LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

02

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「…………」
 細心の注意を払いながら狼との距離を詰めていく。先程までは、あんなにこの場から離れたいと願っていたのに、今は全く逆の事をしていることがおかしくて仕方が無い。距離が近付くことを警戒しながらも、狼は耳以外を動かすそぶりを見せず蹲ったまま。だからこそ、つい気が大きくなってしまったのかも知れない。
「あっ!」
 雪の上にみつけたのは、じんわりと広がる小さな紅。それに気が付いた瞬間、グレイヴは思わず大きな声を上げてしまっていた。
「やばっ……」
「グルルルル……」
 その声で気が付いたのだろう。慌てて口元を押さえるが、その行動は余り意味を成さない。先程まで無反応だった狼の耳が大きく動くと、低い唸り声を上げながらゆっくりと顔を持ち上げこちらを見てしまったのだ。
「グルルルル……」
 剥き出しの牙を見せつけ、怒りを含んだ目で狼がグレイヴを睨み付ける。これは生存本能からくる正当防衛ではあるが、身を守る術を持たない人間にとって、目の前の猛獣が見せる鋭い武器からは恐怖しか感じられない。やはり近付くべきでは無かった。そう後悔しても遅いと分かってはいても、咄嗟に顔を庇うようにして腕を上げ身を固め衝撃に備えてしまう。
「グルルルル……」
 しかし、狼は低く唸るだけで、グレイヴを攻撃してくる気配は無かった。暫くの膠着状態。意外にも先に折れたのは狼の方で、グレイヴがこれ以上近付いてこないことを理解すると、唸り声を弱め、再び顔を前足に乗せそっぽを向いてしまったのだ。
「…………えっ…………と…………」
 命が助かったことに安堵しつつ、何故狼が自分を攻撃してこないのかを考えてみる。
「やっぱり、怪我してるから……だよな……?」
 狼の足下に広がる紅は首領用のワイヤートラップによるもののようで、よく見ると銀色のワイヤーが白い毛に埋もれるようにして絡みついていることに気が付いた。
「……罠にかかったのか」
 奪われた自由は、やがて来る終わりまでの時を静かに刻む。生きたいと願いながらも、どうすることも出来ないままただ身体が動かなくなることを待つしか無い無力さ。死という区切りを迎えるまで、それはどのくらい長い時を有するのだろうか。想像も付かない。
 助けてあげなくては。
 この罠を仕掛けた人がどんな人なのかは知らないが、罠にかかってしまったこの狼に罪は無いはずだ。ただ、そこに来てしまった。それだけで生死を分ける運命を定められてしまうのなら、それはとても悲しい事だとグレイヴは考える。芽生えた正義感はちっぽけなもので、自己満足以外のなにものでも無かったが、それでも彼はこの狼を助けたいと。そう強く思ってしまった。
「……落ち着けよ……何もしないから……」
 自分はあなたにとって無抵抗な存在だ。それを必死にアピールしながら、狼に威嚇されない場所まで少しずつ近付いていく。距離が縮まる度に狼が低い唸り声を上げ警戒心を見せるが、その都度足を止め、怒りが収まるのを辛抱強く待ち続ける事数十分。漸く罠の状態が確認出来る場所まで辿り着く頃には、気苦労で強い疲労感を感じてしまっていた。
「うっ……」
 罠に掛かったとき無理に足を引き抜こうとしたのだろう。抵抗すればするほど深く食い込んだワイヤーが、皮膚を擦り傷つけ、肉にめり込んでしまっている。早く罠を解除してやらないと、血の巡らなくなってしまった部分が壊死してしまう可能性も高いだろう。
「グルルル……」
 それでも、簡単に狼に手を伸ばす訳にもいかないことはグレイヴも理解していた。人間が近付いてきた事で、再び警戒心を剥き出しにした狼は、彼に向かって真っ直ぐに敵意を見せるてくる。
「ごめんってば」
 こうやって近付くなと警告を発せられるのは仕方のないことだと思う。この罠を仕掛けたものはグレイヴと同じ人間なのだ。自を罠に掛けた相手と同じ種族の生物を許し受け入れろと。そう願う方が無理な話なのだろう。
 そもそも野生動物と人間とは適度な距離を保ちつつ、互いに関わり合わないことで共存を続けている関係なのだ。それを一方的に侵したのは此方側なのだから、彼等にとっては人間の方が侵略者。それから逃れようと藻掻くことは当然のことなのである。
「頼むから大人しくそれを外させてくれよ」
 それでもこのまま放っておく訳にはいかないのだ、と。グレイヴはゆっくりと、血のこびりついたワイヤーが食い込む狼の左足へと手を伸ばす。
「ガウッ、ガウガウっ!!」
「うわっ!!」
 もう少しで触れられるという距離まで手を伸ばした瞬間、凄い勢いで狼が吠える。噛み付かれそうになり、寸でのところで手を引っ込めると、グレイヴは慌てて距離を取りその場を離れた。胸に手を当て繰り返す深呼吸。
「グルルルル……」
「……そんな……」
 いつの間にか、灰色に染まる空から小さな氷の粒が地表へと降り注ぎ始めている。
「どうすれば……」
 雪が降り始めたことにより、益々状況は悪くなってしまった。
