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番外編
騎士、極東にて
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シュバリエが「太白」の名前を授かって、片手指ほどの年が経ちました。
彼女は今日もパリッとアイロンをかけた新聞とブレックファストティー、オムレットなどの朝食をワゴンに載せて、皇帝の書斎に向かいます。
コンコン。
「陛下、朝食をお持ち致しました」
「入れ」と大きな扉の奥から聞こえます。
扉を開ける前に、ひと言「失礼致します」ともう一度声をかけるのも忘れません。
書斎にある、立派な革張りの椅子は、窓のほうを向いていて、陛下の御姿を目にすることはできません。
「陛下」
騎士が声をおかけすると、革張りの椅子がくるりとこちらを向きます。
陛下はアームレストに肘を置き、少し眠たげに頬杖をついています。
その髪は黒く、無造作に前髪が下ろされています。前髪から覗く眼はとてもきれいな蒼です。
「おはようございます、陛下」
朝から陛下の真の御姿を目にできた騎士は、嬉しさを隠しきれません。
くすりと口元を綻ばせながら、ゴロゴロとワゴンを執務机の側に付けます。
今現在この国で発行されているすべての新聞を、毎朝陛下はチェックします。
その新聞たちのうちのひとつを陛下に手渡すと、
「今日のブレックファストティーは、アッサムをベースにしたブレンドでございます。飲み方はいかがされますか?」
と、用意した紅茶の飲み方を御伺いします。
「ストレート」
ぶっきらぼうにそう言う、今日の陛下は朝に弱いようです。
「角砂糖はふたつ、ですね」
騎士はもちろん、主の好みの砂糖の量も知っています。
早速紅茶をいれ始める騎士と、ぺらりぺらりと新聞を読んでいく陛下。
そんなとき、
「あぁ、そういえば太白よ、今日は其方に話がある」
ぺらり、陛下は眠たそうにまた新聞を捲ります。
「いかがなさいましたか、陛下」
紅茶をいれる手を少し止めて、騎士は尋ねます。
「何やら最近、極東の地で「日本」という国が勢力を伸ばしているそうだ。其方は知っておるか?」
「ええ、まあ噂程度ではありますが……。あちらでは騎士ではなく「サムライ」という剣士がいたり、「ニンジャ」という諜報・暗殺部隊がいたりするのだとか」
「うむ、その「日本」だ。これまで「鎖国」という、他国との関係を最小限にしていた状態から、広く門戸を開き、近代化・富国強兵に努めているらしい」
「なるほど」
「我が国も一応、日本の動向は気になるところだ。果たして固く閉じられていた箱庭の中身はどうなっているのか」
にやりと陛下の口元が歪みます。そのような表情も素敵だなぁとしみじみ思う騎士なのでした。
紅茶の蒸らし時間が終わり、ポットの中の紅茶を軽くひと混ぜします。
あらかじめ温めておいたカップに茶こしを使いながら、紅茶を注いでいきます。
ベスト・ドロップが水面を揺らしたそのとき。
「そこで其方には、いち外国人として、日本を視察してきてもらいたいのだ」
ピシャーーーーーーン。
騎士に衝撃が走ります。
「え」
衝撃のあまり、持っていたポットを取り落としそうになったので、慌てて持ち直し、ワゴンの上に置きました。
「あの、失礼ですが、もう一度……」
聞き間違いではあるまいかと、いま一度陛下にお尋ねします。
「其方に、日本へ、渡ってほしい」
陛下は噛んで含めるように、ゆっくりと言い渡します。
数秒固まった騎士は、ハッと我に返ると、静かに、しかし素早く陛下のおられる革椅子のすぐ側に付きます。そしてスっと跪き、
「嫌です」
陛下の蒼い瞳を見つめながら、キリッとキメ顔で言ったのでした。
「私が陛下の御側を離れることを諾とするとでもお思いですか!!!!」
「『黒薔薇の騎士』が陛下の御側を離れるだなんて言語道断です!」
「だって日本ですよ、日本!!! 渡航するだけで往復三ヶ月! それに現地での調査を加えるともう半年とかじゃないですか!」
「半年ですよ!? 六ヶ月ですよ!? 一年の半分ですよ!? 毎日陛下のそれはそれは素敵な御尊顔を拝見できることこそ私の生きる活力なのに! です!!」
「陛下の御側にいられない半年とかそんなものは無価値です無意味です!」
「それに!! 陛下のことで頭がいっぱいで調査とか絶対に無理ですよ!」
嫌です無理ですと、騎士は一気に捲し立てます。それはもう怒涛の勢いです。
「陛下御身の回りのお世話は誰がやるって仰るんですか! どうせ先生辺りだと思いますけど! 御身のお世話をするのは私の役割です!!!!」
「あ、そうだ、先生を日本に送り込みましょう! そうだ、それがいい、調査は先生のほうが絶対に上手ですし!」
「そうと決まればすぐに先生にお伝えしなくては」
善は急げと、書斎の扉へ向かいます。
「待て待て、太白よ。話を聞きなさい」
陛下の御言葉に、騎士は脊髄反射レベルで停止、そして瞬く間に陛下の側へ舞い戻ります。
「鞭を惜しむと子供は駄目になるとも言う。太白、其方は立派な我の『騎士』である。故に、能力的にも知識的にも、要求されることは常に膨大だ。其方はまだこの国を出たことがなかろう?」
「はい。生まれて此方、我が国から出たことはございません」
「そうであろうよ。だから、今回の視察なのだ」
「と、言いますと」
「其方の名に由来のある中国には、「井の中の蛙大海を知らず」ということわざがある。其方はまだこの国のことしか直接見聞きしておらん。己の五感すべてで、外つ国を観察してくるがよい」
「む、むむむむ……」
そんな優しそうな眼差しを向けてくださるのは狡い、と騎士は思いました。
赤髪紅眼の御姿もキリリとして素敵だけれども、黒髪蒼眼の御姿も大層素敵なのですその御姿を私だけが見ることができるというのも大変物凄く嬉しいポイントなのですがいつもと違い下ろされた前髪の隙間から覗く蒼く思慮深い眼差しはお優しく艶やかな黒髪が何とも言い難い妖艶さを湛えていて……と、騎士は如何に陛下が素敵か素晴らしいかを並べ立てていく己の思考に没入していきます。
「幾倍にも成長した其方の姿を、我に示しておくれ」
そのひと言で、騎士は陥落しました。
はぁぁぁぁぁぁと長い溜息が部屋に響き渡ります。
騎士が何をしているのかというと、日本についての勉強なのでした。
もちろん先生はヨーデルです。
黒薔薇に至るも、今でもヨーデルには頭が上がりません。
日本の言語、文化、歴史など……視察の前に頭に入れておかなくてはならないことはたくさんあります。
「まず、日本語には、平仮名・片仮名・漢字と三種類ある」
「その三種類の文字の組み合わせで言葉が構成されているということだな」
「漢字は数が膨大なため、後回しにする。まずは平仮名片仮名五〇音ずつ、速やかに覚えろ」
今日も先生のスパルタは絶好調です。
何故ヨーデルが日本語もできるのか、何故日本について精通しているのかは謎です。ヨーデルはとても優秀なのでした。
「何故五〇音も……子音は少ないくせに……うぅ」
と、騎士はボヤきます。
「ボヤいている間に一字でも覚えろ」
やはり先生は絶好調なのでした。
そんなこんなで陛下に極東視察を下命されてから数ヶ月が経ちました。
その間、日本についての知識習得の如何を陛下に尋ねられる度に、必死に眼を逸らしながら「五〇音も覚えるにはなかなか……」とか、「サムライの名前が難しく……」とか並べます。
騎士はどうにか少しでも視察を先送りにしたくて堪らないのでした。
「本当に私が離れても、陛下は大丈夫なんですか」
ある日の書斎で、ついつい仏頂面になってしまう騎士です。その姿は我儘を言う幼子のよう。
「まあヨーデルがおるからのう……」
繰り返しますが、元青薔薇の騎士は大変優秀なのでした。
「っ……陛下は私が御側にいなくても平気なんですね!!!! うわーーーーーーん」
