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最終話
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月が明るい。
広い庭に降り積もった雪が月光を反射し、障子紙をすり抜けて室内を満たす。霧のようなやわやわとして掴み所のない光は、床を這いながら床の間に到達し、そこに飾られた木蓮の刺繍は、下からの光で浮かび上がっていた。
花に使った紫の糸や、濃い色の幹は闇に溶けているくせに、花びらや雪の積もった枝などの白い部分と、葉の薄い緑が明るく見えた。
木蓮が用意してくれたタオルで体を拭いて、疲れ切った裸体に直接綿入れだけを羽織って。私は情交の香りが染みついた布団に寝そべり、刺繍を見上げていた。
手前の落とし掛けのせいで、床の間の天井はあるところから急に陰影を濃くして、見上げていると闇に吸い込まれそうになる。
その先を恐ろしく思っていたけれど、今はもう怖くない。
スッと襖が擦れる音がする。
その音にも私は振り向かなかった。
この家で、私以外に襖を動かすのは木蓮しかおらず、わざわざ首を向けて確かめることでもない。
畳を踏む音が何度かして、木蓮が私のそばに座った。
「春告、大丈夫?」
木蓮の声はもう、元に戻っていた。
私はそれには答えずに
「ねぇ、木蓮。蘭はよく、ここで刺繍を眺めていたわ。何を考えていたのかしら」
「さあね。俺はあいつじゃないから、何を考えてたかってのは分からないな」
「推測もできない?」
私の背中側にいる木蓮は口を閉ざしてしまったが、私はそちらを振り返らなかった。
言えないことはそれ以上追求しない。
その代わりに、私は冬の間玄関に置いてある紫蘭を見るたびに考えていたことを、木蓮に聞いてみた。
「木蓮は、紫蘭の株分けのやり方、知ってる?」
「急にどうしたの」
「ずっと考えてたの。今三十鉢以上あるでしょう。冬の度にそれを全部移動させるのは大変だなって。十鉢くらいにしない?」
「残りはどうするの」
「庭に植えれば良いじゃない」
私がそう言うと、木蓮はまた黙ってしまった。でも、私は喋るのをやめなかった。
私の中に恐れがあったのと同じで、蘭の中にもそれがあった。私は自分の恐れに向き合えたけれど、彼はそれを克服することなく死んでしまった。でも私はもう、彼らが何を怖がっていて、どういう答えを欲しているか分かっている。
彼は私を確かに愛してくれていたし、それは死んでも尚。だから私も彼が望むようにしたい。それは義務ではなくて、そうすることが私の望みだから。
「あのね、庭にいっぱい紫蘭を植えたいの。それは今年すぐにいっぱいにしなきゃっていうことじゃなくて、何年も何年もかけて。蘭が大事にしてた鉢から株分けして増やしていきたいのだけど」
どうかしら、と聞くと、木蓮は黙ったまま横たわる私の背中に体を寄せてきた。
彼もまた布団に寝転がって、今朝のように私のむき出しの足に、彼の足を絡ませてきた。
「そうだね、株分けは秋がいいと思うけど、本当に地植えにするの?」
なぜ心配そうにそんなことを聞くのだろうか。
私は、私に絡まる木蓮の足を撫でながら
「だって私たち、ここ以外どこにも行かないでしょう」
心底不思議そうに聞けば、彼は私をぎゅっと抱きしめた。
私に回された腕がこのまま私を閉じ込めてしまうのではないかと思うくらいに。木蓮の腕は優しいくせに逃げる隙がなく、それがとても嬉しかった。
「でも、びっくりした。木蓮の中に蘭の声が残っていたなんて」
「春告に会った時にはあいつ、すでに病気に罹ってたんだ」
「そうだったの。最初からそのつもりで、全然キスしてくれなかったのね。一回もしてもらったこと、ないもの」
そう不満げに言えば、そこは分かってやってよ、と苦笑でもって返される。
勿論、さっきのセックスで疑問が氷解した。
彼が頑なに私にキスしてくれなかった理由も、木蓮に私を抱かせたがった理由も。
「肝心なこと、何も言ってくれないのだもの。おまけに今日が結婚記念日だったなんて」
本当に酷い人。
呆れて笑ってしまうくらい酷い人だと思う。
私一人がずっと不安を抱えてて、本当は蘭に愛されていないのではないかと、ずっと猜疑心を持っていたのが馬鹿みたいだ。
そう言って口を尖らせれば、今更何言ってんの、と木蓮に笑われた。彼の振動に合わせて白髪が私をくすぐった。
「蘭のこと、気になる?」
木蓮が思わせぶりに聞いてくるが、私は首を横に振った。そんなの考えるまでもない。彼が私をちゃんと愛してくれていたのが分かったから。それで充分だった。
「春告」
「なぁに?」
「もう、俺に自由にしていいんだよって言わないで。俺を春告から離そうとしないで」
「……うん。ホントはね、私、ずっと木蓮の方がここから出て行きたいんじゃないかと思ってたの」
そういうと、木蓮は少し声のトーンを下げた。
「そんなこと思わない。蘭に言われてないことは、俺はやらない」
