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雨のち雨
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止まない雨は無いとは言うけれど、今すぐにでも止まなければ崩れ落ちそうな時はどうしたらいいのか。
朝は必ず来るとは言うけれど、明日が来なければいいとさえ思う時は何を願えばいいのか。
一秒先の保障すら自信の無い、”いつか”を待つ余裕も無い者に、明確な終わりを伝えられない励ましは、相手を抉るだけの行為だ。
「くそっ朝か……」
穏やかな漏れ入る光も楽し気な小鳥のさえずりも、俺にとっては恨めしいもの以外何ものでもない。朝を伝えるもの全てが嫌いだ。夜が明けたことを認めたくなくてぐずぐず布団に潜りこむが、今日の平日を反転させて休日に出来る力を持ち合わせていない俺は、顔を空気に触れさせるしか道は残されていなかった。
六時間は寝られただろうか、それでも全く寝た気がしない重苦しい体をどうにか持ち上げて、ベッドから転がり落ちるように這い出て洗面所を目指す。繁忙期ともなれば四時間睡眠がデフォルトになるのだから、六時間で満足しなければいけない。
時計代わりのスマートフォンを確認すれば七時。あと一時間以内に毎日の苦行としか思えない”地獄へ行く”という行為をしなければならない。もちろん本当の地獄なわけはないのだが、そうとしか言いようがない。まだ目覚めたばかりだというのに、誰かに縋って泣いてしまいたくなった。
数年前の俺はこうではなかった。
むしろ毎朝勢いよく起きて親に「五月蠅い」と言われる程盛大な声で話して、その日に何が起こるのか楽しみに生きている男だった。大学へ行っても同じで、会う友人皆に声をかけこれまた「うるせーよ」と笑われ、女子たちからは「黙っていればイケメンなのに」と言われからかわれながらも周りにいつも人がいた。
それが今はどうだろう。
就活の時に着ていた真っ黒の新品とは違う、この二年ですでにくたびれ始めた濃いグレーのスーツに白いシャツ、ストライプのネクタイを苦し気に巻き付けて出勤の準備をする。この恰好がまるで暗い独房で暮らす囚人のようで、鏡に映る自分はいつの頃からか常に消えない隈が今日も体調不良だと訴えている。
重い枷を付けたとしか思えない足取りで駅へ向かい、乗りたくもないぎゅうぎゅうに人間が詰められた電車へ乗り込む。後ろから押し込んでくる駅員も毎日大変なものだ。どうにか居場所を作って、両手をつり革に掴ませる。夏も終わりかけだというのに、車内はむさくるしく、嗅ぎ慣れたお世辞でも良い匂いと言えないものがどこからか漂ってきた。
――確か、満員過ぎて中で押し潰されて肋骨折ったっていう事故がなかったっけ。そんな思いをして皆何処へ向かうんだ。
望まないままに電車は一定方向に動き続ける。こうして人を毎日運ぶだけの簡単な仕事を羨ましく思うが、よくよく考えてみれば自分の体に傲慢な人間たちをぎゅうぎゅうに押し込まれて休み無く延々と動き続けるのだから、仕事内容は単純かつ明確でも俺だったら研修段階で逃げ出してしまうに違いない。そこまで頭を巡らせたところで、無機物相手に何をしているのか自分で自分に同情した。
会社の最寄り駅に着き、後ろから押し出されながらホームへ降り立つ。固いアスファルトがぐにゃぐにゃ四方に揺れ、このまま一直線に倒れてしまいそうだ。鈍い視界の中、それでも時間だけは頭の中にあって、気力だけで改札を抜けた。
「お早う御座います」
俺の地獄、いや勤め先である「株式会社ハップ」と書かれた扉をくぐって、四階までエレベーターで上がり、営業課のあるフロアを歩きながら挨拶をする。営業で身についた上辺だけの薄い笑顔も一緒に貼り付ける。すると、周りにいる同僚たちが形式的ながら挨拶を返してくるのだ。
「おはよう」軽く手を挙げる同期。
「今日は時間余裕もって来たね」斜め前のデスクに座る女の先輩。
「はい、プレゼンの準備しないといけないんで」
朝から疲れた顔も見せられず何とか笑顔で返して馴染みの席に座る。デスクの上はノートパソコンとカレンダーしか無く綺麗でこざっぱりとしている。元々整理整頓は苦手な方だが「整理も出来ない奴は仕事が出来ないのと一緒」だそうで、仕事が終わる時に整理して帰れと五月蝿く言われているためにこんな状態になっている。文房具くらいは置いてあってもいいのではないかと思うのだが、そんなことを言い返せる技量は残念ながら俺には一ミリもない。
気を抜けばため息が零れ落ちそうで、口もとを覆って誤魔化す。パソコンの電源を入れたところで、フロアのドアが開いた。
「皆おはよう」
――元凶が来た!
