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残像

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「ここ」

 見知らぬ天井に、飯塚が辺りを見渡した。しかし動いたのは目ばかりで、顔の一つも動きはしない。竹下がぶっきらぼうに言う。

「道に落ちてたんだ、あんた」
「落ちてたって……いたっ」
「無理して話さない方がいい。死ぬよ」
「死ぬ……!?」

 そこで初めて己の状況を思い出した。飯塚はいつものメンバーに呼び出され、右手首を斧で突かれ、そのまま置いていかれたのだった。ここが天国だとは到底思えない。天国へ行かれる人間だとも思っていない。つまりまだ、生きているということだ。

「貴方は誰ですか」
「竹下。ここの住人」
「そうですか」

 本当に欲しい情報は得られなかったが、これ以上問い詰める権利は無さそうだ。
 それよりも、正直なところ今は体が痛い。右手首はもちろん、その他至るところ全て。

「そうだ。右手!」

 負傷箇所を確認しようとしたが、右手はすっぽりと包帯で覆われていた。それにしても、包まれているところがやけに小さい。

「なに、これ」
「ああ、右手ね。見る? って言っても、川に流されたから取れた方はどこにあるか分からないけど」
「何が?」
「右手が」

 そう言われて、やんわり包帯を撫でられた。つまり、そこに右手はもう無い、と。そういうわけだった。言葉は理解出来ても、実感が湧かず、何故そうなったのか想像もつかない。だって、先ほどまではあったのだ。血は出ていたが、切り落とされたわけではなかった。気を失った後、実は傷が深くて、切れて落ちてしまったのだろうか。そして、運悪く右手は川へ。不運にも程がある。長い間虐められ、挙句の果てに右手を失って死にかけるなど。

「運が良いね」
「良かったら、ここにはいないですけど」
「あはは、確かに」

 竹下は軽快に笑った。飯塚は、まるで自分で転んで擦りむいたのかと思った。転んでも、立ち上がるための右手は無いけれども。

 相手があまりに落ち着いているものだから、飯塚は予想外に右手の不在を受け入れていた。自分でも驚いてしまう。

「水、飲んで」

 竹下がペットボトルを投げた。飯塚が放物線を眺め、睨む。

「手が無いのに」
「左手がある」
「痛いです。全身」
「我儘な奴だね」

 そう言いつつ、竹下はペットボトルを開け、コップに水を移す。そして、驚く程慎重に飯塚の体を起こした。飯塚が小さく悲鳴を上げる。

「い……ッ」

 体を支えたくても、右手は機能してくれず、どうにか上半身を前に折り曲げてバランスを取る。左手でコップを受け取り、一気に飲み干す。

「死なないとは思わなかった」

 こちらに目を向けず、竹下が呟く。飯塚自身、そう思う。手首を切り落とさずとも、ある程度切っただけで人は死ぬ。それならば何故。包帯をぐるぐると巻かれたそこを見遣る。

「止血の真似事が上手くいったらしい」
「それは有難う御座います」
「あんたの為じゃない」
「そうですか」

 自分の為ではないのなら、竹下自身の為なのだろう。どんな理由があるにせよ、飯塚は助けられた。それだけだ。明らかに人の手によって怪我をした人間を発見したのに通報しなかったのも、同じだろう。

 水分を取り終え、もうすることが無くなった。竹下の背中を観察する。薄汚れた服が小刻みに動く。聞き耳を立てずとも、何やら物々しい音が流れてきた。

「何してるんですか?」

 尋ねるが返事は無い。彼にしてみれば、飯塚は歓迎しないイレギュラー。会話を楽しんでくれると思う方が不自然である。

 そういえば、竹下は何故飯塚を自宅へ運んだのだろうか。病院に連れていくか救急車を呼ぶなりした方がはるかに面倒ではないはずだ。ただ、通報はされたくなかったので、そこは安心した。竹下を信用したわけではない。

 親は飯塚が帰らないことに気付いて、今どう思っているだろう。悲しんでいるか、家出だと軽く考えているか。ふいに、竹下が答えた。

「俺の趣味に付き合ってもらうことにした」
「趣味……?」
「それ、不便だろ」

 竹下が振り向いて飯塚の右手を指差した。飯塚が傷口を撫でる。まだ痛む。

「不便って、まあ、手術したらきっと」

「元には戻らない。時間が経ちすぎているし、右手は川に沈んでそれきりだ。それに、あいつらはお前が死んだと思ってる」

 そう言われるとそうだった気がする。右手から大量の血が溢れ出て、このまま死ぬのだろうと実感した。その時、さすがに事の重大さを認識した連中が慌てて逃げ出すのが見えた。ああ、ここまでか、そこで飯塚の記憶は途絶えている。結局、自分の右手は千切れてしまった。

──そっか、戻らないんだ。私の手。

 ぽっかり心に穴が開いてしまった。竹下は気にせず話を進める。

「俺が川に半分落ちてるあんたを引っ張り上げた」
「なんで」

 本当に何故。わざわざ、川に落ちかけていた死にかけの厄介者を懐に入れる程の趣味とは。飯塚の体温が冷えた頃、竹下が正解を差し出してきた。

「手」

 竹下の手の中に、誰のものでもない手が載っていた。竹下が頷く。

「そう。義手だよ。義肢装具士だったんでね、問題起こしてクビになったけど。今だって誰かの義肢を作りたくてうずうずしてる」

 なるほど。義手を持って笑う村木に、どんな問題かなんとなく想像が付いた。おそらく法に触れる何か、なのだろう。こんなことをしていて近所の住民に奇異の視線を送られているのではないか。そういえば、この家はどこにあるのだろう。窓の外を眺め、まだここが山の中だということを理解した。

「私に義手を?」

 本音を言えば、義手を付けるにしても、病院に行って適切な手術を受けたい。ただ、あの親がしてくれるかは分からない。いつも無関心な飯塚の親。それに、この男の言う通り、自分は今彼らの中で死んだことになっており、世間では行方不明者になっているはず。

 自分という存在を一度ゼロにして生まれ変わりたい。常々考えていた。

 不幸ではあるが、またとないチャンスにも思えた。

 今こそ彼らに復讐出来るのではないか。死ぬより辛い毎日を送らせてくれた彼らに。あとは、自分ではない誰かがこの気持ちを肯定してくれるならば。

「最近、誰かに装着していなくてつまらないんだ。やっぱり新鮮な体に着けないとね」
「それを着けたとして、病院に行かない私はどうなります」

「そりゃあ、死亡した人間になるんじゃない。行方不明のままなら七年後、それか体の一部でも見つけてくれたら、もしかしたら明日にでも」
「へえ……それは」

 飯塚が薄暗く笑った。
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