その強い言葉に、そうね、と私は頷いた。
結局、私と木蓮はお互いにどう思っているのか、というのを知らなさすぎるのだと思う。それが今日の出来事に繋がってしまった。
「私から見たら、蘭より木蓮の方が保護者みたいだったの。だから貴方にも意思があるのではないかって勘違いしていたのね」
「それは、一番根っこのところで間違ってるね。どこまでいっても俺は、蘭には背かないよ。そう見えたとしても、それはあいつが許した範囲だけの話」
蘭が言っていた、アンドロイドはアンドロイドとは、そういうことなのだろう。彼らは意思があるように作られているけれど、結局のところその意思ですら誰かの作ったものなのだ。いつかそうではない日が来るのかもしれないけれど、それがどういう形なのか、私には想像もできない。
「にしてもさ、結婚記念日の三日後が命日って、あいつ本当に情緒がないよな」
その言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
酷い言われよう。
でも、あの人は確かに情緒はなかったけれど、あの刺繍を前にして畳に胡座(あぐら)をかいて座っていた姿は、目に焼き付いている。
ぼんやりという感じではなく、もっと、童話の中の行ったことがない世界に心を躍らせている少年のような。そういう眼差しだった。
「で、どうするの、今年の命日。春告、毎回ウルメとかキュウリの浅漬けとか、あいつの好物でも、甘くないものばっかり供えてたでしょ」
「うん。今年は生クリームにしようと思っているのだけど」
木蓮にそれを伝えると、角砂糖とかそういうのも一緒に供えようかと聞かれて、私は首肯した。たまには、甘いものを目一杯食べるといい。でも本当に食べるのは私。蘭はせいぜい食べた気にだけなって、下げたものを食べる私を眺めていたらいい、そのユートピアから。
「……ああ、でもココアはもう懲り懲り」
そう言うと、木蓮は声を立てて笑った。案外、癖になるかもしれないよ、と余計な一言を付け足して。
後ろから絡みついてくる木蓮を肘で軽く牽制しながら、私は紫色に染まる庭を想像した。
糸で布を染めていくのも、現実世界で時間をかけて植えていくのも、ゆったりとしていて自分にはぴったり。
春になったら木蓮と一緒に縁側に座って、二人でそれを眺めよう。
目前には紫木蓮と紫蘭が咲いていて、きっと目を閉じても、陽だまりの中でずっと紫が残る。
蘭がひっそりとここにいるみたいに、私はずっとその色の中にいたい。
心臓の鼓動が止まってしまうまで。
針で変わらぬ時を刻みながら、私は彼らと共に。
広い庭に降り積もった雪が月光を反射し、障子紙をすり抜けて室内を満たす。霧のようなやわやわとして掴み所のない光は、床を這いながら床の間に到達し、そこに飾られた木蓮の刺繍は、下からの光で浮かび上がっていた。
花に使った紫の糸や、濃い色の幹は闇に溶けているくせに、花びらや雪の積もった枝などの白い部分と、葉の薄い緑が明るく見えた。
木蓮が用意してくれたタオルで体を拭いて、疲れ切った裸体に直接綿入れだけを羽織って。私は情交の香りが染みついた布団に寝そべり、刺繍を見上げていた。
手前の落とし掛けのせいで、床の間の天井はあるところから急に陰影を濃くして、見上げていると闇に吸い込まれそうになる。
その先を恐ろしく思っていたけれど、今はもう怖くない。
スッと襖が擦れる音がする。
その音にも私は振り向かなかった。
この家で、私以外に襖を動かすのは木蓮しかおらず、わざわざ首を向けて確かめることでもない。
畳を踏む音が何度かして、木蓮が私のそばに座った。
「春告、大丈夫?」
木蓮の声はもう、元に戻っていた。
私はそれには答えずに
「ねぇ、木蓮。蘭はよく、ここで刺繍を眺めていたわ。何を考えていたのかしら」
「さあね。俺はあいつじゃないから、何を考えてたかってのは分からないな」
「推測もできない?」
私の背中側にいる木蓮は口を閉ざしてしまったが、私はそちらを振り返らなかった。
言えないことはそれ以上追求しない。
その代わりに、私は冬の間玄関に置いてある紫蘭を見るたびに考えていたことを、木蓮に聞いてみた。
「木蓮は、紫蘭の株分けのやり方、知ってる?」
「急にどうしたの」
「ずっと考えてたの。今三十鉢以上あるでしょう。冬の度にそれを全部移動させるのは大変だなって。十鉢くらいにしない?」
「残りはどうするの」
「庭に植えれば良いじゃない」
私がそう言うと、木蓮はまた黙ってしまった。でも、私は喋るのをやめなかった。
私の中に恐れがあったのと同じで、蘭の中にもそれがあった。私は自分の恐れに向き合えたけれど、彼はそれを克服することなく死んでしまった。でも私はもう、彼らが何を怖がっていて、どういう答えを欲しているか分かっている。
彼は私を確かに愛してくれていたし、それは死んでも尚。だから私も彼が望むようにしたい。それは義務ではなくて、そうすることが私の望みだから。