 このまま放っておけば、この狼は確実に死んでしまうのだろう。この時期に自分の足で動けないと言うことは、避けられない死を意味している。只でさえ食べ物が少ない時期なのだ。狩りをするのも苦労をするのに、こんな状態では餓死をしてしまうことが確定してしまっていると、そう言われているのも同じことだ。何とか狼を落ち着けて、急いで罠を外してあげないと。グレイヴは必死に考え最善策を探す。
「あっ」
 そこで何かを思い付いたのだろう。
「……ちょっと待ってろよ」
 グレイヴは一度、狼の前に手を翳した後、来た道を急いで戻り始めたのだった。
「グルルルル………」
 遠くなる子供の後ろ姿。その場に残された狼は、グレイヴの匂いが薄れて行くに連れ、威嚇する為に出して居た唸り声を小さくしていく。完全にその姿が降り積もる雪に掻き消されてしまったところで漸く声を止めると、揃えて置いた前足の上に頭を預け、再びそっと瞼を伏せ蹲ってしまった。何の音もない静寂がその場を満たす。狼は、自らの運命を嘆きながらも、終わりの時を迎えるべく雪の中へ埋もれようとしていた。
 そんな狼をその場に残し急ぐグレイヴは、雪に足を囚われながらも必死に走り続けていた。父親とは未だ喧嘩中で、まだ謝ってなど居ない。だから表玄関を開くことなく、裏口からこっそりと建物内へと入る。
「確か……この辺に……」
 真っ直ぐに向かったキッチンで、漁るのは冷蔵庫の中。先程思い出したのは昼食時に、食べる気がしなくて残して置いた自分用のアップルパイの存在だ。それは丁寧にラップを掛けられ、まだ手つかずの状態で残っていた。
「あった!」
 これがあれば狼の警戒も解けるだろうか。まだそれが成功するかどうかは分からないが、それでもやってみなければ分からないと。急いでアップルパイを袋に包むと、再び外に出るべく裏口へと向かう。
「……お兄ちゃん?」
「!!」
 背後から自分を呼び止める声に驚き反射的に振り返る。見ると廊下に妹が立っており、不思議そうに首を傾げながらグレイヴのことを見ていた。
「何してるの?」
 妹はグレイヴに近付きながらそう彼に尋ねる。
「しーっっ!」
 妹の元へと駆け寄ると、グレイヴは慌てて妹の口を塞ぎこう呟く。
「良いから黙ってろ! マリー」
 妹は始め戸惑いを見せ不安そうに彼を見たが、「これは二人だけの秘密だからな」と念を押すと、素直に頷きグレイヴの手を叩いた。
「う……うん、分かった」
 そのことばを聞いたグレイヴは安心したように笑い彼女の頭を撫でてあげる。
「それじゃあ、俺、出掛けてくるから」
 これ以上遅くなるのは拙い。そんな気持ちから、妹の肩を軽く叩いた後でグレイヴは急いで扉に手を掛け外へと飛び出す。
「何処に行くの?」
 手に持っているのはカットされたアップルパイを入れたビニール袋。それを軽く揺らしながら妹に告げたのはたった一言だけの言葉だ。
「デート!」
 理由なんて適当なもので良い。後ろを振り返ることなく手を振ると、グレイヴは再び狼が居る場所を目指して走りだした。
「雪降ってるのに!?」
「関係ないよ!! じゃあな、マリー!」
 再び目指すのは狼が待つあの場所。降り注ぐ雪の勢いはまだ弱く、日が落ちるまではもう少し時間がかかりそうだった。 
 先程から降り出した雪のせいで、すっかり全身が白く染まった狼は未だ動けずにいた。騒がしい時間は一瞬。その時ですら随分と昔のように感じる。
「…………ウ……」
 小さく溜息を吐いたと同時に気が付いたのは、近付いてくる何かの気配。一度、ひくりと鼻を動かしてみるが、まだその正体が分からず、匂いが掴めないことに不安を感じてしまう。
「……クゥン」
 嗅覚でそれを確かめられないのならと、ゆっくりと頭を持ち上げ重たい瞼を開き目を凝らす。近付いてくるのは小さなシルエット。その距離が縮まるにつれ、先程消えた匂いが再び鼻孔を擽る。
 また、あの人間が戻ってきた?
 それに気が付いた狼は素早く立ち上がると、勢いを付けて全身を震わせ身体に付いた雪を払い飛ばしたのだった。
「あっ! 良かった、まだ生きてる」
「グルルルルル…」
 やはり、また人間が戻ってきたのだ。今度は何をされるのかが分からない。そんな不安から、狼は全身から殺気を放ち警告を発する。
「大丈夫だよ、何もないんだってば」
 それに気が付いたグレイヴは、離れた場所で一旦足を止め、羽織っていたコートのポケットからビニール袋を取りだした。
「あっ」
 急いで来たせいだろう。家をでる時までは確かに綺麗な形を保っていたアップルパイは、今はとても残念な姿に変わってしまっていた。
「……形、崩れちゃってる」
 それを見て落ち込むグレイヴのことを睨みながら、狼は尚もまだ威嚇のために低い唸り声を発し続けている。
「グルルルル……」
「ごめんな。こんな物しかないんだ」
 ビニール袋から取り出した形の崩れたアップルパイ。それを適当な大きさに千切ると、試しに狼の方へと放り投げてみる。
「腹減ってるかなと思ってさ。アップルパイだけど食べるかな?」
 それを食べるかどうかは、正直賭だった。人間の食べ物を安易に与えてはいけないと朧気ながらに理解はしていても、そんなこと気にしている余裕なんてない。頼むから食べてくれとグレイヴは必死に願う。
 目の前に落ちたパイとその向こうに立つ人間。狼は尚も低く唸りながらそれを交互に眺めていた。狼も戸惑っているのだろうか。何となくそんな気がしてグレイヴは次の行動を起こす。
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