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第12話
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ちゃんとそこに居てね。
そう言って木蓮は廊下に続く襖を開けて、その向こうに行ってしまった。
私は仕方なく、作業の続きをしようと、針山から黄色の刺繍糸が通った針を抜いた。
ツバメが飛びかうその下は、一面の菜の花畑。
花の一つ一つはフレンチナッツステッチ。巻き数を多めにして緩く刺す。ツバメとの対比で、背景はぼんやりとさせたかったので茎の表現はせずに、花は黄色の濃淡だけで表した。
一口に黄色と言っても十色以上ある。その中から微妙な色合いを見比べて、今回は三色を選んだ。
背景が出来上がるにつれて、そこを飛んでいるツバメはどんどん自由であるように見えてくる。 春の風景の中に溶け込むツバメ。それはただの刺繍なのに、自由を謳歌する姿はとても不幸な事のように見える、自由以外の選択肢が見当たらなくて。
もし、 木蓮が私を置いてどこかに行ってしまったら。
私は、突然降ってきた自由に戸惑い、部屋の隅にうずくまるだろう。
とてもじゃないけど、ツバメのように飛び回ることなんてできない。
その事実に気がついてしまって、私は手の中の小さな世界を、哀しい気持ちで見つめた。
暫くして木蓮は、お盆に湯気の立つマグカップを乗せて戻ってきた。
「休憩しよう、春告」
そう言って私の傍に立つ。彼からは、甘ったるいチョコレートの香りが漂ってきた。
「私、ココアなんて買ってた?」
そう言って木蓮を見上げると、彼はふっと笑って
「俺が買ったんだよ」
「どうして?」
「さあ、どうしてだろうね」
こういう会話が私たちの間で交わされる時、往々にしてその理由が明かされることはない。幸いココアは苦手ではないので、休憩がてらいただくことにした。
テーブルの上を片付けている間、木蓮はそこで私の挙動をじっと見ている。
刺繍はとてもたくさんの針を使うので、少し休む時にも片付けには気を使う。コタツの、そう広くはないテーブルで休憩するとなれば、作品に汚れがつくのは避けたいので、キッチリ片付けて何もない状態にしたい。針箱の上に刺繍途中の布を置いて私は立ち上がった。そして床の間の隣の平書院部分の棚にそれらを収めた。
「そういえば木蓮。いつエアコン入れたの? コタツに入れば暖かいのに、勿体ないと思うのだけど」
「さっき。縁に立ってる春告に声をかける前だよ。今日の気温は低いから。春告、コタツにあたってても手が冷たくなってたでしょ。針を持ちにくいんじゃない?」
確かに、と自分の手を握ってみる。手のひらに指の冷たさがしみた。
マグカップの縁に触れると、直接的な熱さで手が痛いくらいだった。暫くその縁を握ったり離したりしているのを、木蓮が面白そうに見ている。
「なあに?」
「いや、春告の手が温まったなら良かった」
「カイロ代わりにするのは今だけだから。ちゃんと飲むわ」
そう言ってマグカップを口に運んで一口飲むと、木蓮はなぜだか満足そうな笑みを浮かべた。
そういえば、ココアも蘭が好んだ飲み物だったと思い出す。
彼の場合、甘いココアに更に角砂糖を投入して混ぜる、常人なら一口で飲みたくなくなるような代物であったけど。
そんな彼を思い出しながら更に一口。
私の斜向かいに座った木蓮が、コタツの中で私の足を彼のつま先で、ツンツンとつついてきた。
そちらに視線を向けると、彼は視線を一旦机の上に落としてからこちらに再度視線を投げかけてきた。
「ねえ、春告。今日何の日か、知ってる?」
