5 / 10
第5話
しおりを挟む
三年生の冬、彼の母が亡くなった。
クラスメイトの誰にも、僕にさえ。個人的に連絡することもなく、彼は暫く学校を休んだ。先生からその事を告げられて、僕は彼に裏切られたような気持ちになった。
彼の中で僕は特別になっているとどこかで驕っていたのだと、自分自身の気持ち悪さに気付かされた。
センター試験の直前になって登校してきた彼は、それまでと変わらないように見えた。
クラス中が彼の身内の不幸を知っていたけれど、皆、自分の受験が現実で、彼の不幸事は所詮、他人事でしかなかった。僕はそれでいいと思っていた。
その日の昼休み、僕は彼に呼ばれて、あの通路を通って倉庫の教室が並ぶ廊下へやってきた。
イチョウの木はすっかり葉が散ってしまって、幹と枝が冬の景色に溶け込むように、ひっそりと立っていた。
受験が差し迫る三年生と違って、まだ時間に余裕がある下級生の声が、上階から響いてくる。でも、その音は僕たちの間にある繋がりを脅かすものではなかった。
窓の外ではイチョウの木の周りを、小さな雪が、黄色の葉の代わりに白く舞っている。
冷たさが、鉄筋コンクリート造りの廊下からも、壁からも、そして窓ガラスからも。僕たちに触れていた。
彼は僕をここに呼んだくせに、全然言葉を口にしない。ただ、イチョウを見ているだけだった。
だから、僕が何か言うしかなくて、大変だったみたいだね。そう言うと、彼はキュッと口を結んで、それまでのリズムと変えずに何度か瞬きを繰り返した。
「俺、受験やめたんだ」
白い息が窓に丸く付着するくらい、ガラスに顔を近づけて、彼は短くそう言った。それから、額をゴツンとガラスに押し当てた。
声が震えていたのは寒さのせいだろうか。
僕は彼から目を反らせなかった。
黄色いイチョウの色を纏った彼も美しかったけれど、冬の最中。色をなくしてしまった彼は千切れそうで、僕は、紅葉の先にある綾を見せつけられていた。
僕が彼に見とれている間に、彼は少しずつ、どうして受験を辞めたのか、辞めてどうするのか、ということについて話してくれた。
彼の家はパン屋を営んでいて、彼の両親二人とお手伝いのパートのおばさんが一人。それでギリギリ回している店だという。
「本当は、高校ももう辞めようと思ったんだけど、父が、あと少しなんだから出ておけ、っていうからさ」
彼はそう言って、口の端だけで笑った。
高校を出たらすぐに家の手伝いをすることに決めた、という。元々、家業を継ぐつもりだったらしい。進学先に決めていた大学は、彼が勉強が好きだから行くといい、と言われていたところだった。
「パン屋が考古学なんてやっても仕方ないからな」
彼の父は、行きたければ行っていいと言ってくれたようだが、彼にそれほどの情熱がなかったのか、それとも母を亡くしたことで心が折れたのか。それは僕には分からなかった。
ただ、彼はこれを聞いてほしいだけなんだろう、と思った。
その相手が僕だという事実が、この上なく僕を幸福にした。
クラスメイトの誰にも、僕にさえ。個人的に連絡することもなく、彼は暫く学校を休んだ。先生からその事を告げられて、僕は彼に裏切られたような気持ちになった。
彼の中で僕は特別になっているとどこかで驕っていたのだと、自分自身の気持ち悪さに気付かされた。
センター試験の直前になって登校してきた彼は、それまでと変わらないように見えた。
クラス中が彼の身内の不幸を知っていたけれど、皆、自分の受験が現実で、彼の不幸事は所詮、他人事でしかなかった。僕はそれでいいと思っていた。
その日の昼休み、僕は彼に呼ばれて、あの通路を通って倉庫の教室が並ぶ廊下へやってきた。
イチョウの木はすっかり葉が散ってしまって、幹と枝が冬の景色に溶け込むように、ひっそりと立っていた。
受験が差し迫る三年生と違って、まだ時間に余裕がある下級生の声が、上階から響いてくる。でも、その音は僕たちの間にある繋がりを脅かすものではなかった。
窓の外ではイチョウの木の周りを、小さな雪が、黄色の葉の代わりに白く舞っている。
冷たさが、鉄筋コンクリート造りの廊下からも、壁からも、そして窓ガラスからも。僕たちに触れていた。
彼は僕をここに呼んだくせに、全然言葉を口にしない。ただ、イチョウを見ているだけだった。
だから、僕が何か言うしかなくて、大変だったみたいだね。そう言うと、彼はキュッと口を結んで、それまでのリズムと変えずに何度か瞬きを繰り返した。
「俺、受験やめたんだ」
白い息が窓に丸く付着するくらい、ガラスに顔を近づけて、彼は短くそう言った。それから、額をゴツンとガラスに押し当てた。
声が震えていたのは寒さのせいだろうか。
僕は彼から目を反らせなかった。
黄色いイチョウの色を纏った彼も美しかったけれど、冬の最中。色をなくしてしまった彼は千切れそうで、僕は、紅葉の先にある綾を見せつけられていた。
僕が彼に見とれている間に、彼は少しずつ、どうして受験を辞めたのか、辞めてどうするのか、ということについて話してくれた。
彼の家はパン屋を営んでいて、彼の両親二人とお手伝いのパートのおばさんが一人。それでギリギリ回している店だという。
「本当は、高校ももう辞めようと思ったんだけど、父が、あと少しなんだから出ておけ、っていうからさ」
彼はそう言って、口の端だけで笑った。
高校を出たらすぐに家の手伝いをすることに決めた、という。元々、家業を継ぐつもりだったらしい。進学先に決めていた大学は、彼が勉強が好きだから行くといい、と言われていたところだった。
「パン屋が考古学なんてやっても仕方ないからな」
彼の父は、行きたければ行っていいと言ってくれたようだが、彼にそれほどの情熱がなかったのか、それとも母を亡くしたことで心が折れたのか。それは僕には分からなかった。
ただ、彼はこれを聞いてほしいだけなんだろう、と思った。
その相手が僕だという事実が、この上なく僕を幸福にした。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
同室者の怖い彼と、僕は恋人同士になりました
すいかちゃん
BL
高校に入学した有村浩也は、強面の猪熊健吾と寮の同室になる。見た目の怖さにビクビクしていた浩也だが、健吾の意外な一面を知る。
だが、いきなり健吾にキスをされ・・・?
【BL】はるおみ先輩はトコトン押しに弱い!
三崎こはく
BL
サラリーマンの赤根春臣(あかね はるおみ)は、決断力がなく人生流されがち。仕事はへっぽこ、飲み会では酔い潰れてばかり、
果ては29歳の誕生日に彼女にフラれてしまうというダメっぷり。
ある飲み会の夜。酔っ払った春臣はイケメンの後輩・白浜律希(しらはま りつき)と身体の関係を持ってしまう。
大変なことをしてしまったと焦る春臣。
しかしその夜以降、律希はやたらグイグイ来るように――?
イケメンワンコ後輩×押しに弱いダメリーマン★☆軽快オフィスラブ♪
※別サイトにも投稿しています
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした
亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。
カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。
(悪役モブ♀が出てきます)
(他サイトに2021年〜掲載済)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる