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残像
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「朝だ」
掃除をして疲れていたのか、いつの間にか二度寝に成功していた飯塚は、窓から漏れる陽の光で目が覚めた。五時。朝だ。朝が来た。ということは、二人目が完了したということだ。
今回は一人だったから失敗してはいないか、不安になって作業部屋を覗くとベッドが膨らんでいた。竹下は無事帰っているらしい。彼は斧の上で寝ているのか。よく寝られる。飯塚は呆れた。
もう、いい。彼がどんな人間であろうと、あの斧がどの斧であろうと。過去は今に持ってこれやしない。分かっていたはずだ、彼は平然と人の命を奪える側の人間だと。
飯塚が腹を擦る。まともな食事を昨日の昼から取っていなかった。さすがに何か栄養のある物を腹に入れなければ。パンを焼き、ベーコンエッグとレタス。高校生一人の朝食としては十分贅沢だ。きっと一人暮らしだったらもっと手を抜く。竹下が定期的に冷蔵庫を潤沢にしてくれて助かった。
食器を洗っても七時だったので、竹下の分をテーブルに置いて散歩へ出た。
セミの鳴き声がいつの間にかツクツクボウシ優勢になり、夏の終わりを知る。もうそろそろ夏休みも終わりか。去年の今頃はとっくに夏休みの宿題を終え、本屋で買った参考書で勉強をしていた。塾には通っていなかった。
タヌキが川の近くを散歩していた。今の自分は動物と同じだ、飯塚は吹き出した。
「ねぇ、前は子どものタヌキと一緒にいたよね。あの子は近くにいるの?」
話しかけてみたが、タヌキは素知らぬ顔で飯塚を通り過ぎていった。
「だよね」
追いかけたりはしない。タヌキにはタヌキの生活がある。ただ、同じ山に住んでいる、それだけ。
一時間程して戻ったら、リビングに竹下がいた。
「おかえり。ごちそうさま」
「ただいま」
すでに朝食を終えた竹下は、小ぶりの鞄を手にして作業部屋に戻るところだった。飯塚が怪訝な顔をする。
「それって」
「うん。笹沼君の手」
二人目にして、これが竹下の趣味なのだと実感させられた。実に非日常的な、人に知られてはいけない趣味である。山に一人で住んでいるのも頷ける。彼はすでに一度失敗しているから。
「型取りするんだ」
「付ける人はいないのに?」
「うん。趣味ってそういうものじゃない?」
正論だと思った。やっていることは褒められたものではないが、趣味へ向ける姿勢は正しいと感じた。飯塚は今まで夢中になれる趣味はなかった。そこだけは竹下が羨ましい。
「それ、仕事で好きになったの?」
竹下が目を丸くさせて飯塚を見た。そんな表情は初めて見た。
「好きなのかな?」
「そこから?」
これだけ執着して、それが原因で仕事もクビになったらしいのに、今さらその言葉を吐くとは思わなかった。
「聞かれたことなかったから、考えたこともなかった」
「そういうもん? 好きだから続けるんじゃないの?」
「そっか。趣味だとは思ってたけど、好きだったんだ、俺」
趣味について語る友人もいなかったのだと理解する。自分と同じだ。自分はその趣味すら見つけられていないので、竹下以下だけれども。全然違うのに、似ている。竹下は鏡だ。飯塚は悲しくなった。
「もうちょっと自分のこと考えてみたら」
「そうするよ」
竹下に言っていて自分に言っている。周りのことで手一杯で何もしてこなかった。努力もしなかった。無駄だと思っていた。自分に蓋をしていた。もったいない以外の言葉が出ない。
──一つでいいから何かしてくればよかった。
人としての生活が出来なくても、これから暇つぶしの一つでも見つけたい。
そういえば、復讐という蛇足が終わったら、どこで暮らせばいいのだろう。一生この山か。きっとそうだ。身分も無い、金も無い、山を出たら住む場所も無い。一人になった瞬間生きられなくなる。一生竹下に依存するのか。
──嫌だな。
そう思ったけれども、そうしたのは自分だ。責任を他人に押し付けても変わらない。せめて、貧乏でいい、一人で生活出来るようになりたい。
この一年、復讐の為に必死で生きてきた。右手が自由に使えるようになる練習。字を書く練習。そろそろ、自分の為に集中してもいいだろう。
「自給自足とか?」
例えば山の一部を竹下から借りて、野菜を育ててもいいかもしれない。一年間一切の生活費を負担してくれた彼だから、畑分の土地くらい貸してくれそうだ。住む場所はどうしようか。しばらくは一緒にいて、少しずつ、犬小屋みたいなシンプルなものでもいいから、小さな家を畑の横に建てたい。水回り関連については知識が無くて無理なので、ここでも彼を頼ることになる。
結局自立したいと言っても、竹下無しでは有り得ないということだ。残念だが、独り立ちするまでは世話になろう。
作業部屋から聞こえる音を遮断したくて、テレビを付けた。なるべく事件のニュースに関係が無さそうな番組にする。
「懐かしい」
教育アニメがやっていた。小学生の時によく観ていた。登校前と下校後、毎日観ていた気がする。外で遊ぶ友人はいなかったし、幼馴染は部活があって土日しか遊べなかったので、宿題をする以外は全部暇だった。
数年振りな割りに、番組の内容は大して変わらなかった。こんなところで安心する自分がいる。変化を望みつつ、変わらないものがあるとほっとする。自分はちっぽけだ。
「うるさ……」
テレビでも補えない作業音に苛々が増すが、ここは竹下の家だったことを思い出す。どちらがと聞かれれば、飯塚の方が邪魔者である。音量を許せる限り上げた。
「爆音で教育アニメを見る高校生って……そんな日があってもいいか」
いつの間にか煩わしい音にも慣れ、いつもの音量でテレビを楽しめた。賑やかなBGMだと思えばいい。飯塚は鼻歌を歌った。笹沼が殺されたこの日、大可井山は穏やかに過ぎていった。
掃除をして疲れていたのか、いつの間にか二度寝に成功していた飯塚は、窓から漏れる陽の光で目が覚めた。五時。朝だ。朝が来た。ということは、二人目が完了したということだ。
今回は一人だったから失敗してはいないか、不安になって作業部屋を覗くとベッドが膨らんでいた。竹下は無事帰っているらしい。彼は斧の上で寝ているのか。よく寝られる。飯塚は呆れた。
もう、いい。彼がどんな人間であろうと、あの斧がどの斧であろうと。過去は今に持ってこれやしない。分かっていたはずだ、彼は平然と人の命を奪える側の人間だと。
飯塚が腹を擦る。まともな食事を昨日の昼から取っていなかった。さすがに何か栄養のある物を腹に入れなければ。パンを焼き、ベーコンエッグとレタス。高校生一人の朝食としては十分贅沢だ。きっと一人暮らしだったらもっと手を抜く。竹下が定期的に冷蔵庫を潤沢にしてくれて助かった。
食器を洗っても七時だったので、竹下の分をテーブルに置いて散歩へ出た。
セミの鳴き声がいつの間にかツクツクボウシ優勢になり、夏の終わりを知る。もうそろそろ夏休みも終わりか。去年の今頃はとっくに夏休みの宿題を終え、本屋で買った参考書で勉強をしていた。塾には通っていなかった。
タヌキが川の近くを散歩していた。今の自分は動物と同じだ、飯塚は吹き出した。
「ねぇ、前は子どものタヌキと一緒にいたよね。あの子は近くにいるの?」
話しかけてみたが、タヌキは素知らぬ顔で飯塚を通り過ぎていった。
「だよね」
追いかけたりはしない。タヌキにはタヌキの生活がある。ただ、同じ山に住んでいる、それだけ。
一時間程して戻ったら、リビングに竹下がいた。
「おかえり。ごちそうさま」
「ただいま」
すでに朝食を終えた竹下は、小ぶりの鞄を手にして作業部屋に戻るところだった。飯塚が怪訝な顔をする。
「それって」
「うん。笹沼君の手」
二人目にして、これが竹下の趣味なのだと実感させられた。実に非日常的な、人に知られてはいけない趣味である。山に一人で住んでいるのも頷ける。彼はすでに一度失敗しているから。
「型取りするんだ」
「付ける人はいないのに?」
「うん。趣味ってそういうものじゃない?」
正論だと思った。やっていることは褒められたものではないが、趣味へ向ける姿勢は正しいと感じた。飯塚は今まで夢中になれる趣味はなかった。そこだけは竹下が羨ましい。
「それ、仕事で好きになったの?」
竹下が目を丸くさせて飯塚を見た。そんな表情は初めて見た。
「好きなのかな?」
「そこから?」
これだけ執着して、それが原因で仕事もクビになったらしいのに、今さらその言葉を吐くとは思わなかった。
「聞かれたことなかったから、考えたこともなかった」
「そういうもん? 好きだから続けるんじゃないの?」
「そっか。趣味だとは思ってたけど、好きだったんだ、俺」
趣味について語る友人もいなかったのだと理解する。自分と同じだ。自分はその趣味すら見つけられていないので、竹下以下だけれども。全然違うのに、似ている。竹下は鏡だ。飯塚は悲しくなった。
「もうちょっと自分のこと考えてみたら」
「そうするよ」
竹下に言っていて自分に言っている。周りのことで手一杯で何もしてこなかった。努力もしなかった。無駄だと思っていた。自分に蓋をしていた。もったいない以外の言葉が出ない。
──一つでいいから何かしてくればよかった。
人としての生活が出来なくても、これから暇つぶしの一つでも見つけたい。
そういえば、復讐という蛇足が終わったら、どこで暮らせばいいのだろう。一生この山か。きっとそうだ。身分も無い、金も無い、山を出たら住む場所も無い。一人になった瞬間生きられなくなる。一生竹下に依存するのか。
──嫌だな。
そう思ったけれども、そうしたのは自分だ。責任を他人に押し付けても変わらない。せめて、貧乏でいい、一人で生活出来るようになりたい。
この一年、復讐の為に必死で生きてきた。右手が自由に使えるようになる練習。字を書く練習。そろそろ、自分の為に集中してもいいだろう。
「自給自足とか?」
例えば山の一部を竹下から借りて、野菜を育ててもいいかもしれない。一年間一切の生活費を負担してくれた彼だから、畑分の土地くらい貸してくれそうだ。住む場所はどうしようか。しばらくは一緒にいて、少しずつ、犬小屋みたいなシンプルなものでもいいから、小さな家を畑の横に建てたい。水回り関連については知識が無くて無理なので、ここでも彼を頼ることになる。
結局自立したいと言っても、竹下無しでは有り得ないということだ。残念だが、独り立ちするまでは世話になろう。
作業部屋から聞こえる音を遮断したくて、テレビを付けた。なるべく事件のニュースに関係が無さそうな番組にする。
「懐かしい」
教育アニメがやっていた。小学生の時によく観ていた。登校前と下校後、毎日観ていた気がする。外で遊ぶ友人はいなかったし、幼馴染は部活があって土日しか遊べなかったので、宿題をする以外は全部暇だった。
数年振りな割りに、番組の内容は大して変わらなかった。こんなところで安心する自分がいる。変化を望みつつ、変わらないものがあるとほっとする。自分はちっぽけだ。
「うるさ……」
テレビでも補えない作業音に苛々が増すが、ここは竹下の家だったことを思い出す。どちらがと聞かれれば、飯塚の方が邪魔者である。音量を許せる限り上げた。
「爆音で教育アニメを見る高校生って……そんな日があってもいいか」
いつの間にか煩わしい音にも慣れ、いつもの音量でテレビを楽しめた。賑やかなBGMだと思えばいい。飯塚は鼻歌を歌った。笹沼が殺されたこの日、大可井山は穏やかに過ぎていった。
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