《R18》春告と紫に染まる庭《セクサロイド・SM習作》

サクラハルカ

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第5話

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「蘭、刺繍の話はどうするの」

 しばらく動かなかった彼の隣で、初めて木蓮が声を発した。
 柔らかな、木蓮の芽のような声だった。

 それにハッとして、蘭と似合わぬ名前で呼ばれた彼は、そうだな、と咳払いを一つ。急いでパフェを食べるのを再開した。

 紫の双眸が呆れたように彼に向けられていたが、彼の手の中のルービックキューブは、まだ回り続けている。

 私は、話よりパフェの方が大事なのかしら、と思ったが、素早く器を空にしてしまった彼は、水をがぶがぶと飲むとフーッと息をついた。
 私は苦笑し、メニューのそばに置かれていたペーパーナプキンを一枚引いて、

「ここについてますよ」

 自分の口の端を、空いた方の手の指でトントンと指しながら、彼にナプキンを渡した。
 どうも、と言った彼は、付いていたことを気にする風もなくクリームを拭き取った。
 私のウインナーコーヒーはまだ半分以上残って、湯気を立てている。

「それで、木蓮の刺繍の件だが考えてもらえただろうか」

「はい、やはりあれは売り物ではないので、値段はつけられません」

「では、代替案として出した、君を買うというのは」

「それもできればお断りしたいのですが」

 まだ、私を買う話も続いていたらしい。

「うーむ。ではどうすればいい?」

「諦めていただくのが一番いいと思います。写真くらいなら撮っていただいて構いませんよ。それではいけませんか?」

「駄目だな」

 即答されたが、そもそもあれの製作者は私だし、持ち主も私だ。
 この押し問答は無意味な気がする。

「何かいい方法を考えてくれたまえ」

 それは普通、あなたが考えるべきだろうと呆れたけれど、何を言っても無駄であるような気がして、私は頭をひねった。

「あの木蓮は素晴らしい。だから君が手放したくないというのはよく分かる」

 うんうん、と彼は頷きながらミルクティーをすすった。
 そして、足りないな、とボソッと呟き、手をあげてウエイターを呼び、今度はフレンチトーストを注文した。

「頭を使うと、糖分がかなり必要になる。今日は学会でほぼ一日拘束されていたからね。興味がない発表の時は大体、私は別のことを考えているのだが、今日は、どうすれば君の持っている木蓮を手に入れることができるか、色々と考えた。いい考えというものは、そう浮かばないものだな」

 彼はふーっと長く息を吐き出して、背もたれに体を沈めた。
 先ほどまで口に放り込んでいたものを、ゆっくりと体に染み込ませるかのように。

「学会? そこの大学でですか」

「そうだ。それ以外でも研究の為にこの場所にはよく来るのだが、ああいうマーケットがあるのは知らなかった。寺の中でやっているから物珍しくてね、気分転換に覗くだけ覗いてみようと行ったところに、あの刺繍があったというわけだ」

「先生、なんですか?」

「はっ、先生。そんな頭でっかちで、手を動かすことも知らんような連中と一緒にしないでくれたまえ。私は技師だよ、アンドロイドを作る専門の技術者だ」

 彼は誇らしげにそう宣言し、胸を張った。
 彼が発音した「先生」という言葉は本来の意味を失って、音だけがひらりと床に落ちた。
 その隣では木蓮が、もう三十回以上は崩して合わせただろうルービックキューブを、飽きることなく回し続けていた。
 クルクル回るルービックキューブと同じように、彼との話し合いも堂々巡りだった。けれど、偏屈で突拍子もないことを言う割りに、彼の思考は繊細で、日本刺繍のように美しかった。

 フレンチトーストは、案外素早く彼の前に準備された。
 その間、彼と私はどうやったらこの刺繍の件について折り合いがつけられるか、一生懸命考えたが結論は出なかった。

「しかし、困ったな。明日一番で仕事があるから、私は最終より一本前の新幹線で東京に戻らねばならんのだが」

 そう言いながら彼は腕時計に目を落とした。

 その言葉に私は、少し考えれば分かることだったのに、今初めて彼がどこか違うところへ行ってしまうのだということを突きつけられた気がした。
 東京、という言葉が、私と彼との日常生活が交差しないだろうことを示している。
 そしてこの場所によく来ると言っても、月に一度の手作り市に毎回彼が運良く来られるわけでもなく、どちらかというと興味はなさそうに見える。

 気づいた事実がぼんやりと、心の中に霧がかかるように広がっていく。これが濃くなってもっと霞んでしまえば、目の前にいるはずの彼はもう見えなくなってしまうに違いない。
 それはなんだか哀しいことのように思えた。

 少し沈んでしまった心を見つめる私の前で、彼はその大きな口でがぶりと、黄色いフレンチトーストに齧り付く。
 彼の口の大きさを測る為に準備されたかのような、厚くて大きなフレンチトーストに、くっきりと歯で噛みきった跡がついて、私は何故かぞくりとした。そして、私の口の中で、唾液が一気にあふれた。それを二人に気づかれないように、私はカップに残った最後の一口を、唾液と共にそっと飲み干した。そうなった理由は追求しない方がいい、と誰かが私に耳打ちした。

「結局、貴女はあの刺繍を売る気もないし、自分が買われる気もないわけでしょ」

 私がカップをソーサーに戻したのを見計らったかのように、木蓮が言った。
 揃え終わったルービックキューブをテーブルの上に置いて、脚を組む。
 刺繍を売ろうとしない私を責めるような声色ではなく、さっきと同じ柔らかな声だった。

「蘭が困らせてるんだね、ごめんね。子どもみたいでしょ、この人」

 アンドロイドに謝ってもらうのも、持ち主を擁護しない所を見るのも初めてだった。
 木蓮の言葉に、蘭は仏頂面になってモソモソと口を動かした。何か反論したくても、口の中に詰め込みすぎたフレンチトーストのせいで、喋れないらしい。

 困らせている、と木蓮が言ったことに、私は違和感を感じた。
 確かに最初は面倒な人だと思っていた。でも今は、この人を見ているのが、しっくりくるのだ。

 このままお別れしてしまったら、この人とは二度と会わないのだろうか。
 ふとそんなことを考えると、寂しさが押し寄せてくる。
 思えば、プライベートでこうやって一時間以上、誰かと話をするのは久しぶりだった。
 祖母が亡くなってから、それ以外のことで寂しさを感じたことはなかった筈なのに、一旦寂しさを見てしまえば、もう見なかったことにするのは不可能だった。

「蘭、これ以上この人を困らせるのは良くない。大体、人を買うって何。犯罪だよ、分かってるの?」

「そうなのか」

「はあ。俺、蘭のそういうところ理解できないんだけど。何で俺を作れたのかな? 俺、一応常識的なアンドロイドを自負してるんだけど、製作者が非常識ってなんか落ち込むー」

 語尾を怠惰に伸ばして、木蓮は姿勢を崩した。
 さっきまで、ルービックキューブで時間潰しをしていた時とはガラリと雰囲気を変えて、頬杖をついた。

「木蓮、行儀が悪いぞ」

「人身売買を計画するあんたよりは、かなりマシだと思うけど」

 ね、と真顔でこちらに同意を求められても困るのだけれども。

 外はすっかり暗くなってしまい、店の中には、夕食の香りが漂い始めた。
 そんな中で突如始まった漫才のようなやりとり。
 私はボサボサ頭を眺めながら、一口グラスの水を飲んだ。
 寂しさの味は、案外水に似ているのかもしれない。

 彼が私の刺繍を諦めきれないのと、同じかどうかはわからないけれど。
 私も、彼の歪で不透明な、例えるなら正倉院の白瑠璃碗のような不思議な雰囲気に、飲み込まれそうになっていた。
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