LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

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「それは……まず、無理でしょうね」
 もし、グレイヴが犯人だったら、こんなに複雑な話にはなっていなかったはずだった。どんなトラブルが発端になったかは状況によるが、結果として残される記録は【グレイヴが被害者の男性に危害を加えた】。ただそれだけで片付くという、実にシンプルなものになるからだ。
「俺があそこに駆けつけたときはもう、同僚は既に倒れて…………死にかけてたから…………」
「……そう……なんだよな……」
 改めて思い出した恐ろしい状況。今頃になって恐怖が押し寄せ僅かに身体が震えてしまう。
「……アイツが助かって…………良かった…………」
 それは心からの本音だった。そこに嘘が含まれていないことを悟った刑事の手がそっと離れていく。
 グレイヴが襲っていない事は曲げ様のない事実で、捜査員全員が知っていることである。最も疑わしい相手である事は変わりないが、何度検証を試みても犯人像が彼に結びつくことはあり得ない。だからこそ、この事件は実に奇妙で不可解で。理屈がまかり通らないことにむず痒さを覚えてしまう。
「裂傷の形状も【大型の獣に襲われたような噛み傷】となってしまっているんだよな……人間に襲われたものでは無いと、担当の医師もはっきり断言しちまってる……どういう事なんだよ……」
 もう、お手上げだ。
 遂に刑事が根を上げ、グレイヴの向かいに腰掛け項垂れた。
「……世の中には、常識や理屈じゃ説明出来ない不可解な現象がある。そういうこと……なんですか、ね?」
「煩い、黙れ」
 これ以上は何も情報を見つけることは出来ないだろう。捜査が打ち切られることはないが、迷宮入りする可能性が濃厚になったことで不機嫌な態度になる刑事に同情を覚えながら、グレイヴは小さな声で呟く。
「それでも……それが今、俺や貴方たちの前にある現実なんですよ」
 それが皮肉に聞こえるかどうかなんてグレイヴには分からない。
「俺が分かる事は、同僚が死にかけた事と、俺のトラックの窓ガラスが外側から割られていたことだけ。ただそれだけですから」
 その言葉を最後に、狭い室内は重い沈黙に包まれてしまった。
 随分と長い時間に感じていたが、これはたった二日間で起こった出来事である。漸く拘束されていた警察署から解放され、自宅に戻ることが叶ったグレイヴは、家の前で刑事と別れた。
 先日からまともに寝ていないため、頭が随分とぼんやりしている。身体は極度の疲労から、まるで重しを乗せられたかのように、重たく感じられた。
「…………ただいま……」
 それは、二人で生活していた時の名残で呟いた言葉。しかし、それを呟いたところで、いつものように駆け寄り甘えてくる存在はもう居ない。
「……自分から、手放したんだもんなぁ……」
 室内に入り静かに閉ざされるドア。
 元々一人で住んでいた家なのだ。本来ならば、この空間は住み慣れたもののはずだった。
「……随分と……広い、な……」
 痛いほどの沈黙がグレイヴの耳を刺す。冷えた空気が肌に纏わり付くと、気持ちはますます落ち込み気が滅入ってしまう。
「…………ルカ」
 きっと、この名前を呼ぶことは、これが最後となるのだろう。
 そのままリビングに移動し取り出した携帯端末。アクシデントに巻き込まれたこと、トラックを修理に出してしまったことを上司に伝えると、ソファに身を沈め身体の力を抜いていく。
「………はぁ……」
 天井に張り付いたライトをじっと見つめ、ただぼんやりと過ごす時間。何もせずに居ると、選んだ選択肢の全てが後悔へと繋がっていた事に気が付き、思わず泣きたくなってしまった。
 ただ単純に、一だけを望んでいれば良かったのだ。
 十を求めると当然、そのこと自体に変化が起こってしまう。
 百を求めると多分、今在る環境そのものが変わってしまうのだろう。
 そして、それ以上を求めれば必ず、トラブルというものが付いてくるのかもしれない。
「何故……欲張ってしまったんだろうなぁ」
 手放してしまった存在を、ただ盲目的に好きだっただけだ。
 ただそれだけが欲しいと思って居ただけなのに。
 だからこそ、歪んでしまった願いは、純粋な気持ちを大きく狂わせてしまった。
 根底にあったものは、その存在と共に有り続けることの出来る時間。それを出来るだけ多く、確保したいと願ってしまったところから歯車は少しずつ狂い始めていた。
 でも、それは、気が付けば百以上の欲望へと育ち、結局は全てを破壊して、零となって消えていってしまう。
「自分で言ってたんじゃないか……ただ傍に居てくれれば良いんだって……。それだけで十分なんだって……」
 それは何度も、ルカへと繰り返し囁いた言葉の一つ。
 「傍に居て欲しい」。
 それがグレイヴの求めていた純粋な願いだったはずだった。
 しかし、手繰り寄せた結果は望みとは全くかけ離れた者で。まるで掛け違った釦のように、その願いが気が付かないうちに、形を変えてしまっていた。
