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第2話

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 朝の一杯目。濃いコーヒーを口に運びながら、バダイはラジオから流れる戦況に耳を傾けていた。ウィザード、という人物の活躍を伝えるニュースに、アナウンサーの声が少し熱を持った気がした。

 現在、バダイが居住地としているα国と、表面上は友好を結んでいるβ帝国。ウィザードはβ帝国のブレーンだった。

 軍の中にあって、その名は国内外問わず、広く知れ渡っている。何より帝国民に絶大な人気を誇る彼。中性的で端正な容姿。魔法使い、を冠する彼には似合いの、黒髪に黒い目。太陽に晒されたことのないような、真っ白な肌。そこに浮かぶ赤い唇が、やけに艶かしい男だった。

 バダイも、近くの広場にある大型スクリーンで、何度か彼の姿を目にしたことがある。彼がスクリーンに写っているとき、何人もの通行人が目を奪われそうになっていた。ウィザードの活躍は、ここ一年にも満たない。その短い間に彼は、別の隣国を含む三つの国との戦いを有利に進めていた。

 ラジオのニュースを聞きつつ、バダイは目を細めた。

 ポツリポツリ、と雨が庇に当たりはじめていた。


 バダイが暮らすアパートメントはシンプルだ。ダイニングキッチンに小さな部屋がついている。
 その二室と洗面所、トイレ、シャワールームが一緒になった部分。彼の生活空間には、最低限の家財道具と消耗品類があるだけで、生活の痕跡は薄い。

 ただ、ダイニングの小さな棚の上には花瓶を置いていた。小さな白い花と、穂のような赤い花。カミツレと吾木香ワレモコウだった。部屋に漂う香りは、カミツレのもの。先日、花屋の店先で見かけて、戯れに買ったのだ。

 ローテーブルの上には、先ほど淹れたコーヒーと、木製のチェス盤があった。使い込まれた駒たちは、艶やかに手入れされている。それらはスタート位置から既に、何手も動いている。

 チェスのように昨今、戦争で人はほとんど死なない。数十年前の戦争で世界全体の人口が激減したため、人を殺す戦争は流行りではなくなった。代わりに陣取りゲームのような、気がついたら今日はこの領土はどこそこの国のもの、という風に知らないうちに国や政府が変わっていたりする。

 技術は間違いなく進歩している。けれど、ラジオはまだ廃れず、ヒトは相変わらず、下らない小競り合いを繰り返していた。

 争うことに厭気がささないのは、ヒトのさがだろうか。

 どこで争っているのか分からないような戦争が、あちこちで勃発しているのに、バダイの日常は表面上、穏やかだった。

 定期便でコーヒー豆は届くし、料理が面倒な日は、街でトルティーヤを食べることもできる。少し遅めのランチには、それをテイクアウトする。

 馴染みの店の前を通る赤煉瓦の道を行くと、突き当たりにはヤースヌイ広場があった。広場には大きなチェス盤模様の一角と、誰でも動かすことができる幼児サイズの駒。バダイがそこに行くと大概、学校帰りだろうか。チェスに興じる少年少女達が群れている。

 真剣な表情で戦う彼らを、ベンチから眺めているのが、バダイは好きだった。



 しかし今日みたいな雨の日は、出かける気にならない。しかも、この後も荒れ模様だという。

 ラジオはニュース番組を終えると、淡々とジプシーキングスを流し始めた。ヴォーカルが持つ独特の掠れ声に、爪が掻き鳴らす六弦。音の隙間に思考がはまっていく気がする。それだからか、バダイは考え事をするときは、昔からジプシーキングスを聞いた。

 彼は、ローテーブルの上に置いたチェス盤を見た。
 
 大会で使用されているのは、盤上に3Dの駒の映像が映し出され、盤に直接触れることで駒を進められるものだった。

 しかし、バダイは昔からの、質感を感じられるボードと駒を使っていた。どちらにせよ思考の手順に変化はないのだが、駒を持つ指先が稀に火花を放つ。比喩だが、実際そういう感覚が生まれる。その瞬間がバダイにとって、なんとも心地よかった。

 盤は、昨夜の局面で中断したまま。駒達が息を潜めて、次に動く時を待っている。

 それをしばらく眺めていると、ラジオの中の歌い手である、男の低く掠れた声が、遠のいていく。自分の思考が、鋭利になっていくのがわかる。

 温度のない、研ぎ澄まされた感覚を抱いたまま、バダイはソファに深く腰を下ろして、腕を組んだ。頭の中では、何百何千もの手筋が、戦いの向こうに向かって伸びていた。

 それは美しかったり醜かったり、さながら人間の生き様のようであった。



 ラジオの予報通り、昼過ぎから嵐の様相を呈してきた。風雨が窓ガラスを酷く叩く。

 一旦、思考を置いたバダイは、丁寧に手を洗い、自分の右手親指をちろり、と舐めた。きちんと、石鹸の味がした。

 軽めの昼食を済ませて、バダイは棚からアルミの箱を取ってきた。中にはグリスの瓶と、厚手の小さな布が入っている。それらは、チェスの駒を磨く道具だった。

 布に少量のグリスをのせて馴染ませ、手近にいたクイーンを取りあげた。手入れをしながら、自分の思考を集約させた盤上の配置を解していく。盤がなくとも、自分の頭の中には、手筋が残っている。

 ラジオ番組は正午のニュースに変わっていた。

 駒を磨きながらバダイは、今朝見た夢のことを思い出していた。

 生々しい感触だった。まだ歯茎に、リンゴを噛んだときの圧が残っている。カミツレの香りだけであんな夢を見るものだろうか。それとも、自らに対する無意識の警告。

 そこまで考えて、彼は一人でクツクツと、密かな笑い声をたてた。

 そんな訳はない。痕跡を残さないように、非常に注意深く過ごしてきたはずだ。その証拠にもう、周りをうろちょろしていた目障りな者たちは、追ってこられてないではないか。

 ただ一つ、どうしても警戒をやめられない理由がいた。

 加速しそうになった脈を、意識的に抑える。興奮は、度が過ぎれば視野を狭める。バダイは駒を盤に戻し、規則正しい呼吸を何度も繰り返した。

 正しさで、時間を刻む。

 平静を取り戻せたことを確かめて、彼は再び駒を磨き始めた。

 それからは、窓を叩く風雨は気にならず、リンゴを噛んだことも、意識の中の遠いところに追いやれた。

 一通りの手入れが終わり、バダイは箱を棚に戻した。薬品が付着した手を洗いながら、この後、チェスの続きをするか、それとも居眠りでもするか、と考えていたときだった。

 来訪者を告げるベルの音が鳴った。蛇口から手を遠ざけ、水滴を拭き取り、指先を嗅いだ。そこには、石鹸の匂いのみがあった。

 次の定期便にはまだ早かった。訝しみながら、バダイはインターホンの映像に目をやる。

 モニタに映る人物が羽織った、薄手のパーカーは雨で濡れていた。その人物はカメラのある場所を知っていたのか、モニタ越しにこちらと目を合わせてきた。

 フードからのぞく美貌。バダイは一瞬、息を詰めた。それは、三年前に袂を分かった弟子だった。
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