そう言うと、仕事も放り出して脱兎のごとく書斎から飛び出していきました。
それを見て、やれやれまったく、と革張りの椅子から立ちあがる陛下を、目にする者はおりませんでした。
くすんくすんと泣きながら騎士が向かった先は図書室でした。
王宮へ迎えられてから、ヨーデルの授業以外の時間の多くをここで過ごしました。ここにはたくさんの物語があり、叡智があり、何も知らなかった騎士にとってここは、広い広い知識の海でした。潜れば潜るほど、いつだって新たな発見と興奮に包まれたものです。それ故に、今でも紙とインクの匂いに安心を覚える騎士なのです。
ヨーデルにこっぴどく叱られた日や、何かやらかしてしまった日、書架の間の薄暗い空間で小さく座って静かに泣くのが、騎士の候補生時代からの慣例でした。
しかし、陛下の『騎士』となって以降、そこを使う機会もありませんでした。
それでも騎士は今、久方ぶりに、ひとりの少女のように、書架の間の奥まったところで膝を抱えていました。
(陛下は私が御側にいなくても平気なのですね……)
じわりと視界が滲みます。
もうお前は不要だと言われたように感じました。
どこまでも、永遠に御護りすると誓ったのに。
いくらでも代わりはたてられると言われたように感じました。
私をあちら側への供として受け入れてくださったのに。
騎士の心はどんどんと堕ちていきます。それは永劫続く兎の穴のよう。
うぅ、とまた暗い思考の渦に流されようかというとき、
「やはりここであったか」
聞き間違うはずもない、それは己の主のお声でした。
パッと顔を上げると、右の書架に片肘をついて、身を屈め、こちらを覗き込んでいる陛下がおりました。
「其方が泣くならここであると決まっておるからな」
何故と問う前に答えが提示されてしまいました。
「紙とインクの匂いは安心するからのう」
ぽんぽんと頭を撫でられます。
その大きくて優しい手に、騎士は静かに、しかし大粒の涙をぽろぽろぽろぽろ零します。
「別に我は其方が要らぬと言っておるわけではない。あの日、其方を離す気はないと言ったであろう?」
こくりと騎士が頷きます。
「あの日誓ったのは其方だけではないのだ。我々の間の契約は永劫よ。我らの身がいつの日か、朽ち果てるまで」
さらりと、騎士の透明に近い白髪を優しく撫でます。その手つきが、どれほど愛おしそうであるのかを、騎士は知りません。
「太白」
その御眼に浮かぶのは、とてもとても深い慈愛です。
騎士は、大切な大切なその名を陛下に呼んでいただく度に、何か温かいものが胸に広がるのを感じます。その温かさにまた、涙がぽろぽろと溢れるのでした。
「この国を離れられない我に代わり、その眼で、その耳で、日本を見てきてほしい。我の耳目になっておくれ」
我の我儘ですまないな、とそんな風に言われてしまえば、もう騎士は決めるしかありません。これは最早「命令」ではなく「お願い」であったからでした。
陛下の「お願い」を受け入れてからは、早いものでした。できないできないと言っていた日本語と日本の知識をさっさと頭に叩き込んで、荷造りをし、船の乗船券を手配します。もちろん乗船券の名義は架空のものです。今回は一応「一般外国人」としての訪日なのですから。その辺は抜け目がありません。騎士は、やればできる子なのでした。
日本へと渡る豪華客船へ乗り込むその日、陛下とヨーデルがお忍びで、港まで見送りに来てくださいました。
騎士は王宮を出発するギリギリまで陛下の説得に挑みましたが、陛下には敵いませんでした。ヨーデルも一応陛下を御止めしましたが、それはあくまで形だけのものでした。
騎士は、見送りをしていただけるのはとてもとても嬉しい反面、陛下に港まで足を運んでいただくなどとんでもないという気持ちでした。
「あぁ、陛下、我が君。そんな、こんな港まで来ていただけるなど、この身に余る光栄……」
思わず跪こうとする騎士を陛下が止めます。
「こらこら、其方が跪けば余計な人目を集めよう」
「はっ、配慮が至らず、申し訳ありません」
目立たない程度に頭を下げます。
「この旅路で、其方は初めてのものに多く触れ、見識を広めることに繋がるだろう。次に会う時を楽しみにしておるぞ」
「はい! 先生も、陛下のことをよろしくお願いします」
「貴様に言われずともそのつもりであるから安心するがいい」
ヨーデルの言葉に少し苦笑いを零した騎士は、陛下たちに背を向け、船へ向かいます。
「シュバリエ」
そんな騎士の背中に陛下がお声を投げます。
「其方の戻るべき場所は分かっておるな。戻らぬことは決して許さんぞ。いいな」
振り向き、その御言葉を聞いた騎士は、胸が温かくなる思いで、
「はい、行って参ります!」
と大きくひと声、ひとつ手を振り、船へと消えていったのでした。
無事港を出航した豪華客船の一等客室のなか、騎士は懐から一枚の紙を、荷物から写真立てを取り出します。
騎士が懐から出したのは、一枚の写真でした。
それは、騎士が肌身離さず持っている写真でした。
騎士が『騎士』になったときに、陛下と御一緒に撮らせていただいた写真でした。
(陛下……)
写真のなかの陛下の御姿をそっと撫でます。
これから半年、お会いすることができない陛下に思いを馳せます。
『この国を離れられない我に代わり、その眼で、その耳で、日本を見てきてほしい。我の耳目になっておくれ』
そう、陛下は我が国を離れることができない。だから私がすべてを見、感じてくるのだ。
むんっと気合いをひとつ、写真立てに写真を入れ、そっと机に置きました。
船での往路も半ばを過ぎたころでした。
騎士はベッドでごろりと寝返りをうちました。
(眠れない……)
自国の港を出てからこちら、眠れない日は少なからずありました。そんなときは、適当に強い酒をあおって、無理矢理に寝付くのでした。
しかし、今日はそんな気も起きません。
ふらりと船の甲板に出ます。
潮気を含んだ夜気は、思っていたよりも心地の良いものでした。
柵に腕を預けながら、騎士は思います。
(もうずっと陛下のお声を聞いていない……御姿は、あの写真があるけれど……)
黒く闇に沈んだ海を見ながら考えます。
(日本へ行って帰ってくるまでにはおよそ半年……まだその行程のほんの少ししか過ぎていないというのに)
最初のころこそ、生まれて初めて見る海に少し興奮を覚えたものの、海の景色はあまり代わり映えしません。すぐに飽きてしまったのでした。
(陛下……今頃はどうしていらっしゃるのでしょう。あぁ、陛下にお会いしたい。今すぐこの眼に御姿を焼き付けたい。お声を聞きたい)
騎士は完全に陛下ロスに陥っていたのでした。
「やぁ、どうもこんばんは。お嬢さん」
その声に、騎士は反射的に戦闘態勢に入ります。
何故なら。
(今、気配がなかった。何か近づいてきたら絶対に分かるはずなのに)
いくら陛下ロスとはいえ、そこは黒薔薇の騎士ですから、周囲の警戒は怠っていませんでした。
(それにこの声……まさか)
人影が、ずるりと影から出てきます。
「そのまさか、さ。いやぁこんなところで会うだなんて、嬉しいなぁ」
不倶戴天の仲である、ユール・タマージュが、そこには居たのでした。
(事前にチェックした乗客リストにこいつの名前はなかった。ということは……)
「今回は別の名前を使っているのだけどね、キミのことだ。事前に乗客のチェックはしたんだろう? でもまだ詰めが甘いねぇ。僕のような人間はいくつも名前を持ってることぐらい予想できるだろうに」
にこにこと、ゆっくりこちらへ歩み寄ってきます。
今騎士は、護身用のナイフ一本しか装備がありません。
(くそ、ナイフ一本じゃ心許ないな……)
じり、と後退してしまいます。
「ほんとにあの貧民街の子が、黒薔薇まで登り詰めるとはねぇ。僕としても鼻が高いよ。今は確か……そうだ、シュバリエだったかな。シュバリエ・ロゼルタ」
「貴様が、その名を気安く口にするなよ……!」
騎士が低く唸ります。
彼女の名前は、陛下から賜った大事な大事な宝物なのです。
「おぉ怖いなぁ。今は僕ひとりだから、そんな風にされると恐ろしくて泣き出してしまいそうだよ」
などと思ってもいないのが丸分かりのことを言います。
「あ、でも黒兎はこっそり連れてきたのだった。そうだそうだ。まあしかし彼女は「 」だからなぁ」
ふいに吹きつけた海風で彼の言葉の一部は聞き取れません。
「そんなに警戒しなくても、ここでは何もしないよ。ここでは、ね。どうせ日本に着くまでずっと海の上、密室状態なんだから、そんなところで事を構えるのは僕でも嫌だよ」
そう言って、男はへらへらと笑うのでした。
それでも騎士は警戒を解くことはありません。
「まぁお互い背後に気をつけながら海の旅を楽しもうじゃないか」
じゃあね、とひと言言い置いて、くるりと身を翻し、ユールは出てきたときと同様に、気配を殺したまま、去っていったのでした。
彼が去ってから、たっぷり三〇秒は数えたでしょうか。
「ふーーーー…………」
詰めていた息を吐き出します。
それでも男が去っていった方向への視線は外しません。
嫌な汗が、背中を伝うのが分かります。
周囲をいつも以上に警戒しながら客室に戻るも、その夜は一睡もできなかったのでした。
自国の港を出航して約三ヶ月。
もう少しで日本の海の玄関口、「ヨコハマ」というところに着くようです。
解いていた荷を再び纏めながら、騎士はひとりつぶやきます。
「はぁ……大丈夫かな。優しい人が多いといいのだけれど」
写真立てに入れていた写真も、取り出して大切に懐へ。
「ご乗船の皆さまにお知らせ致します。本船は、まもなく「ヨコハマ」に到着致します」
繰り返されるアナウンスのなか、騎士は
(どうやら、そろそろ私も腹を括らなくてはならないらしい)
と思いました。
まだ腹を括っていなかったのかというツッコミをくれる人は、側にいませんでした。
そうして、騎士はついに、生まれて初めて、他国の土を踏むのでした。
ヨコハマに降り立った騎士は、まず外国人の多さに驚きました。
港で力仕事に従事している屈強な男たちを指揮している人のほとんどが、明らかにアジア系の顔かたちをしていません。
(近代化が進んでいくなかで、技術的指導力が必要とされたのかな……。これが「お雇い外国人」というやつか)
ふむふむ、と周りを観察しながら歩いていると、すれ違う人々がチラチラ騎士を見、遠巻きにこちらを見ているらしき視線も感じます。
最初は自分の服装に何か問題があるのかしらんと考えました。しかし、今の服装は自国から着てきた普通のスリーピースのスーツです。男装をしているので、女性に見られないように胸をサラシで潰している以外は、おかしな着方もしていないはずです。
うーむと騎士はヨコハマの街並みを横目に歩きながら考えます。
そして、ハッと気づきました。
こちらに視線を投げてくる彼ら彼女らの視線の先にあるものは。
果たして、騎士の透明に近い白髪なのでした。
日本人、またはアジア系の顔立ちからして、黒髪黒眼が基本であると教わりました。
そして自国のなかでも、プラチナブロンドやブラウンは多くとも、白髪は大変に珍しいのでした。
(これは良くないな……どこかに帽子屋でもないものか)
地図は一応持ってはいるものの、どこにどの店があると書いてあるわけもありません。
現地の人間に聞くしかないかと、適当な人を探します。
よし、(話を聞いてもらえそうな)第一日本人発見、となりましたのは、木陰のベンチで談笑していたふたりのご婦人方でした。
そのご婦人方も例に漏れず、騎士のほうをチラチラ見ていました。
これを利用しない手はないと、騎士はご婦人方に近づきます。
「もし、麗しいご婦人方。少しお聞きしたいことがあるのですが」
ふいに近づいてきて、流暢な日本語を話す騎士に、ご婦人方は呆気に取られてしまいました。
騎士は、己の容姿が女性に有効であるとよくよく知っているのでした。
「もし? いかがされましたか?」
と、ぼぅっとしていたご婦人方にもう一度優しく声をかけます。
ご婦人方は、やっとのことで状況を飲み込めたのか、
「あ、あら、外国の方が私たちに何のご用でしょうか」
と片方が言いました。
その頬が少し赤らんでいるのを見逃す騎士ではありません。
「手頃な帽子屋を探しているのですが、ついさっき日本に着いたばかりで……」
ここでしゅんとした雰囲気を醸し出すのも忘れません。
「それはさぞ不自由なさっていることでしょう……。私たちでよろしければご案内させていただけません?」
先ほどとは違うほうのご婦人がそう言います。
「いえ、そんな、ご婦人方にお手間をおかけするわけには……」
きちんと一度は遠慮しておきます。
「手間だなんて……ちょうど私たちも暇を持て余していたところでしたのよ」
ねぇ、とふたりのご婦人は肯定しあいます。
騎士はそういった答えが返ってくるのを予想していました。
「では、ありがたくお言葉に甘えさせていただきます」
そして困り眉で微笑をすれば完璧です。これで騎士に落ちなかった女性はいません。
ご婦人方に連れていかれたのは、明らかに外国人向けに構えられた小さな帽子屋でした。
本来ならここでご婦人方とお別れするはずでしたが、ご婦人方の勢いに押されるまま、店内までずるずると引っ張られてしまいました。
適当に選んでさっさと店を出るはずが、ご婦人方にあれもいいこれも似合うと、人形遊びが如く、帽子を被せられては変えられ、被せられては変えられを繰り返していました。
嵐よ早く過ぎ去ってくれと願ってから小一時間ほど経ったでしょうか。ようやくご婦人方の納得する帽子が決まったようです。
それは、モスグリーンの生地に、紺色のリボンがあしらわれた中折れ帽でした。
勢いに押されたとは言え、帽子を選んでくれたご婦人方それぞれに造花があしらわれた帽子をプレゼントし、騎士はようやっと解放されたのでした。
(ご婦人方の押しが強いのはどの国も同じか……)
と、少しくたびれながら騎士は思いました。
港近辺を離れ、繁華街に向かう道すがら、騎士は考えます。
(やはりサムライ、はいないか)
日本人男性らしき人々は、皆、背広を着ています。着物に袴姿で帯刀している人などどこにも見当たりません。
騎士は少しだけ残念な気持ちになったのでした。
ところでどうして、この日本という国はとても暑いのでした。何せ湿度が高い。海の近くということを除いても大変に湿度が高いのです。暑さが質量を持って体にへばりついてくるようでした。
限界だと思った騎士は、スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖を捲ります。
それでもジリジリと照る太陽は容赦なく騎士を襲います。歩いていると汗が滝のように体を伝うのが分かるのです。
(我が国ではここまでの湿度はないぞ……)
と心のなかで愚痴を言いながら繁華街へと頑張って歩むのでした。
ようやく繁華街へ入ってきたなと思っていると、グゥと腹の虫が起床を伝えてきます。
たしかに朝食以降食事を取っていない上に、水分も取っていませんでした。
出自のおかげで空腹には慣れているとはいえ、さすがにこれはまずいと思い、道行く男性に声をかけます。
「もし、そこのミスタ。この辺りにテンプラを食べられるお店はありませんか?」
話しかけられた男性は、見た目が完全に外国人である騎士から流暢な日本語が出てきたことに驚いて、一瞬固まってしまいました。それでも丁寧に、天ぷらを提供するお店への道順を教えてくれたのでした。
ちなみに何故天ぷらなのかというと、ヨーデルが日本に行ったら一度は食べてみたいということを零していたからでした。
天ぷら屋さんまでの道を教えてくれた男性は、
「俺も仕事帰りにはよく行くんだ。旦那みたいな綺麗な外人さんだと大将もきっとまけてくれるよ」
と言いました。
「大将」? 「負ける」?
騎士にはなんのことだかさっぱり分かりません。
(この国は食事を取るのに決闘をするのか? しかしレイピアは置いてきてしまったし……。護身用のナイフならあるが、うっかり殺してしまいかねないからなぁ……。まぁ最悪素手で殴ればいいか)
なかなか物騒なことを考えています。
そんなことを思っていると、お店の前に到着しました。
少しだけ緊張と警戒をしながら店内に入ります。
「いらっしゃい————っと、おや外人さんだね」
「あ、はい、ちょっと旅行に来ていまして」
非公式の訪問です。素直に「視察」とは言えません。
「ここに来ればテンプラが食べられると聞いたのですが……」
「おうとも、ここは天ぷら屋だからな!」
店の主らしき男性は呵呵と笑います。
カウンターの内側には、日本の料理を作るときに使うナイフ、ホウチョウがちらりと見えます。
(やはり店主と決闘をして勝たねば食事にありつけないのか……?)
それにしても旦那、日本語が上手いねえと言っていた店主が、騎士の視線の先に気づきました。
「どうしたい? なんか気になることでもあるのかい」
と聞いてくれました。
なので、先ほど考えたことをそのまま店主に伝えたのでした。
「フッ、ハハハハハ、それは大層怖かったろうに。その人も悪気はねぇんだろうが、外の国の人間にはそう思われても仕方ねぇわな。そうさね、「大将」は「オーナー」。店主のことだな。「まける」は「ディスカウント」。これでどうだい」
なるほど、騎士は盛大な勘違いをしていました。
「さぁ、誤解も解けたようだし、さて、何を揚げようか。外の人間なら「つくり」は無理だよなぁ?」
「つくり」。また騎士の知らない単語が出てきました。
「あの、「つくり」とはなんでしょうか? すいません、これでも日本語は勉強してきたのですが……」
「あぁ、いいよいいよ、気にするない! 魚を捌いて、生で食うっていうのがこの国の食文化なのさ。確かに天ぷらも美味いが。生の魚には敵わないねぇ」
「生魚ですか。それなら大丈夫です。昔色々ありまして、生の海産物を食べることもあったので」
胃袋の丈夫さには自信がありますと胸を張ります。
「へぇ、旦那にも色々あったんだねぇ。昔を思い出しちまうなら、「つくり」はやめておくかい?」
「いえ、興味がありますので。タイショー、お願いします」
「よし、わかった、ちょっと、待ってておくんな! その間に日本酒をっと……サービスだ、飲んでくれ。他の客には内緒ですぜ?」
そう言って、大将はイタズラっぽく笑うのでした。
騎士はせっかくなので、出された日本酒を飲むことにしました。
「あの、タイショー。この小さなカップはなんですか?」
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。日本酒ってのは度数が強いもんで、この「おちょこ」ってので少しずつ飲むんさね」
ふむふむとおちょこに日本酒を注ぎ、チビチビと飲んでいますと、「つくり」が出てきました。
思っていたよりも美味しそうな見た目に、唾液が口に広がります。騎士は早速箸(もちろん持ち方はヨーデルに教えてもらいました。彼はとても優秀なのです)で食べようとすると、
「ああ、待った待った。「つくり」はね、この「醤油」と「サビ」で食うんだ」
ショーユ……たしか大豆を発酵させて作る調味料のひとつだったか……。サビは……なんだろう、緑色だけれども。
首を傾げたまま、停止している騎士に、
「まあまあ、食ってごらんよ」
と大将が勧めます。
醤油とサビをつけたつくりを、箸でひとつ頬ばります。
その瞬間。
「ゲホ!! エッホ、ゴホッゴホッ」
盛大に噎せました。慌ててお茶を含みます。
それを見て大将が呵呵と笑います。
「ケホッ、あの、これは一体……」
騎士は毒でも盛られたのかと訝ります。
「すまねぇすまねぇ。外国の人の反応が見たくてなぁ。それは「わさび」だよ」
「わさび……」
辛い、と素直に表現していいものか、騎士は悩みました。
唐辛子などの辛さとはまったくの別物だったからです。
ツーンと鼻にくる辛さは、唐辛子などにはありません。
(どちらかというとマスタードのような……)
少し落ち着いたので、今度は少量、つけて口に含みます。
今度は噎せずにすみました。
それどころか。
(なんだろう。この味は。魚自体に味付けが施されているわけではないのに、どんどんと箸が進む)
「お、どうやら気に入ってくれたようだね」
わさびに順応した騎士を見て、大将も嬉しそうです。
騎士はふと気づきます。
「この「つくり」というのは素材の味を活かしたまま、「ショーユ」と「サビ」で食べるから美味しいのですね」
「そうだよ、よく気がついたもんだ。いやぁ、外の人はあまり生の魚を食べたがらないから、なかなか話すことはねぇんだが、旦那の言うとおり「醤油」と「サビ」で「つくり」の味は決まるのさ」
(ふむ、日本の食事情というのは実に興味深い。一般人でも生の魚を食べるのか)
つくりをひと通り堪能した騎士は、
「大変美味でした」
と言い、
「テンプラもよろしくお願いします」
と大将に告げたのでした。
まだ食べるのかと、一瞬大将は呆気に取られましたが、また呵呵と笑い、色々な具材を天ぷらにして出してくれたのでした。
「タイショー、今日はありがとうございました。どれも大変美味しかったです。祖国に戻った際の良い土産話ができました」
「おいおい、嬉しいことを言ってくれるねぇ! 今日はまけておくよ! またいつでも来ておくんな!」
お腹いっぱいになった騎士は、ほくほく顔で繁華街を先に進みます。
……騎士さん、騎士さん、そんなお顔をしてますけどちゃんと視察してくださいね。
ヨコハマから、トウキョウに移動した騎士は、皇居や国会議事堂、寺社仏閣、鹿鳴館などの社交場等々、日本の中枢にある施設をできる限りたくさん見学しました。
今回騎士は、ひとりの外国人観光客なので、入れないところももちろん多くありました。それでも日本という国の性格を知るには、とても役に立ちました。
ヨコハマに降り立ってから、ひと月と少し経ったころ、騎士はトウキョウから、その昔政治の中心であった都が置かれていたキョウトに移動しました。
キョウトはトウキョウとはまた違い、特に寺社仏閣の数が桁違いでした。
キヨミズ、ヤサカ、ロクオンジなどなど……騎士はこれが「ワビサビ」かと学びました。
またトウキョウと違う点は他にもありました。緑の量が圧倒的に多いのです。行く先々で季節の花が咲き乱れ、木々は青々とその葉を揺らします。草木の生い茂る匂いに、何故か、郷愁に駆られたのでした。
街を行くと、チリン、チリンとどこからか涼しげな音もします。それは「フウリン」という、音で涼を取るものなのだと、騎士は後から知りました。
何よりも驚いたのは、人々が川の上に高床式で床を作り、そこで涼を取りながら、食事やお酒を楽しんでいたことでした。
騎士もおっかなびっくりその「ノウリョウユカ」とやらの上で食事を取りました。するとどうでしょう。川の上であるために、大変涼しいのです。日本人は合理的だなと感じたのでした。
さてキョウトでももちろん情報収集はしなくてはなりません。観光に来たのではないのです。美味しい料理とお酒をめいっぱい楽しんでいる騎士ですが、観光に来たのではないのです。
情報収集とくれば、やはり社交界でしょうかと思い至った騎士は、近場のカフェーに入ります。社交界が行われている場所は、地元の人間に聞くのが手っ取り早いという考えでした。
席に着いて、コーヒーを頼みます。コーヒーが運ばれてくまでには時間がありました。そこで、働いている女性に社交場のことを聞くことにしました。
「すいません、そこのレディ」
と、声をかけると、ふたりの女給さんがこちらを振り返りました。
一方は、黒い髪を肩ぐらいで切り揃え、もう一方は黒い髪をふたつ結びにしています。騎士が驚いたのは、ふたりが瓜二つの顔をしていることでした。
そのとき騎士の脳裏に過ぎったのは、陛下のことでしたが、まさかこのような街中で働いている女性に、影武者も何もないだろうと思い直しました。
「何かご用でしょうか?」
騎士が彼女らが瓜二つであることに驚いて声を続けそびれていたので、女給さんに訝しがられてしまいました。
「あ、いえ、失礼、僕はアルヴィスといいます。ええとミス……」
「うめかです」
と、髪の短いほうの女性が答えます。
「私が足利うめか、彼女は妹のてふこです」
うめかさんの紹介に、てふこさんがぺこりと会釈をします。
アルヴィスという名前は、今回の視察のために用意された騎士の偽名です。
「では、ミス・ウメカ、ミス・チョウコ、失礼にあたったら申し訳ありませんが、おふたりは双子でしょうか」
騎士さん、聞きたいことはそうではないのでは……。
明らかに外国人である騎士から流暢な日本語が出てくることに、うめかさんとてふこさんは少し驚いたようでした。
「はい」
それでも、てふこさんはにこやかに答えます。
「私たちが髪形をそれぞれ変えているのは、見分けてもらうためなんです」
と、てふこさん。
「昔は髪形も服も同じにされたものですが、そのときの周りの反応といったら……」
くすくすとうめかさんが笑います。
ふたりは所謂、一卵性双生児なのでした。
「日本にも、双子は凶兆だという迷信があると聞いているのですが、おふたりは大丈夫だったのですか?」
騎士の知識の偏りはヨーデルのせいでもありました。ヨーデルは大変優秀なので、たまにこういった知識も教えてくれるのです。
「あ、すいません、不躾な質問をしてしまって……。見ず知らずの外国人に話すようなことではありませんよね。答えたくなければ無理に話してくださらなくても大丈夫ですので……」
騎士は、好奇心が先行して、彼女たちへの配慮が疎かになっていました。
そんな騎士にも柔らかく微笑んで、
「いえ、大丈夫ですよ。たしかに、そういうお家が多いと聞きますが、うちはそうではありませんでした」
と、うめかさん。
「私たちはどちらも平等に教育を受け、平等に愛され、大切にされています」
そう断言するてふこさんに、騎士は温かい気持ちになりました。何故なら、双子に生まれついたということだけで、人が虐げられてはいけないと思っていたからです。生まれた子供たちには、なんの罪もないのに、どちらかが殺されるなり幽閉されるなりといった措置が取られることはおかしいことだと、騎士は思っていました。騎士自身、貧民街で生まれ育ちましたから、人を虐げたり、自分が虐げられたりは日常茶飯事でした。しかしそれは、各々が生きていくためでした。生きていくために自分で選択したことでした。しかし、双子に生まれただけの子供を、勝手な周りの大人の都合でどちらかに死、よくても圧倒的な格差の中で育てるなど、悪魔の所業だと感じました。人が人を、畜生に貶めてはいけないのです。ヒトを辞めた騎士でさえ、そう思うのですから、やはり現世こそ地獄なのではないかと、考えるのでした。
カフェーはあまり混んでいませんでしたので、騎士はコーヒーが来てからも、足利姉妹と談笑を続けていました。
騎士は、天ぷら屋さんの大将のことや、トウキョウで見てきた数多くの施設、キョウトを巡って初めて「ワビサビ」というものを感じたこと、自国のことなどなど。
足利姉妹は、通っている女子高等師範学校のこと、家族のこと、ふたりが生まれ育ったキョウトの街のこと、方言のことなどなど。
三人は、たくさんのことを話しました。そういうときの時間の流れというものは早いもので、あっという間に一時間半ほどが経っていました。
「すいません、お仕事中なのに長々と話をしてしまって」
「いえいえ、今はお客さんも少ないですし、私たちも楽しかったので。ね、てふこ」
「はい、とても興味深いお話でした」
ふたりはにっこり笑ってそう言ってくれました。
それでお開きになりそうでしたが、騎士は、ハッと思い出します。
「最後にひとつお尋ねしたいのですが、この辺りで社交界を開いているところを、ご存知ありませんか?」
そうそう、そっちが本題です。
ふたりは、んー、とそっくりな思案顔をしたあと、同時に同じ場所を教えてくれたのでした。
『蒼颯館』。
足利姉妹が教えてくれたのは、定期的に社交界が開かれているという場所でした。蒼颯館で行われる社交界には、外国人も多く参加しているため、「きっと違和感なく溶け込めますよ」と言われました。
なんでも、トウキョウで見てきた鹿鳴館と並ぶ、「西の社交場」なのだそう。
国賓の接待や舞踏会、夜会など、広く外交の場になっているのだとか。
騎士が探りを入れると、どうやら次の催しは舞踏会。そして、それは一週間後に行われるようでした。
とりあえず場所の下見をしようと騎士は蒼颯館へ赴きました。
騎士は現地に到着するより前、足利姉妹から蒼颯館の名前を聞いたときから、既にその場所を気に入っていました。
何故なら、蒼颯館の名前のなかに「蒼」という文字が含まれていたからです。
(蒼……。陛下の御眼の色だ……)
そうです。陛下は真の御姿では、御眼が蒼いのでした。
肌身離さず持っている写真に、色は写っていませんが、その色はしっかりと騎士のなかに焼き付いています。
日本視察をわりとエンジョイしている騎士ですが、ふとした折に陛下を思い出しては、遠い遠い祖国におられる己が主を想うのでした。
蒼颯館は、どうやらお雇い外国人が設計したようで、キョウトの古い街並みと比べると随分と浮いて見えました。
(ルネッサンス様式かな……しかし我が祖国の雰囲気も感じ取れる)
怪しまれないよう、遠くから黙々と観察を続ける騎士でしたが、祖国の雰囲気を感じ取ってしまい、また少ししょんぼりとするのでした。
しかし目的の舞踏会は一週間後。しょんぼりし続けているわけにもいきません。これから舞踏会への招待状を手に入れなくてはならないのです。
騎士が潜入しようとしている舞踏会は、上流階級や政府高官がメインの催しなので、一般人のままでは参加できません。
ふむ、とひとつ騎士は考えると、招待状の手配を始めたのでした。
さて、時は経ちまして一週間後。舞踏会当日の夜になりました。
騎士はいつかのデビュタント、夜会に初めて招かれたときと同じ衣装を身に纏っています。同じ、と言いましても、やはり騎士も成長しますから、何度か仕立て直しをしてはいるものの、ここぞというときには必ず、この衣装なのでした。
問題の招待状も、しっかりと用意できました。どこの国でも裏社会というのはあるもので、騎士はそういうところの渡り方がとても上手なのでした。
「ようこそおいでくださいました。お手数ですが、招待状を拝見させていただけますでしょうか」
蒼颯館の入口で、屈強な男たちが警備をするなか、受付係の男がそう言います。
騎士はにこりと笑み、用意した招待状を手渡します。
受付係は招待状の中を検めます。
「アルヴィス・メディウム様ですね、たしかにご確認させていただきました。ありがとうございます」
にこやかな笑顔で、受付係は招待状を騎士に返しました。
周りの警備の人間の気配も探っていましたが、無事、なんの疑いもなく騎士は会場に潜入することができたのでした。
会場となる大広間はざっと三三〇平方メートルといったところでしょうか。
日本風に言えばおよそ一〇〇坪ですが、二五メートルプール約ひとつ分と言えば想像しやすいでしょうか。
(やはりかなり狭いな……)
外観を見ていて分かっていたはずですが、内部に入ってみると、また感覚は違いました。日頃から、王宮の大広間ばかりを見ていると、感覚が麻痺してしまうようです。
今回騎士が手に入れた仮初の身分は、「政府高官の友人」というものでした。当の政府高官にはあらかじめ、暗示をかけてあります。騎士は、暗示や催眠術といったものも嗜んでいるのです。
「おぉ、アルヴィスくん。今日はよく来てくれたね」
小太りの政府高官は騎士に声をかけます。
「ミスタ・ワダ。本日はお招きいただきありがとうございます」
にこりと、誰もが息を呑むような美しい笑顔を携えて、応えます。
「この舞踏会は、君の国のものとも肩を並べられるほどだと自負しておるよ、ははは。わしの娘とも一曲踊ってやってくれたまえ」
「ええ、それはもう是非」
傲慢、と笑顔の仮面の下で冷たく思います。
列強諸国と並ぼうと、日本が独自に努力していることは認めますが、こうも自慢げに言われると、反感を覚えてしまうのが騎士の性格なのでした。
この催しは舞踏会ですから、もちろんダンスもしなくてはなりません。昔はたどたどしかった騎士のダンスも、今では立派に踊れるようになっています。ワルツはもちろん、タンゴやスロー・フォックストロットなどお手の物です。ヨーデルからは、男性側も女性側もどちらも仕込まれていますが、今回の騎士は男性側です。
五フィート三インチ(約一六〇センチ)もの身長と、透明に近い白髪、柔和な黄緑の眼、整った中性的な顔立ちに優しげな微笑をたたえる騎士は、外国人の招待客のなかでも、それはそれは目立つのでした。
紳士淑女の皆さんからの熱のこもった視線を受けつつ、騎士は記憶を辿ります。
(あちらのお嬢さんが外交官の娘、あちらは華族の一人娘でしたか。あそこにいるのは……)
と、ひとりひとり、事前に覚えた顔や情報と実物を照らし合わせていきます。
観察ついでに目を合わせて微笑むと、若いお嬢様方は皆さん一様に頬を朱に染めて、さっと目を逸らしてしまうのでした。
自分の見た目がどれほどの威力になるのかを自覚している騎士ですが、覿面具合に少し驚きます。
(さて、誰をダンスに誘うのが手っ取り早いかな)
まず目をつけたのは、華族であり、父親が政府高官という娘さんでした。
「こんばんは、良い夜ですね、レディ」
と、柔らかく声をかけます。
まさか自分が声をかけられると思っていなかった様子のお嬢さん。口をぱくぱくさせて、まるで金魚のよう。
「失礼、ご挨拶が遅れましたね。僕はアルヴィス。アルヴィス・メディウムと申します」
気軽にアルヴィスとお呼びください、と付け加えるのも忘れません。
「よろしければ、僕と一曲、踊ってはくださいませんか?」
その夜騎士は、何人もの有力者の娘さんと親しくなり、日本の政治事情の裏話や、噂話、軍の内部事情など様々な情報を手にすることができたのでした。
それからも複数回に及び、蒼颯館での催しに参加し、得た情報の裏付けなどをしていきました。
キョウトでの情報収集を始めてふた月半を少し過ぎた程度の時が経ちました。
度々催される夜会や、個人宅で行われるパーティーなどで日本の内情をかなり深いところまで知ることができました。
(現状得られる情報はこんなところか)
各方面で、必要な情報は手に入りました。これでやっと、陛下のおられる祖国に帰ることができます。
(あぁ、やっと、やっと帰れる……。陛下は御元気にしておられるだろうか)
そっと懐にしまわれている写真を服の上からなぞります。
日本視察をエンジョイしていましたが、やはり騎士は陛下のことをずっとずっと想っていたのでした。
キョウトからヨコハマに帰ってきました。
視察は思っていたよりも少し長引いてしまっていました。祖国へ到着するころには、陛下のもとを離れてから半年以上の月日が経っていることでしょう。
今回は、前回のユールの件もありましたから、乗客のチェックはより厳しく済ませました。
(そういえば、日本に来てから奴に遭遇することも、噂を聞くこともなかったな)
船の上で事を構える気はないと言っていたため、日本国内で何かしらあるかと一応警戒していましたが、何もありませんでした。拍子抜けです。しかし、行きの船の二の舞は避けねばなりません。偽名だけならまだしも、変装されていたらと考えると、気を引き締め直す騎士なのでした。
***
「もしもし? あぁ、ごきげんよう、僕だよ。うん、そうか。ふぅん、ちゃんと蒼颯館へ誘導できたんだね、よかったよかった。いやいや、ありがとう。今度ふたりには、珍しい耳飾りをプレゼントするよ。え? ちゃんとプレゼントするとも。はは、すっぽかさないって。僕ったら信用無いなぁ。まったく、悲しいよ、くすん。僕? 僕はもう少しこっちにいるつもりだよ。帰りの船まで一緒にしたら、それはもう怪しさ満載じゃないか。それにほら、可哀想だろう? 健気にもひとりで日本を視察して、ようやく帰れると思ったらまた僕に出くわすなんてさ。いやぁ、それでもいいんだけれどね、僕は。今回は初めてのおつかいみたいなものみたいだし、あんまりいじめるのもね。うん、そっちにもそのうち寄るよ、ありがとう。じゃあまた」
***
代わり映えのしない海の風景を横目に、またおよそひと月半。退屈ではありましたが、陛下のもとへ帰れるのだと考えると、心がじんわりと温かくなるのでした。
ようやく祖国の港に到着した騎士は、下船しようとするところでした。もうそわそわが抑えきれていません。早く早く一刻も早く陛下にお会いしたい。
と、その視界に紅を見つけました。
それはこの約半年と少しの間、焦がれ続けていた紅でした。
ぶわっと堪えていた想いが溢れます。
瞳は涙で滲み、脚は勝手に駆け出します。
やっと、帰ってきたのです。
***
日本から帰港した豪華客船が、港に錨を下ろし、何本もの太いロープで係留されます。
「船は無事に到着したようですね」
と、隣でヨーデルがそう言います。その声が安堵を含んでいることに、陛下は気づいていました。