そう言われて、私は少し考える。
今日は二月の二十五日。
二月の主な行事といえば、節分、建国記念の日、バレンタインデー。
二十四節気は有名なのは立春だけど二月の頭、雨水もこの間通り過ぎた。
そして、私の夫の命日は月末の二十八日。少しズレている。
その他には何も思い当たることがなく、お手上げだった。
「蘭の命日には早いわ。何の日なの?」
「……そっか、あいつ、結局教えなかったんだ」
私が首を傾げても、木蓮は首を横に振るだけで全然教えてくれなかった。
その代わり、目を細めてこちらを見た。
「春告、最近何考えてるの?」
「何って?」
「これからの事とか。俺に好きにしていいって言ったり、外を眺める時間が増えてたり、何だか変じゃない?」
そうかしら、と私は首を傾げた。
木蓮がここではないところで暮らしたいと思っていたらどうしよう、という不安はある。だって、私は彼の所有者を名乗るには、知識もないし、彼のことをほとんど何も知らされてない。フーッと吹けば吹き飛ぶような、軽い存在なのではないか、と。
そして、外を眺める時間に関しては、特に気にしていなかったけれど、強いていうなら冬になって出不精に拍車がかかり、気分転換に庭を眺めることが多くなった、それだけのことではないだろうか。
でも、弁解するための最初の発音は、木蓮の射るような視線を受けて音になる前に霧散してしまった。
それを見て、息をしないはずの木蓮がため息をつくような仕草をした。私の無言を、彼の言に対する肯定と捉えたのだろうか。
私の中にはやましいことは何もない、と思う。ただ不安が渦巻いているだけで。
「春告は、自分で選んであいつに買われたんでしょ。あいつが死んだからって、ここから離れるの?」
「私、そんなこと考えてないわ」
思いもよらぬことを言われて首を横に振ったけど、嘘だ、と木蓮はこちらを睨む。
「じゃあ、なんで雪をあんなに熱心に見ていたの」
「熱心になんて見てない。ただ眺めてただけよ。積もることなんて珍しいから」
「ただ眺めてただけ? 本当に? 足を冷やしてまで、あんなにガラスの近くで眺める? 冷たくなってたじゃない、足」
「そうだけど、……木蓮には関係ないでしょう。もう、私のことは放っておいて」
売り言葉に買い言葉。
気持ちが不安定になっていたところに、珍しく木蓮にキツく言われてつい、そう口走ってしまった。ハッと口を噤んだけれど、遅かった。
こちらを睨んでいた木蓮の表情の要素がごそっと抜け落ちて、綺麗な人形のように変わった。もともと美しい作りだった彼がそんな風になってしまい、背筋にぞくっとしたものが走った。
木蓮ごめんなさい、言い過ぎたわ、と謝ろうとしたけれど、彼は突然こちらに手を伸ばして、マグカップを握っていた私の手首を痛いほど掴み上げた。
持ち上げていたそれはテーブルに当たり、ゴツッという硬い音をたてて転がった。少し残っていたココアがトロリと流れ出す。
拭かなきゃと焦って立ち上がった私を、同じタイミングで立ち上がった木蓮が乱暴に引っ張る。
「可哀想な春告。自分がどうしてここにいるか、忘れちゃったんだね」
優しげな喋り方とは裏腹に、彼は紫色の双眸で淡々とこちらを見ている。
始末を、という言葉は、木蓮の纏う冷たさで喉の奥に押し込んでしまった。
能面のような表情を張り付けたまま、木蓮は私を畳の上に乱暴に引き倒した。
床に頭を打ち付けて私は短く呻いたけれど、木蓮は構わず上からのし掛かり、私の首を空いていた方の手で柔らかく掴んだ。
「手に入れたと思ってたのにな。逃げられるんだったらいっそのこと、」
殺してしまおうか、ねぇ、春告?
