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第7話
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彼と僕の新たな関係は、密かに育ってゆく。
相変わらず僕たちは、傍目には友達である、という風に振舞っていた。会って話す内容に、変化は殆どない。人目につくところでは、実にまともな友人関係を演じていた。
日々の関わりの中で一番変わったのは、僕の部屋に彼が来るようになった事だろう。一方僕は、彼が働くパン屋に行ったことがないまま。まだ、その覚悟はできていなかったのだ。
物語の中の恋人たちのように、僕たちは手を繋いだり、愛を囁き合ったりする事はなかった。僕の部屋に彼がきてもそんな事は全然起こらなかった。
彼はただ、僕と背中合わせに座って、長い時間を静かに過ごした。背中の熱が伝わりにくくて、そのうち上半身だけ裸になって。お互いの背を擦り付けあった。動物が匂いを擦り付けるより下等な行動。
勝手に息だけが上がる。温い汗もかく。
吐息が作る軋みと、汗の匂いが部屋に充満すると、彼が僕の名前を呼んでくれる。その声をきっかけにして、彼の手が僕に触れないように、細心の注意を払いながらキスをするのだ。
彼が僕の肌に触れない理由が、イースト菌のせいだと知った時には、僕とイースト菌が天秤にかけられているのか、とムッとしたけれど。
「匂いがまとわりついてる気がして」
石鹸で何度洗っても、鼻の奥にイースト菌の独特の匂いが残っているらしい。それで僕に触れると、僕までその匂いが付着する、と言うのだ。
試しに、僕が彼の手を嗅いでみても、パンの匂いなんて全然感じなかった。大丈夫だよ、といっても彼は自分の手を嗅いで顔をしかめるだけだった。
イースト菌に嫉妬しなくていい、とわかった筈なのに、僕は普通の恋人がするようなことができなくて、彼をどうやって信用したらいいのだろう、と渦巻く夕焼け色の中に一人取り残されていた。夕焼けの向こうは夜だ。
星ひとつない明るい夜の象徴が、白くまん丸の穴を空にあけて、僕が嵌るのを待っている気がした。
夕闇色の不安を抱えて迎えた、大学三年の春休み。
電車で、三つ向こうの市の中心部へ出かけた時のことだった。
薄い空に、満開を通り越した桜の枝が、恋い焦がれるように手を伸ばしている。風が吹くたびに、白い花びらが散らされていた。
暖かな気候は、次には嵐を呼ぶ。
市内を流れる川にかかった橋を、目的地に向かって渡っていた僕の視界に、慣れ親しんだ人が映り込んだ。
あ、と思ったのは僕だけではないようだ。
彼もまさか、行動範囲から離れた場所で、僕と遭遇するとは思っていなかったらしく、きゅっと両眉をあげた。なかなか見ることのできない表情だった。
彼に気を取られていて、気づくのが一瞬遅れた。彼の手を握る存在がいることに。
彼の隣にいる女性が、僕の方を誰、と不思議そうに見ている。
彼の手と彼女の手の間に遮るものはなかった。
僕の皮膚には触れることがない手。
ドクン、と心臓が煩いくらいに音を立てた。
視界の色がこそげ落ちて、バラバラと散る。
その後に残ったのは灰色の世界だった。
時間が止まったかのように、僕が見る世界は停止していた。
握り込んだ右手に、なにかを掴んでいる感触が産まれた。
拳を胸の前にあげて指を開くと、手の中に小さな鍵があった。
鍵はいくつもの美しい宝石で飾られていて、どう見ても実用的なものではなかった。
(魔法を使う、その時になったら分かるわ)
祖母に言われた言葉が不意に思い出される。
それが今なのか。
僕は、止まってしまった彼に、僕の中にあるどす黒い想いをぶつけたくなってしまった。鍵の美しさに似合わぬ想い。
「僕、僕以外の……僕しか……」
想いが強すぎて、言葉にならない。ブツブツと唇を震わせるのは、意味の伝わらないモノばかり。
それでも、鍵は僕の心を読み取ったのか、キラキラと光り出した。
そして、景色が色を取り戻し、目の前の彼が動いた。
僕はゴクリ、と喉を鳴らして
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
なるべく和かになるよう努めて、話しかけた。
彼は首を傾げて
「どちら様ですか」
と返してきた。それは嘘をついているようには見えなかった。
「え、僕……」
「人違いだと思いますよ」
そう言って、彼と彼女は手を繋いだまま、僕の横を通り過ぎていった。
振り向くと彼女が彼に
「知り合いじゃないの」
「見たことない」
瞬時に僕は理解した。