 傍に居るという在り方。それを変化させたばっかりに、自分の手で壊してしまった幸せという形。
『お帰り、グレイヴ』
 目を伏せると聞こえてくる懐かしい声。
「……嬉しいか?」
『ああ、嬉しいね』
 真っ黒な影は、ゆらゆらと揺れながらグレイヴの隣へと腰を下ろす。
『アンタは、また、元通り。俺と同じ空っぽだな』
「そうだな、その通りだよ」
 いつの頃からか見えるようになった黒い影。これが一体何なのかは未だに分からないままだ。ただ、この影は、グレイヴという人間が幸せになることを極端に恐れ、そして嫉んでいるようだという事だけははっきりと分かる。
「もしかして……お前は、本物の……俺の弟……なのか?」
 その影のことを「ルカ」と呼べなかった理由は実に単純なものだ。
 自分の中定義された「ルカ」という存在。それが「見たこともない弟」ではなく「人の形を持つ狼」を示すものへと変わってしまっていたからである。
 もしかしたらこの影は、そのことに対して怒りを感じていたのかも知れない。
 辛うじて繋がっていたはずの脆弱な糸を、完全に断ち切ろうとしている兄のことを許せないと思い、こんな風に自分を追い詰めてくるのではないかと。だからこそ、敢えて確かめてみたい。そんな興味が湧いてしまったのだろう。
『馬鹿な事言うなよ』
 しかし、そんなグレイヴの不安を嘲笑うように、影は呆れた様に言い放つ。
『そんなことはあり得ねぇな』
 呆気なく否定されてしまう言葉に煽られる不安。
「それじゃあ…………一体誰なんだよ……お前は」
 その影が弟ではないのならば、一体誰なのだろう。そんな疑問が頭を過ぎる。
『それは、アンタが一番、良く知ってることだろう?』
 まるで試されているかのようなその言葉に、グレイヴは暫く考える。そして、辿り着いた一つの答え。
「……ああ……そうか」
 グレイヴは一度、納得するように深く頷いた。
「お前は……俺、自身。そうなんだな」
『つまりは、そう言う事』
 幸福を願いながらも、こころのどこかでかけてしまう抑止。
 無意識に抱いた自責の念が、自分には幸せを掴む権利は無いと囁き続けている。そんな自身の心が生み出したのは、自らの抑圧された醜い部分。それが形を持ち目の前に現れる。
 今まで謎だった黒い影は、そうやって作り出された存在なんだと言うことに気が付いたとき、グレイヴの口から渇いた笑いが零れた。
『結局、アンタはどう足掻いても不幸になるようにって、そう運命付けられているんだよ』
 グレイヴの隣で影が寂しそうに呟く。
『だってそうだろう? 自から幸福を望まない奴が、幸福になれるなんてこと。ある訳が無いじゃないか』
 どこかしら諦めたような影の声は、グレイヴを責めているようにも、慰めているようにも聞こえるものだ。
「……その通りだな。全くその通りだと思う」
 その事を、何一つ否定が出来ない情けない自分。何故なら、影の言っていることは全て本当の事だからだ。
『俺にも【幸せ】が見えるかと期待していたのに、非常に残念だよ』
「すまなかった」
 人間という生物は、自ら思って居るよりも随分と弱い生物だ。
 だからこそ、その弱さを隠すために虚勢を張り、あらゆる事を都合良く誤魔化していく。それは偏に臆病だからだ。
 それでも、生きていくという事は、常に可能性を選択していくことの連続である。その時に下した判断が正しいのか。あるいは間違っていたのかなんて、後に起こる結果を見ることでしか判断をすることが出来ない。
「生きていることは、辛いことなんだな」
 今まで沢山の選択をしてきた。その中で、どれだけ間違った方を選んで来たというのだろう。
『それでも、アンタは生きていたいんだろう?』
 選ばれなかった選択肢の中に、今よりも良い未来が存在していた可能性は残されたまま。
「そう……だな」
 肉親がこの世を去ったときに、共に死にたいと願った事は確かに有る。しかし、生を手放す勇気が未だに持てないままこの歳まで生き続けている。それでも辛いと感じてしまう事は、今まで数え切れない程あったのだ。だからこそ、生きる為の理由を探し、それを見つけられたことに喜びを感じていたはずなのに……。
『アイツが……アンタが生きるための理由……だったのか?』
 いつもならば挑発的に煽るような物言い。だが、今はそれとは異なる憐れみを含んだ声へと変化した影の言葉。
「……ああ。アイツが俺が生きる為の理由になるはず……だったんだ」
 壊わしてしまったハンプティ・ダンプティ。
 それはもう、二度と元に戻すことが出来ない。
 高い壁の上から突き落とされて、卵の殻が割れてしまったのだから。
 中に詰まった夢や希望。それらは一気に弾けて飛んでしまった。
 後に残ったのは無残な欠片と、形を失った零れ出る中身だけ。
「自分の手で壊したんだ」
 いつの間にか、傍に居たはずの影さえその姿を消してしまっている。
「……また」
 誰も居ない部屋に降りる沈黙。
「俺は独りになっちまったんだな」
 その呟きに対し、誰も答えるものは無く、ただ無機質に音を鳴らす時計の音だけが響いた。
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