「ああ」
乗客の下船の準備が進められている船を見上げながら、陛下は思います。
(さて、我が『騎士』は如何ほどに成長したかな)
きっと土産話がそれはもうたくさんあるだろうと、その報告を受ける情景が、今からありありと浮かぶようです。それを思うと、自然と口元が綻ぶ陛下でありました。
目立たないよう帽子を目深に被った陛下に、隣のヨーデルがこっそりと視線を向けます。
陛下御自身は自覚がないようでしたが、騎士が旅立ってからこちら、陛下が日々不安や期待、意味もなく書斎をうろうろする、新聞の上下を間違えるなど様々な想いを胸に過ごしてきたことを、彼は知っています。
ヨーデルは、やはりとても優秀なのでした。
そしてもちろん、今日という日を、心待ちにしていたことも、元青薔薇の騎士は先刻ご承知です。
くすり、と口元だけで笑い、視線を船へと向けます。
「陛下、乗客の下船が始まったようですよ」
「ああ」
ひとり、またひとりと船から人々が下りてきます。
しばらくすると、モスグリーンの生地に紺色のリボンのついた中折れ帽を被った人物が、船の出口に来ていました。
現地で買ったのでしょうその帽子で隠れてはいますが、それは半年以上もの間、見ることのできなかった、透明に近い白髪なのでした。
(帰って、きたのだな)
初めて外の国へ出した自分の『騎士』の姿を見つけて、半身が戻ったような気持ちになる陛下です。
そう、焦がれていたのは、騎士だけではありませんでした。
これから先、己と永劫を共にする者が、自分を見つけて嬉しそうにこちらへ駆けてきます。
(まったく、我もつくづく絆されておるのかもしれんな)
そう思った陛下の口元は、やはりまた、綻んでいたのでした。
***
人混みをかき分けかき分け、全速力で陛下のもとへ駆け寄った騎士です。
被っていた帽子を取り、何かを言おうとするものの、様々な感情が溢れていて、なかなか先が紡げません。
「よく戻った、シュバリエ」
もう半年以上耳にしていなかった、陛下の低く柔らかなお声が、騎士の鼓膜を震わせ、優しい紅の瞳が、揺れる黄緑の瞳を捉えます。
溢れてとどまることを知らない想いが、いっそう黄緑を濡らし、帰ってきたのだということをひしひしと感じました。
そうして騎士は、満面の笑みで応えたのでした。
「はい! ただいま戻りました!」
END
彼女は今日もパリッとアイロンをかけた新聞とブレックファストティー、オムレットなどの朝食をワゴンに載せて、皇帝の書斎に向かいます。
コンコン。
「陛下、朝食をお持ち致しました」
「入れ」と大きな扉の奥から聞こえます。
扉を開ける前に、ひと言「失礼致します」ともう一度声をかけるのも忘れません。
書斎にある、立派な革張りの椅子は、窓のほうを向いていて、陛下の御姿を目にすることはできません。
「陛下」
騎士が声をおかけすると、革張りの椅子がくるりとこちらを向きます。
陛下はアームレストに肘を置き、少し眠たげに頬杖をついています。
その髪は黒く、無造作に前髪が下ろされています。前髪から覗く眼はとてもきれいな蒼です。
「おはようございます、陛下」
朝から陛下の真の御姿を目にできた騎士は、嬉しさを隠しきれません。
くすりと口元を綻ばせながら、ゴロゴロとワゴンを執務机の側に付けます。
今現在この国で発行されているすべての新聞を、毎朝陛下はチェックします。
その新聞たちのうちのひとつを陛下に手渡すと、
「今日のブレックファストティーは、アッサムをベースにしたブレンドでございます。飲み方はいかがされますか?」
と、用意した紅茶の飲み方を御伺いします。
「ストレート」
ぶっきらぼうにそう言う、今日の陛下は朝に弱いようです。
「角砂糖はふたつ、ですね」
騎士はもちろん、主の好みの砂糖の量も知っています。
早速紅茶をいれ始める騎士と、ぺらりぺらりと新聞を読んでいく陛下。
そんなとき、
「あぁ、そういえば太白よ、今日は其方に話がある」
ぺらり、陛下は眠たそうにまた新聞を捲ります。
「いかがなさいましたか、陛下」
紅茶をいれる手を少し止めて、騎士は尋ねます。
「何やら最近、極東の地で「日本」という国が勢力を伸ばしているそうだ。其方は知っておるか?」
「ええ、まあ噂程度ではありますが……。あちらでは騎士ではなく「サムライ」という剣士がいたり、「ニンジャ」という諜報・暗殺部隊がいたりするのだとか」
「うむ、その「日本」だ。これまで「鎖国」という、他国との関係を最小限にしていた状態から、広く門戸を開き、近代化・富国強兵に努めているらしい」
「なるほど」
「我が国も一応、日本の動向は気になるところだ。果たして固く閉じられていた箱庭の中身はどうなっているのか」
にやりと陛下の口元が歪みます。そのような表情も素敵だなぁとしみじみ思う騎士なのでした。
紅茶の蒸らし時間が終わり、ポットの中の紅茶を軽くひと混ぜします。
あらかじめ温めておいたカップに茶こしを使いながら、紅茶を注いでいきます。
ベスト・ドロップが水面を揺らしたそのとき。
「そこで其方には、いち外国人として、日本を視察してきてもらいたいのだ」
ピシャーーーーーーン。
騎士に衝撃が走ります。
「え」
衝撃のあまり、持っていたポットを取り落としそうになったので、慌てて持ち直し、ワゴンの上に置きました。
「あの、失礼ですが、もう一度……」
聞き間違いではあるまいかと、いま一度陛下にお尋ねします。
「其方に、日本へ、渡ってほしい」
陛下は噛んで含めるように、ゆっくりと言い渡します。
数秒固まった騎士は、ハッと我に返ると、静かに、しかし素早く陛下のおられる革椅子のすぐ側に付きます。そしてスっと跪き、
「嫌です」
陛下の蒼い瞳を見つめながら、キリッとキメ顔で言ったのでした。
「私が陛下の御側を離れることを諾とするとでもお思いですか!!!!」
「『黒薔薇の騎士』が陛下の御側を離れるだなんて言語道断です!」
「だって日本ですよ、日本!!! 渡航するだけで往復三ヶ月! それに現地での調査を加えるともう半年とかじゃないですか!」
「半年ですよ!? 六ヶ月ですよ!? 一年の半分ですよ!? 毎日陛下のそれはそれは素敵な御尊顔を拝見できることこそ私の生きる活力なのに! です!!」
「陛下の御側にいられない半年とかそんなものは無価値です無意味です!」
「それに!! 陛下のことで頭がいっぱいで調査とか絶対に無理ですよ!」
嫌です無理ですと、騎士は一気に捲し立てます。それはもう怒涛の勢いです。
「陛下御身の回りのお世話は誰がやるって仰るんですか! どうせ先生辺りだと思いますけど! 御身のお世話をするのは私の役割です!!!!」
「あ、そうだ、先生を日本に送り込みましょう! そうだ、それがいい、調査は先生のほうが絶対に上手ですし!」
「そうと決まればすぐに先生にお伝えしなくては」
善は急げと、書斎の扉へ向かいます。
「待て待て、太白よ。話を聞きなさい」
陛下の御言葉に、騎士は脊髄反射レベルで停止、そして瞬く間に陛下の側へ舞い戻ります。
