上穢すわけにはいかない。開耶は手を合わせて懸命に祈った。
「諏訪の龍神様、どうか雨を降らせてださいませ。火を……火を消してくださいませ」
枯れた咽でそう念じた時、ふと開耶は思った。火を抑えられるのは水。でも今のここにはそれだけの水の、雲の気配がない。土も。
でも——
開耶は辺りを見回した。
——でも、この風を抑えることなら出来ないだろうか?
考えを巡らせた開耶は思い出した。
「そうだ、風封じの術……!」
諏訪の社では秋の大風の前に薙鎌を御柱に突き立て、風封じの儀式を行う。金気である鉄の鎌を木に打ち込むことで、木気である風を封じこめて災禍を軽くしようという祝法だ。五行説での金克木。
——何でもいい。何でもいいから金と木があれば。
急いで周りを見回すが、金となるものが見当たらない。その時、ふと自分の首に掛けていた紐が震えて、その気配を開耶に伝えてきた。
そうだ!
胸元からお守りの木片を取り出す。
その中央に埋め込まれた黒曜石。開耶は木片を左手に握り、右手の中指と人差し指の二本を真っ直ぐ伸ばしてぴたりと揃えて手刀にし、黒曜石目掛けて十字を刻んだ。
「風よ、鎮まって!」
幾度それを繰り返しただろうか。
風がそよりとやわらかくなった。ズズズ……と重たい何かが風を押しとどめるような気配。開耶は空を見上げた。樹々を激しく揺らしていた風が、その激しさを弱めている。代わりに、焼き焦がされた天が黒雲を流してきてくれた。ポツリと落ちてくる涙のような雫。
「あ……」
開耶は木片を握り締め、感謝を申し上げる。
「有り難う御座います。諏訪の神様、建御名方様、龍神様——」
ホッとしてその場にへたり込む。
——だがその直後、開耶は腕を掴み上げられた。
手の中にあった木片を繋いでいた紐がぷつりと切れる。
「お前。今、何をしていた!」
大柄な男が開耶を見下ろしていた。
「これは火打の石だな!」
強い怒声に開耶は竦み上がる。
「おまえが火を付けたのか!」
辺りに広がる鋭い殺気。開耶は慌てて立ち上がった。
「違います! 私は火など付けていません!」
「でも石を打っていたのを俺は見たぞ!」
「違います! 十字を切っていただけです。私はまじない師です。風を止めようと祈っていただけ!」
「まじない師だと? 鎌倉に呪詛をかけているのか!」
「違います!」
開耶の周りの人達は刃のように鋭い殺気を帯びた目で開耶を見ていた。
「私は、火など付けていません! そんなことするわけありません!」
懸命に叫ぶが、そうしながら感じた。叫べば叫ぶ程、人々が開耶を見る目が冷たくなっていくことに。
彼らは誰かを犯人にして、火の恐怖から逃れたいのだ。誰かを捕まえて生贄にしてしまえば火は消え、全ては収まると。
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