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第1話
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温んだ空気が頬に染みる。
僕が見上げたそこには、けむくじゃらの蕾から少し覗いた白い花びら。
見上げて少し後悔した。
木蓮がもう、咲きそうだった。
春の空は、静かな嵐の様相だった。
忍び寄る風はバレリーナのつま先を思わせる。
灰色の空を背景にして、ソメイヨシノの蕾も色付いていた。
僕のせいだ。
この肌に染みる感傷を、いくら春のせいにしたくったって、春の温さはそれをやんわりと拒んで、僕のせいだよ、って返してくる。思い知らされる。
だから、僕は春が嫌いなんだ。
去年の春、僕は大きな過ちを犯してしまった。
その報いを今も受けている。
ハクモクレン、ユキヤナギ、ミツマタ、ソメイヨシノ。
僕の家の近くの遊歩道は、冬の寒さを脱ぎ捨てて華やぎを増していた。
出来るだけ花や、蕾からはみ出した花弁を見ないように、遊歩道を埋める灰色の石畳を凝視する。
僕の足はそのまま遊歩道を抜けて、ショッピングセンターの隣の道を通り過ぎ、僕の住む住宅街とは別の住宅街へ向かっていた。その区画の隅に小さなパン屋がある。
昼の混雑時を避けて、僕はそのパン屋へ入った。
「いらっしゃいませ」
今日も彼がいた。
当たり前だ、僕は彼を見にきているのだから。
僕の過ちは、それと知らずに今日も僕を見ている。
過ちを知り彼を見る僕と、過ちを知らずに僕を見る彼。
笑いそうだ、僕が滑稽すぎて。
あれからもうすぐ一年が経つというのに、やはり僕は許されないらしい。
いつもと同じ、彼の接客を受ける。
トレーには昨日と同じパン。一昨日もその前も同じ。ずっと同じ。
バターロール五十六円を二個。チーズマフィン百二十円を一個。
合計三つを乗せてレジに向かう。
ポイントカードと百円玉三枚を財布から出す。
ポイントは二百円でスタンプが一個。三十個溜まると金券と交換されるが、今までそれを使ったことはなかった。
彼からレシート、ポイントカード、五十円を受け取った。
僕の手に触れるか触れないか。
この瞬間だけが、僕と彼に許された微かな触れ合いだった。
お釣りを受け取れるように、でも、彼の邪魔にならないように硬貨一枚になるように。
こんな姑息な僕を誰か、なじってくれればいいのに。
こうやって、店の定休日以外、毎日同じパンを買いにくることの愚かさも、彼の記憶に残るように、出来るだけ同じ行動を繰り返すことも。
全て引っ括めて、殴り倒してほしい。
そうして許されるなら、どれだけ救われるか。
「ありがとうございました」
彼の声に押されて、僕は店を出た。
店のドアが僕の背中でパタンと閉まる音。それが冬の空気ように、寒々しく響いた。
何度も繰り返した彼とのやり取り。
最初は淡い期待すら抱いていたのに、今では彼の手に触れるたびに、首縊りの紐がぶら下がる頂上を目指して、階段を一段一段登っている気分だ。
焼きたてのバターロールが入った紙袋。
寒くなり始めたとき、それがとても温かくて、彼から与えられなくなった温もりのようで。希望すらなくなっていたけれど、パン屋に通うのはどうしてもやめられなくて。
でも春にはその温かさは必要なくなる。
一年間変わらなかったものを、僕はどうしようもないのだ。
春の暖かさに、どうしようもない事が仕方ないくらいにわかってしまって、僕は笑うしかなかった。
僕が見上げたそこには、けむくじゃらの蕾から少し覗いた白い花びら。
見上げて少し後悔した。
木蓮がもう、咲きそうだった。
春の空は、静かな嵐の様相だった。
忍び寄る風はバレリーナのつま先を思わせる。
灰色の空を背景にして、ソメイヨシノの蕾も色付いていた。
僕のせいだ。
この肌に染みる感傷を、いくら春のせいにしたくったって、春の温さはそれをやんわりと拒んで、僕のせいだよ、って返してくる。思い知らされる。
だから、僕は春が嫌いなんだ。
去年の春、僕は大きな過ちを犯してしまった。
その報いを今も受けている。
ハクモクレン、ユキヤナギ、ミツマタ、ソメイヨシノ。
僕の家の近くの遊歩道は、冬の寒さを脱ぎ捨てて華やぎを増していた。
出来るだけ花や、蕾からはみ出した花弁を見ないように、遊歩道を埋める灰色の石畳を凝視する。
僕の足はそのまま遊歩道を抜けて、ショッピングセンターの隣の道を通り過ぎ、僕の住む住宅街とは別の住宅街へ向かっていた。その区画の隅に小さなパン屋がある。
昼の混雑時を避けて、僕はそのパン屋へ入った。
「いらっしゃいませ」
今日も彼がいた。
当たり前だ、僕は彼を見にきているのだから。
僕の過ちは、それと知らずに今日も僕を見ている。
過ちを知り彼を見る僕と、過ちを知らずに僕を見る彼。
笑いそうだ、僕が滑稽すぎて。
あれからもうすぐ一年が経つというのに、やはり僕は許されないらしい。
いつもと同じ、彼の接客を受ける。
トレーには昨日と同じパン。一昨日もその前も同じ。ずっと同じ。
バターロール五十六円を二個。チーズマフィン百二十円を一個。
合計三つを乗せてレジに向かう。
ポイントカードと百円玉三枚を財布から出す。
ポイントは二百円でスタンプが一個。三十個溜まると金券と交換されるが、今までそれを使ったことはなかった。
彼からレシート、ポイントカード、五十円を受け取った。
僕の手に触れるか触れないか。
この瞬間だけが、僕と彼に許された微かな触れ合いだった。
お釣りを受け取れるように、でも、彼の邪魔にならないように硬貨一枚になるように。
こんな姑息な僕を誰か、なじってくれればいいのに。
こうやって、店の定休日以外、毎日同じパンを買いにくることの愚かさも、彼の記憶に残るように、出来るだけ同じ行動を繰り返すことも。
全て引っ括めて、殴り倒してほしい。
そうして許されるなら、どれだけ救われるか。
「ありがとうございました」
彼の声に押されて、僕は店を出た。
店のドアが僕の背中でパタンと閉まる音。それが冬の空気ように、寒々しく響いた。
何度も繰り返した彼とのやり取り。
最初は淡い期待すら抱いていたのに、今では彼の手に触れるたびに、首縊りの紐がぶら下がる頂上を目指して、階段を一段一段登っている気分だ。
焼きたてのバターロールが入った紙袋。
寒くなり始めたとき、それがとても温かくて、彼から与えられなくなった温もりのようで。希望すらなくなっていたけれど、パン屋に通うのはどうしてもやめられなくて。
でも春にはその温かさは必要なくなる。
一年間変わらなかったものを、僕はどうしようもないのだ。
春の暖かさに、どうしようもない事が仕方ないくらいにわかってしまって、僕は笑うしかなかった。
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