頭の中でぐるぐるといつも怒鳴る上司に文句を言っていたところで本人が現れた。
危なかった、これ以上イライラしていると知らずに独り言で文句を言ってしまっていたかもしれない。
「高田、何だ出勤したなら早く準備しろ」
「……お早う御座います。分かりました、すみません」
「たく、若い奴らは会社に来てもだらだらとしゃべってばかりだ。ったく、ゆとりが」
――別に誰かとしゃべってません。しかもまだ始業時間でもないですけど! あと、ゆとりをネタにして馬鹿にするのも古いぞ、そもそも、俺、ゆとりじゃなくてさとり世代だし。
何てことは言えるはずもなく、いそいそと文房具とプレゼンの資料を広げて仕事の準備に取りかかる、振りをする。こうでもしておかないとまたすぐに怒号が降りかかるに違いない。確かにプレゼンの準備のために一本早い電車で来た。しかし仕事を始めるには心の準備というものが必要なものなのだ。そうして一度トイレに向かって気持ちを落ち着かせて戻り、やっと仕事を開始した。
ちらりと上司の顔を見る。青鬼、もとい山本課長は今日もお気に入りだという青いネクタイをしてデスクに向かっている。青鬼と呼んでいるのは俺だけだけれども。もちろん口には出さない。
朝は必ず来るとは言うけれど、明日が来なければいいとさえ思う時は何を願えばいいのか。
一秒先の保障すら自信の無い、”いつか”を待つ余裕も無い者に、明確な終わりを伝えられない励ましは、相手を抉るだけの行為だ。
「くそっ朝か……」
穏やかな漏れ入る光も楽し気な小鳥のさえずりも、俺にとっては恨めしいもの以外何ものでもない。朝を伝えるもの全てが嫌いだ。夜が明けたことを認めたくなくてぐずぐず布団に潜りこむが、今日の平日を反転させて休日に出来る力を持ち合わせていない俺は、顔を空気に触れさせるしか道は残されていなかった。
六時間は寝られただろうか、それでも全く寝た気がしない重苦しい体をどうにか持ち上げて、ベッドから転がり落ちるように這い出て洗面所を目指す。繁忙期ともなれば四時間睡眠がデフォルトになるのだから、六時間で満足しなければいけない。
時計代わりのスマートフォンを確認すれば七時。あと一時間以内に毎日の苦行としか思えない”地獄へ行く”という行為をしなければならない。もちろん本当の地獄なわけはないのだが、そうとしか言いようがない。まだ目覚めたばかりだというのに、誰かに縋って泣いてしまいたくなった。
数年前の俺はこうではなかった。
むしろ毎朝勢いよく起きて親に「五月蠅い」と言われる程盛大な声で話して、その日に何が起こるのか楽しみに生きている男だった。大学へ行っても同じで、会う友人皆に声をかけこれまた「うるせーよ」と笑われ、女子たちからは「黙っていればイケメンなのに」と言われからかわれながらも周りにいつも人がいた。
それが今はどうだろう。
就活の時に着ていた真っ黒の新品とは違う、この二年ですでにくたびれ始めた濃いグレーのスーツに白いシャツ、ストライプのネクタイを苦し気に巻き付けて出勤の準備をする。この恰好がまるで暗い独房で暮らす囚人のようで、鏡に映る自分はいつの頃からか常に消えない隈が今日も体調不良だと訴えている。
重い枷を付けたとしか思えない足取りで駅へ向かい、乗りたくもないぎゅうぎゅうに人間が詰められた電車へ乗り込む。後ろから押し込んでくる駅員も毎日大変なものだ。どうにか居場所を作って、両手をつり革に掴ませる。夏も終わりかけだというのに、車内はむさくるしく、嗅ぎ慣れたお世辞でも良い匂いと言えないものがどこからか漂ってきた。
