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第4話
しおりを挟むバダイがチェスを始めたきっかけは何だったか、単なる偶然だったような気がする。
当時、軍の司令部にいた彼は、飽いていた。端的に言えば生きることに。幾つもの華々しい戦績をあげようが、何も変わらない。人間の本質が争うことならば、自分がやっていることは何だというのか。
そんな折に、大統領主催の新年を祝う会で、チェスの余興が催された。
世界ランキング二位と五位の、自分とそう歳が変わらない青年達が、曇りなく磨かれたテーブルを挟んで座った。
そこはスポットライトの当たる、華やかな世界。吐くような臭いは感じない、場所。
バダイが戦況を読んでいるのと同じくらいの時間を、彼らはチェスに費やしてきている。五位の青年はトーナメントで一度負けたものの、敗者復活戦で勝ち、そのままの勢いで決勝まで進んだ。
司会からそういう説明がされ、バダイはふん、と鼻をならした。戦争は負けたら終わりだ。勝つしかない。負けた者の惨めな末路は、踏みにじり続けた過程で嫌というほど見た。
それなのに、彼らはどれだけ勝ち負けを繰り返しても、惨めにならない場所にいる。そう想像し、バダイは密かに苛立った。
対局が始まった。
カツンカツン、と駒が動く度に、美しい足音のような響きがあった。全くルールを知らないバダイも、二人のプレイヤーの間に流れる、張り詰めた雰囲気は分かった。
白と黒の駒が整然と並んだ形から進軍してくる。ルールに則って、交互に手を進める、それだけのゲーム。戦争に比べたら、複雑でもなんでもないはずなのに、バダイは知らず知らず、二人の戦いに次第にのめり込んでいった。
冷静な二つの知性が向かい合って座っている。呼吸も変わらない。それなのに、未知の熱さが折り重なっているように感じる。
集中が場に溶けて、辺り一帯を支配していった。その雰囲気に呑まれる。
気付けば時間も忘れて戦いを見ていた。
戦いが終わり、感想戦が始まっても、バダイは観戦していた時の緊張感を解くことができなかった。
それからバダイはすぐにチェスのルールを覚えた。強くなるには、これまでさされてきた手筋を研究するのが良いと知り、手当たり次第に棋譜を読み込み、暗記した。
バダイがアマチュアの大会に出て上位に食い込むまでに、あまり時間はかからなかった。
戦争とは違う、熱さの正体を追った。
死なないはずのゲームに、いつしか生を見出すようになっていた。
「三年前、もう、私はチェスではお前に勝てなくなっていた。潮時だと思ったんだよ」
「たかがゲームじゃないですか」
「されど、ゲームだ。感覚が鈍れば戦況に影響が出る。老兵は死なず只消え去るのみ」
バダイの駒が跳躍し、小気味良い音を伴って、着盤した。
形勢は未だどちらに傾くか分からない、危うい拮抗を保っていた。ウィザードが、親指の爪をガリリと噛んだ。この弟子は、幼い頃からの癖が抜けていない。集中すると、必ずこの癖が出る。
可愛い弟子たち、その思いは今も変わらないことに気付く。
バダイの心に懐かしさが一瞬、去来した。
そこから更に、数手進んだときだった。盤を見つめていたウィザードの身体が、ぐらりと傾いた。そして、そのままチェス盤に覆い被さるようにして倒れ込んだ。盤の上の駒たちは、派手な音をたてて床に落下した。
ウィザードがピクリとも動かなくても、バダイは一向に気にした様子も見せなかった。彼は暫し次の手を考えた後、ゆっくりと立ち上がった。
卓にうつ伏せになったウィザードの状態を確認して、軽くうなずくと、ベッドから薄い毛布を持ってきた。彼の体勢を楽にしてやり、毛布をかける。
「お前のせいで、また寝ぐら探しだ。全く、困った奴だな」
思わず苦笑した。バダイの、目尻のシワが深くなった。
バダイは、手袋を二重にはめた。
それから、部屋の隅に置いておいた小ぶりのボストンバッグを一つ、肩に引っ掛けて、窓からベランダへ出た。コンクリートが雨で濃く染まっている。
酷い嵐だった。
しかしそれは、バダイにとって好都合だった。ここからのルートであれば、姿を捉えられることなく逃亡できることは確認済みだ。
浅い吐息を、ふっと一つ。
この風雨がうまく隠してくれることを信じて、バダイは思い切り柵を蹴った。彼の姿が窓の額縁から消えた後、彼の名を意味する風が一陣、低く鳴いた。
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