「あのね、庭にいっぱい紫蘭を植えたいの。それは今年すぐにいっぱいにしなきゃっていうことじゃなくて、何年も何年もかけて。蘭が大事にしてた鉢から株分けして増やしていきたいのだけど」
どうかしら、と聞くと、木蓮は黙ったまま横たわる私の背中に体を寄せてきた。
彼もまた布団に寝転がって、今朝のように私のむき出しの足に、彼の足を絡ませてきた。
「そうだね、株分けは秋がいいと思うけど、本当に地植えにするの?」
なぜ心配そうにそんなことを聞くのだろうか。
私は、私に絡まる木蓮の足を撫でながら
「だって私たち、ここ以外どこにも行かないでしょう」
心底不思議そうに聞けば、彼は私をぎゅっと抱きしめた。
私に回された腕がこのまま私を閉じ込めてしまうのではないかと思うくらいに。木蓮の腕は優しいくせに逃げる隙がなく、それがとても嬉しかった。
「でも、びっくりした。木蓮の中に蘭の声が残っていたなんて」
「春告に会った時にはあいつ、すでに病気に罹ってたんだ」
「そうだったの。最初からそのつもりで、全然キスしてくれなかったのね。一回もしてもらったこと、ないもの」
そう不満げに言えば、そこは分かってやってよ、と苦笑でもって返される。
勿論、さっきのセックスで疑問が氷解した。
彼が頑なに私にキスしてくれなかった理由も、木蓮に私を抱かせたがった理由も。
「肝心なこと、何も言ってくれないのだもの。おまけに今日が結婚記念日だったなんて」
本当に酷い人。
呆れて笑ってしまうくらい酷い人だと思う。
私一人がずっと不安を抱えてて、本当は蘭に愛されていないのではないかと、ずっと猜疑心を持っていたのが馬鹿みたいだ。
そう言って口を尖らせれば、今更何言ってんの、と木蓮に笑われた。彼の振動に合わせて白髪が私をくすぐった。
「蘭のこと、気になる?」
木蓮が思わせぶりに聞いてくるが、私は首を横に振った。そんなの考えるまでもない。彼が私をちゃんと愛してくれていたのが分かったから。それで充分だった。
「春告」
「なぁに?」
「もう、俺に自由にしていいんだよって言わないで。俺を春告から離そうとしないで」
「……うん。ホントはね、私、ずっと木蓮の方がここから出て行きたいんじゃないかと思ってたの」
そういうと、木蓮は少し声のトーンを下げた。
「そんなこと思わない。蘭に言われてないことは、俺はやらない」
その強い言葉に、そうね、と私は頷いた。
結局、私と木蓮はお互いにどう思っているのか、というのを知らなさすぎるのだと思う。それが今日の出来事に繋がってしまった。
「私から見たら、蘭より木蓮の方が保護者みたいだったの。だから貴方にも意思があるのではないかって勘違いしていたのね」
「それは、一番根っこのところで間違ってるね。どこまでいっても俺は、蘭には背かないよ。そう見えたとしても、それはあいつが許した範囲だけの話」
蘭が言っていた、アンドロイドはアンドロイドとは、そういうことなのだろう。彼らは意思があるように作られているけれど、結局のところその意思ですら誰かの作ったものなのだ。いつかそうではない日が来るのかもしれないけれど、それがどういう形なのか、私には想像もできない。
「にしてもさ、結婚記念日の三日後が命日って、あいつ本当に情緒がないよな」
その言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
酷い言われよう。
でも、あの人は確かに情緒はなかったけれど、あの刺繍を前にして畳に胡座(あぐら)をかいて座っていた姿は、目に焼き付いている。
ぼんやりという感じではなく、もっと、童話の中の行ったことがない世界に心を躍らせている少年のような。そういう眼差しだった。
「で、どうするの、今年の命日。春告、毎回ウルメとかキュウリの浅漬けとか、あいつの好物でも、甘くないものばっかり供えてたでしょ」
「うん。今年は生クリームにしようと思っているのだけど」
木蓮にそれを伝えると、角砂糖とかそういうのも一緒に供えようかと聞かれて、私は首肯した。たまには、甘いものを目一杯食べるといい。でも本当に食べるのは私。蘭はせいぜい食べた気にだけなって、下げたものを食べる私を眺めていたらいい、そのユートピアから。
「……ああ、でもココアはもう懲り懲り」
そう言うと、木蓮は声を立てて笑った。案外、癖になるかもしれないよ、と余計な一言を付け足して。
後ろから絡みついてくる木蓮を肘で軽く牽制しながら、私は紫色に染まる庭を想像した。
糸で布を染めていくのも、現実世界で時間をかけて植えていくのも、ゆったりとしていて自分にはぴったり。
春になったら木蓮と一緒に縁側に座って、二人でそれを眺めよう。
目前には紫木蓮と紫蘭が咲いていて、きっと目を閉じても、陽だまりの中でずっと紫が残る。
蘭がひっそりとここにいるみたいに、私はずっとその色の中にいたい。
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