恐ろしいことを言われているのに、木蓮の言葉はある意味で私にとって救いだった。
感情が突き抜けて、それでもいいかな、と思うと、スッと体から力が抜けた。
私の視界では、横倒しになったカップから流れた液体が、机の端までたどり着き、コタツの上掛けにポタポタと茶色い染みを作っていた。
永遠に続くはずもないのに、それは時計の秒針が刻む長さに似た、目眩がするほど規則的で当たり前の落下だった。
そう言って木蓮は廊下に続く襖を開けて、その向こうに行ってしまった。
私は仕方なく、作業の続きをしようと、針山から黄色の刺繍糸が通った針を抜いた。
ツバメが飛びかうその下は、一面の菜の花畑。
花の一つ一つはフレンチナッツステッチ。巻き数を多めにして緩く刺す。ツバメとの対比で、背景はぼんやりとさせたかったので茎の表現はせずに、花は黄色の濃淡だけで表した。
一口に黄色と言っても十色以上ある。その中から微妙な色合いを見比べて、今回は三色を選んだ。
背景が出来上がるにつれて、そこを飛んでいるツバメはどんどん自由であるように見えてくる。 春の風景の中に溶け込むツバメ。それはただの刺繍なのに、自由を謳歌する姿はとても不幸な事のように見える、自由以外の選択肢が見当たらなくて。
もし、 木蓮が私を置いてどこかに行ってしまったら。
私は、突然降ってきた自由に戸惑い、部屋の隅にうずくまるだろう。
とてもじゃないけど、ツバメのように飛び回ることなんてできない。
その事実に気がついてしまって、私は手の中の小さな世界を、哀しい気持ちで見つめた。
暫くして木蓮は、お盆に湯気の立つマグカップを乗せて戻ってきた。
「休憩しよう、春告」
そう言って私の傍に立つ。彼からは、甘ったるいチョコレートの香りが漂ってきた。
「私、ココアなんて買ってた?」
そう言って木蓮を見上げると、彼はふっと笑って
「俺が買ったんだよ」
「どうして?」
「さあ、どうしてだろうね」
こういう会話が私たちの間で交わされる時、往々にしてその理由が明かされることはない。幸いココアは苦手ではないので、休憩がてらいただくことにした。
テーブルの上を片付けている間、木蓮はそこで私の挙動をじっと見ている。
刺繍はとてもたくさんの針を使うので、少し休む時にも片付けには気を使う。コタツの、そう広くはないテーブルで休憩するとなれば、作品に汚れがつくのは避けたいので、キッチリ片付けて何もない状態にしたい。針箱の上に刺繍途中の布を置いて私は立ち上がった。そして床の間の隣の平書院部分の棚にそれらを収めた。
「そういえば木蓮。いつエアコン入れたの? コタツに入れば暖かいのに、勿体ないと思うのだけど」
「さっき。縁に立ってる春告に声をかける前だよ。今日の気温は低いから。春告、コタツにあたってても手が冷たくなってたでしょ。針を持ちにくいんじゃない?」
確かに、と自分の手を握ってみる。手のひらに指の冷たさがしみた。
マグカップの縁に触れると、直接的な熱さで手が痛いくらいだった。暫くその縁を握ったり離したりしているのを、木蓮が面白そうに見ている。
「なあに?」
「いや、春告の手が温まったなら良かった」
「カイロ代わりにするのは今だけだから。ちゃんと飲むわ」
そう言ってマグカップを口に運んで一口飲むと、木蓮はなぜだか満足そうな笑みを浮かべた。
そういえば、ココアも蘭が好んだ飲み物だったと思い出す。
彼の場合、甘いココアに更に角砂糖を投入して混ぜる、常人なら一口で飲みたくなくなるような代物であったけど。
そんな彼を思い出しながら更に一口。
私の斜向かいに座った木蓮が、コタツの中で私の足を彼のつま先で、ツンツンとつついてきた。
そちらに視線を向けると、彼は視線を一旦机の上に落としてからこちらに再度視線を投げかけてきた。
「ねえ、春告。今日何の日か、知ってる?」
そう言われて、私は少し考える。
今日は二月の二十五日。
二月の主な行事といえば、節分、建国記念の日、バレンタインデー。
二十四節気は有名なのは立春だけど二月の頭、雨水もこの間通り過ぎた。