いや、せざるを得なかった。
想いを現実にする魔法を、しくじったのだと。
相変わらず僕たちは、傍目には友達である、という風に振舞っていた。会って話す内容に、変化は殆どない。人目につくところでは、実にまともな友人関係を演じていた。
日々の関わりの中で一番変わったのは、僕の部屋に彼が来るようになった事だろう。一方僕は、彼が働くパン屋に行ったことがないまま。まだ、その覚悟はできていなかったのだ。
物語の中の恋人たちのように、僕たちは手を繋いだり、愛を囁き合ったりする事はなかった。僕の部屋に彼がきてもそんな事は全然起こらなかった。
彼はただ、僕と背中合わせに座って、長い時間を静かに過ごした。背中の熱が伝わりにくくて、そのうち上半身だけ裸になって。お互いの背を擦り付けあった。動物が匂いを擦り付けるより下等な行動。
勝手に息だけが上がる。温い汗もかく。
吐息が作る軋みと、汗の匂いが部屋に充満すると、彼が僕の名前を呼んでくれる。その声をきっかけにして、彼の手が僕に触れないように、細心の注意を払いながらキスをするのだ。
彼が僕の肌に触れない理由が、イースト菌のせいだと知った時には、僕とイースト菌が天秤にかけられているのか、とムッとしたけれど。
「匂いがまとわりついてる気がして」
石鹸で何度洗っても、鼻の奥にイースト菌の独特の匂いが残っているらしい。それで僕に触れると、僕までその匂いが付着する、と言うのだ。
試しに、僕が彼の手を嗅いでみても、パンの匂いなんて全然感じなかった。大丈夫だよ、といっても彼は自分の手を嗅いで顔をしかめるだけだった。
イースト菌に嫉妬しなくていい、とわかった筈なのに、僕は普通の恋人がするようなことができなくて、彼をどうやって信用したらいいのだろう、と渦巻く夕焼け色の中に一人取り残されていた。夕焼けの向こうは夜だ。
星ひとつない明るい夜の象徴が、白くまん丸の穴を空にあけて、僕が嵌るのを待っている気がした。
夕闇色の不安を抱えて迎えた、大学三年の春休み。
電車で、三つ向こうの市の中心部へ出かけた時のことだった。
薄い空に、満開を通り越した桜の枝が、恋い焦がれるように手を伸ばしている。風が吹くたびに、白い花びらが散らされていた。
暖かな気候は、次には嵐を呼ぶ。
市内を流れる川にかかった橋を、目的地に向かって渡っていた僕の視界に、慣れ親しんだ人が映り込んだ。
あ、と思ったのは僕だけではないようだ。
彼もまさか、行動範囲から離れた場所で、僕と遭遇するとは思っていなかったらしく、きゅっと両眉をあげた。なかなか見ることのできない表情だった。
彼に気を取られていて、気づくのが一瞬遅れた。彼の手を握る存在がいることに。
彼の隣にいる女性が、僕の方を誰、と不思議そうに見ている。
彼の手と彼女の手の間に遮るものはなかった。
僕の皮膚には触れることがない手。
ドクン、と心臓が煩いくらいに音を立てた。
視界の色がこそげ落ちて、バラバラと散る。
その後に残ったのは灰色の世界だった。
時間が止まったかのように、僕が見る世界は停止していた。
握り込んだ右手に、なにかを掴んでいる感触が産まれた。
拳を胸の前にあげて指を開くと、手の中に小さな鍵があった。
鍵はいくつもの美しい宝石で飾られていて、どう見ても実用的なものではなかった。
(魔法を使う、その時になったら分かるわ)
祖母に言われた言葉が不意に思い出される。
それが今なのか。
僕は、止まってしまった彼に、僕の中にあるどす黒い想いをぶつけたくなってしまった。鍵の美しさに似合わぬ想い。
「僕、僕以外の……僕しか……」
想いが強すぎて、言葉にならない。ブツブツと唇を震わせるのは、意味の伝わらないモノばかり。
それでも、鍵は僕の心を読み取ったのか、キラキラと光り出した。
そして、景色が色を取り戻し、目の前の彼が動いた。
僕はゴクリ、と喉を鳴らして
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
なるべく和かになるよう努めて、話しかけた。
彼は首を傾げて
「どちら様ですか」
と返してきた。それは嘘をついているようには見えなかった。
「え、僕……」
「人違いだと思いますよ」
そう言って、彼と彼女は手を繋いだまま、僕の横を通り過ぎていった。
振り向くと彼女が彼に
「知り合いじゃないの」
「見たことない」
瞬時に僕は理解した。
いや、せざるを得なかった。
想いを現実にする魔法を、しくじったのだと。
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