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第1章 初恋の彼は、私の運命の人じゃなかった

Ep.10 桜の刺繍が繋ぐもの (ガイア視点)

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 その日は、朝からなんとなく浮き足立っていた。

 殿下がナターリエをほったらかして入れあげた小娘に彼女が危害を加えたとされる例の事件。その唯一の証人であるセレスティアに一刻も早くナターリエの無実を証言してもらう為にまずは彼女に優しくして気を許してもらう作戦も至って順調に進み、気づけば俺がスチュアート家で暮らすようになってひと月経った。そして今朝、王都で暮らしているナターリエから手紙が届いたのだ。
 開くのが勿体ないような、一刻も早く目を通したいような葛藤の末に公爵家の蝋印で閉じられた封を開いてみれば、なんとナターリエ自身がこの土地にやってくると言う。

 思えば王都を離れてから、俺からは毎週末のセレスティアの記憶の現状についての定期報告の手紙を欠かさず送り続けて来たが。それに関して返事は来たことが無かったし、ましてやナターリエの方から手紙を認められるなど生まれて初めての経験だったから、有り体に言って、舞い上がった。
 無意識に上がってしまう口角を隠そうと片手で口元を覆った俺を見たセレスティアの何か言いたげな眼差しも気にもならないほどに浮かれて切っていた。

 その油断が招いた結果だと今さら後悔しても遅い。『まずはお風呂でしっかり疲れを取って!』と半ば無理やりセレスティアに押し込まれた風呂の湯船につかりながら、何度目になるかわからないため息をこぼした。



 ナターリエが思い出に何かひとつ買って欲しいと選んだ装飾品の露店。どれが一番似合うだろうかと商品を吟味していた彼女に向かい、店主を装った賊が長い刃で襲いかかってきたのだ。反射的に彼女の前に回り込んで攻撃を弾きはしたものの、その際に貰った一刀で胸ポケットにしまっていたお祖父様の片見のハンカチーフが切り裂かれてしまったのだ。
 正直、ショックだった。しかしそんな俺に、毅然と背筋を伸ばしたナターリエは『破れてしまったのは残念なことだけれど、今日この時に破れてしまったと言うことはきっと過去を忘れて未来に進みなさいと言うことなのよ』と言い放ち、賊が出たばかりのこの領地に居るのは不安だからと第二王子の屋敷に行ってしまった。ショックが大きすぎたせいか、振り返りもせずに一人で馬車に乗り込んでいく彼女を呼び止めようとすら思わなかった。

 風呂からあがると、破けたハンカチーフを見つけてしまったらしいセレスティアから事情を聞かれたので、大したことはないと淡々と受け流した。
 そうだ、騎士足る者、幼い頃の思い出の品がひとつ壊れたくらいでこんな風に動揺してはならないのだ。
 そう己に言い聞かせながら、泣きそうな顔のセレスティアが握りしめていたハンカチーフを取り上げくずかごに叩き捨てた。
 ここまでが、自室でこうしてベッドに入るほんの二時間程前の話だ。





「……駄目だ、眠れそうにない」
 
 目を閉じて眠ろうとしても、微睡む度にハンカチーフをくれた時の老父の笑みがちらついて目が覚めてしまう。何度目になるかわからない寝返りに勢いをつけて、そのままベッドから起き上がった。
 やはり、例えナターリエに捨て置けと言われたとしてもあれだけはどうしても捨てられそうにない。

 ふと時計を見やれば、深夜0時まであと僅か。この時間なら、もう皆寝入っていてリビングにも誰も居ないだろう。
 そう予想して、一度は捨ててしまったハンカチーフを回収しにリビングに向かったのに。

「よーし、間に合ったぁ!きゃっ!」

「……っ!?危ない!」

 誰も居ない筈の深夜のリビングには、何故だかセレスティアが居座っていた。
 何故まだここに、とか、夜更かししているから寝ぼけてソファーから滑り落ちかけるんだ、とか。たくさん浮かんでいたセレスティアへの文句は、彼女が差し出してきたそれの衝撃で全部吹っとんでしまった。
 いっそ新品と見間違うほどに丁寧に修繕された空色のハンカチーフ。俺の、たったひとつの大切なもの……。
 恐る恐る広げてみれば、一風変わったピンク色の糸で紡がれていた花の刺繍まですっかり元通りになっていて喜びと同時に戸惑う。
 もう同じ色の糸は手に入らないはずなのに、一体どこから材料を入手したのかと。

 しかし、その答えはすぐに見つかった。刺繍がほどかれて無地になってしまった彼女の宝物のエプロンが、すぐ側のソファーに置かれていたからだ。

 つまりセレスティアは、母の形見とも言える大切なエプロンの刺繍をほどき、その糸でこのハンカチーフを直してくれたのだ。

 どうしてだ、大切な品を失ってまでこれを直したって、お前には何の得もないだろう。

『お誕生日おめでとう。プレゼントとはちょっと違うけど、これが私からのお祝いね!』

 俺はどんなに光に焦がれても所詮は大切な物を持つことも許されない忌み子で、生まれたことを祝ってもらえるような立場ですらないのに。セレスティアはただ無邪気に笑って、俺の手にハンカチーフを握らせる。

『忌み子の“忌み”って嫌われてる人に使う言葉でしょう?ルカもルナも、もちろん私も貴方が好きよ。好かれてるなら忌み子じゃないよね』

 この一ヶ月お前に優しくしていたのだって、ただお前を利用しようとしてただけ。ましてや、騎士として仕えている訳でもなく普通に生活しているだけの俺は、セレスティアやこの屋敷に取って何の価値もない筈だ。なのに、どうして。

『お誕生日おめでとう。それから、生まれてきてくれて、ありがとう』

 どうしてお前は、こんなにも何の打算もなく優しくしてくれるんだ。


 
 セレスティアに握らされたハンカチーフを持ったまま、左胸を強く押さえる。じわりと暖かい“何か”に心臓が締め付けられているような感覚に戸惑う。苦しいようで心地良いような、甘く疼くような痛みに悶える俺を、不安げなセレスティアの声が呼び戻す。

「え、えと、余計な御世話だった?」

「ーっ!」

 いつも元気で世話焼きな彼女らしくない不安げな顔にハッとして。

「いいや、違う。嬉しいんだ、ありがとうセレスティア。……いや、“セレン”」

 彼女に信頼される為の打算的な『模範解答』を考えるより先に、気がついたらそう答えていた。あれほど頑なに呼ぶまいと思っていた彼女の愛称を、このときは何故だか無性に呼んでみたいと思ってしまって。

 しかし肝心の彼女は、名を呼んだ瞬間硬直してしまった。しまった、馴れ馴れし過ぎたかと訂正しようとしたのだが。

「へへ、喜んでもらえて良かった」

「…………っ!!」

 訂正するより先に、セレンはそう言ってふわりと笑った。

 それを見た瞬間にドクンと強く脈打った心臓がこれ以上彼女の笑顔を直視しては駄目だと警報を鳴らしているような気がして、そのあと俺は一度もセレンの目を見ることが出来なかった。
 

    ~Ep.10 桜の刺繍が繋ぐもの (ガイア視点)~


  『麗らかなその優しさが、乾いた心に染みていく』

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