そして、私の夫の命日は月末の二十八日。少しズレている。
その他には何も思い当たることがなく、お手上げだった。
「蘭の命日には早いわ。何の日なの?」
「……そっか、あいつ、結局教えなかったんだ」
私が首を傾げても、木蓮は首を横に振るだけで全然教えてくれなかった。
その代わり、目を細めてこちらを見た。
「春告、最近何考えてるの?」
「何って?」
「これからの事とか。俺に好きにしていいって言ったり、外を眺める時間が増えてたり、何だか変じゃない?」
そうかしら、と私は首を傾げた。
木蓮がここではないところで暮らしたいと思っていたらどうしよう、という不安はある。だって、私は彼の所有者を名乗るには、知識もないし、彼のことをほとんど何も知らされてない。フーッと吹けば吹き飛ぶような、軽い存在なのではないか、と。
そして、外を眺める時間に関しては、特に気にしていなかったけれど、強いていうなら冬になって出不精に拍車がかかり、気分転換に庭を眺めることが多くなった、それだけのことではないだろうか。
でも、弁解するための最初の発音は、木蓮の射るような視線を受けて音になる前に霧散してしまった。
それを見て、息をしないはずの木蓮がため息をつくような仕草をした。私の無言を、彼の言に対する肯定と捉えたのだろうか。
私の中にはやましいことは何もない、と思う。ただ不安が渦巻いているだけで。
「春告は、自分で選んであいつに買われたんでしょ。あいつが死んだからって、ここから離れるの?」
「私、そんなこと考えてないわ」
思いもよらぬことを言われて首を横に振ったけど、嘘だ、と木蓮はこちらを睨む。
「じゃあ、なんで雪をあんなに熱心に見ていたの」
「熱心になんて見てない。ただ眺めてただけよ。積もることなんて珍しいから」
「ただ眺めてただけ? 本当に? 足を冷やしてまで、あんなにガラスの近くで眺める? 冷たくなってたじゃない、足」
「そうだけど、……木蓮には関係ないでしょう。もう、私のことは放っておいて」
売り言葉に買い言葉。
気持ちが不安定になっていたところに、珍しく木蓮にキツく言われてつい、そう口走ってしまった。ハッと口を噤んだけれど、遅かった。
こちらを睨んでいた木蓮の表情の要素がごそっと抜け落ちて、綺麗な人形のように変わった。もともと美しい作りだった彼がそんな風になってしまい、背筋にぞくっとしたものが走った。
木蓮ごめんなさい、言い過ぎたわ、と謝ろうとしたけれど、彼は突然こちらに手を伸ばして、マグカップを握っていた私の手首を痛いほど掴み上げた。
持ち上げていたそれはテーブルに当たり、ゴツッという硬い音をたてて転がった。少し残っていたココアがトロリと流れ出す。
拭かなきゃと焦って立ち上がった私を、同じタイミングで立ち上がった木蓮が乱暴に引っ張る。
「可哀想な春告。自分がどうしてここにいるか、忘れちゃったんだね」
優しげな喋り方とは裏腹に、彼は紫色の双眸で淡々とこちらを見ている。
始末を、という言葉は、木蓮の纏う冷たさで喉の奥に押し込んでしまった。
能面のような表情を張り付けたまま、木蓮は私を畳の上に乱暴に引き倒した。
床に頭を打ち付けて私は短く呻いたけれど、木蓮は構わず上からのし掛かり、私の首を空いていた方の手で柔らかく掴んだ。
「手に入れたと思ってたのにな。逃げられるんだったらいっそのこと、」
殺してしまおうか、ねぇ、春告?
恐ろしいことを言われているのに、木蓮の言葉はある意味で私にとって救いだった。
感情が突き抜けて、それでもいいかな、と思うと、スッと体から力が抜けた。
私の視界では、横倒しになったカップから流れた液体が、机の端までたどり着き、コタツの上掛けにポタポタと茶色い染みを作っていた。
永遠に続くはずもないのに、それは時計の秒針が刻む長さに似た、目眩がするほど規則的で当たり前の落下だった。
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