――確か、満員過ぎて中で押し潰されて肋骨折ったっていう事故がなかったっけ。そんな思いをして皆何処へ向かうんだ。
望まないままに電車は一定方向に動き続ける。こうして人を毎日運ぶだけの簡単な仕事を羨ましく思うが、よくよく考えてみれば自分の体に傲慢な人間たちをぎゅうぎゅうに押し込まれて休み無く延々と動き続けるのだから、仕事内容は単純かつ明確でも俺だったら研修段階で逃げ出してしまうに違いない。そこまで頭を巡らせたところで、無機物相手に何をしているのか自分で自分に同情した。
会社の最寄り駅に着き、後ろから押し出されながらホームへ降り立つ。固いアスファルトがぐにゃぐにゃ四方に揺れ、このまま一直線に倒れてしまいそうだ。鈍い視界の中、それでも時間だけは頭の中にあって、気力だけで改札を抜けた。
「お早う御座います」
俺の地獄、いや勤め先である「株式会社ハップ」と書かれた扉をくぐって、四階までエレベーターで上がり、営業課のあるフロアを歩きながら挨拶をする。営業で身についた上辺だけの薄い笑顔も一緒に貼り付ける。すると、周りにいる同僚たちが形式的ながら挨拶を返してくるのだ。
「おはよう」軽く手を挙げる同期。
「今日は時間余裕もって来たね」斜め前のデスクに座る女の先輩。
「はい、プレゼンの準備しないといけないんで」
朝から疲れた顔も見せられず何とか笑顔で返して馴染みの席に座る。デスクの上はノートパソコンとカレンダーしか無く綺麗でこざっぱりとしている。元々整理整頓は苦手な方だが「整理も出来ない奴は仕事が出来ないのと一緒」だそうで、仕事が終わる時に整理して帰れと五月蝿く言われているためにこんな状態になっている。文房具くらいは置いてあってもいいのではないかと思うのだが、そんなことを言い返せる技量は残念ながら俺には一ミリもない。
気を抜けばため息が零れ落ちそうで、口もとを覆って誤魔化す。パソコンの電源を入れたところで、フロアのドアが開いた。
「皆おはよう」
――元凶が来た!
頭の中でぐるぐるといつも怒鳴る上司に文句を言っていたところで本人が現れた。
危なかった、これ以上イライラしていると知らずに独り言で文句を言ってしまっていたかもしれない。
「高田、何だ出勤したなら早く準備しろ」
「……お早う御座います。分かりました、すみません」
「たく、若い奴らは会社に来てもだらだらとしゃべってばかりだ。ったく、ゆとりが」
――別に誰かとしゃべってません。しかもまだ始業時間でもないですけど! あと、ゆとりをネタにして馬鹿にするのも古いぞ、そもそも、俺、ゆとりじゃなくてさとり世代だし。
何てことは言えるはずもなく、いそいそと文房具とプレゼンの資料を広げて仕事の準備に取りかかる、振りをする。こうでもしておかないとまたすぐに怒号が降りかかるに違いない。確かにプレゼンの準備のために一本早い電車で来た。しかし仕事を始めるには心の準備というものが必要なものなのだ。そうして一度トイレに向かって気持ちを落ち着かせて戻り、やっと仕事を開始した。
ちらりと上司の顔を見る。青鬼、もとい山本課長は今日もお気に入りだという青いネクタイをしてデスクに向かっている。青鬼と呼んでいるのは俺だけだけれども。もちろん口には出さない。
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