「鞭を惜しむと子供は駄目になるとも言う。太白、其方は立派な我の『騎士』である。故に、能力的にも知識的にも、要求されることは常に膨大だ。其方はまだこの国を出たことがなかろう?」
「はい。生まれて此方、我が国から出たことはございません」
「そうであろうよ。だから、今回の視察なのだ」
「と、言いますと」
「其方の名に由来のある中国には、「井の中の蛙大海を知らず」ということわざがある。其方はまだこの国のことしか直接見聞きしておらん。己の五感すべてで、外つ国を観察してくるがよい」
「む、むむむむ……」
そんな優しそうな眼差しを向けてくださるのは狡い、と騎士は思いました。
赤髪紅眼の御姿もキリリとして素敵だけれども、黒髪蒼眼の御姿も大層素敵なのですその御姿を私だけが見ることができるというのも大変物凄く嬉しいポイントなのですがいつもと違い下ろされた前髪の隙間から覗く蒼く思慮深い眼差しはお優しく艶やかな黒髪が何とも言い難い妖艶さを湛えていて……と、騎士は如何に陛下が素敵か素晴らしいかを並べ立てていく己の思考に没入していきます。
「幾倍にも成長した其方の姿を、我に示しておくれ」
そのひと言で、騎士は陥落しました。
はぁぁぁぁぁぁと長い溜息が部屋に響き渡ります。
騎士が何をしているのかというと、日本についての勉強なのでした。
もちろん先生はヨーデルです。
黒薔薇に至るも、今でもヨーデルには頭が上がりません。
日本の言語、文化、歴史など……視察の前に頭に入れておかなくてはならないことはたくさんあります。
「まず、日本語には、平仮名・片仮名・漢字と三種類ある」
「その三種類の文字の組み合わせで言葉が構成されているということだな」
「漢字は数が膨大なため、後回しにする。まずは平仮名片仮名五〇音ずつ、速やかに覚えろ」
今日も先生のスパルタは絶好調です。
何故ヨーデルが日本語もできるのか、何故日本について精通しているのかは謎です。ヨーデルはとても優秀なのでした。
「何故五〇音も……子音は少ないくせに……うぅ」
と、騎士はボヤきます。
「ボヤいている間に一字でも覚えろ」
やはり先生は絶好調なのでした。
そんなこんなで陛下に極東視察を下命されてから数ヶ月が経ちました。
その間、日本についての知識習得の如何を陛下に尋ねられる度に、必死に眼を逸らしながら「五〇音も覚えるにはなかなか……」とか、「サムライの名前が難しく……」とか並べます。
騎士はどうにか少しでも視察を先送りにしたくて堪らないのでした。
「本当に私が離れても、陛下は大丈夫なんですか」
ある日の書斎で、ついつい仏頂面になってしまう騎士です。その姿は我儘を言う幼子のよう。
「まあヨーデルがおるからのう……」
繰り返しますが、元青薔薇の騎士は大変優秀なのでした。
「っ……陛下は私が御側にいなくても平気なんですね!!!! うわーーーーーーん」
そう言うと、仕事も放り出して脱兎のごとく書斎から飛び出していきました。
それを見て、やれやれまったく、と革張りの椅子から立ちあがる陛下を、目にする者はおりませんでした。
くすんくすんと泣きながら騎士が向かった先は図書室でした。
王宮へ迎えられてから、ヨーデルの授業以外の時間の多くをここで過ごしました。ここにはたくさんの物語があり、叡智があり、何も知らなかった騎士にとってここは、広い広い知識の海でした。潜れば潜るほど、いつだって新たな発見と興奮に包まれたものです。それ故に、今でも紙とインクの匂いに安心を覚える騎士なのです。
ヨーデルにこっぴどく叱られた日や、何かやらかしてしまった日、書架の間の薄暗い空間で小さく座って静かに泣くのが、騎士の候補生時代からの慣例でした。
しかし、陛下の『騎士』となって以降、そこを使う機会もありませんでした。
それでも騎士は今、久方ぶりに、ひとりの少女のように、書架の間の奥まったところで膝を抱えていました。
(陛下は私が御側にいなくても平気なのですね……)
じわりと視界が滲みます。
もうお前は不要だと言われたように感じました。
どこまでも、永遠に御護りすると誓ったのに。
いくらでも代わりはたてられると言われたように感じました。
私をあちら側への供として受け入れてくださったのに。
騎士の心はどんどんと堕ちていきます。それは永劫続く兎の穴のよう。
うぅ、とまた暗い思考の渦に流されようかというとき、
「やはりここであったか」
聞き間違うはずもない、それは己の主のお声でした。
パッと顔を上げると、右の書架に片肘をついて、身を屈め、こちらを覗き込んでいる陛下がおりました。
「其方が泣くならここであると決まっておるからな」
何故と問う前に答えが提示されてしまいました。
「紙とインクの匂いは安心するからのう」
ぽんぽんと頭を撫でられます。
その大きくて優しい手に、騎士は静かに、しかし大粒の涙をぽろぽろぽろぽろ零します。
「別に我は其方が要らぬと言っておるわけではない。あの日、其方を離す気はないと言ったであろう?」
こくりと騎士が頷きます。
「あの日誓ったのは其方だけではないのだ。我々の間の契約は永劫よ。我らの身がいつの日か、朽ち果てるまで」
さらりと、騎士の透明に近い白髪を優しく撫でます。その手つきが、どれほど愛おしそうであるのかを、騎士は知りません。
「太白」
その御眼に浮かぶのは、とてもとても深い慈愛です。
騎士は、大切な大切なその名を陛下に呼んでいただく度に、何か温かいものが胸に広がるのを感じます。その温かさにまた、涙がぽろぽろと溢れるのでした。
「この国を離れられない我に代わり、その眼で、その耳で、日本を見てきてほしい。我の耳目になっておくれ」
我の我儘ですまないな、とそんな風に言われてしまえば、もう騎士は決めるしかありません。これは最早「命令」ではなく「お願い」であったからでした。
陛下の「お願い」を受け入れてからは、早いものでした。できないできないと言っていた日本語と日本の知識をさっさと頭に叩き込んで、荷造りをし、船の乗船券を手配します。もちろん乗船券の名義は架空のものです。今回は一応「一般外国人」としての訪日なのですから。その辺は抜け目がありません。騎士は、やればできる子なのでした。
日本へと渡る豪華客船へ乗り込むその日、陛下とヨーデルがお忍びで、港まで見送りに来てくださいました。
騎士は王宮を出発するギリギリまで陛下の説得に挑みましたが、陛下には敵いませんでした。ヨーデルも一応陛下を御止めしましたが、それはあくまで形だけのものでした。
騎士は、見送りをしていただけるのはとてもとても嬉しい反面、陛下に港まで足を運んでいただくなどとんでもないという気持ちでした。
「あぁ、陛下、我が君。そんな、こんな港まで来ていただけるなど、この身に余る光栄……」
思わず跪こうとする騎士を陛下が止めます。
「こらこら、其方が跪けば余計な人目を集めよう」
「はっ、配慮が至らず、申し訳ありません」
目立たない程度に頭を下げます。
「この旅路で、其方は初めてのものに多く触れ、見識を広めることに繋がるだろう。次に会う時を楽しみにしておるぞ」
「はい! 先生も、陛下のことをよろしくお願いします」
「貴様に言われずともそのつもりであるから安心するがいい」
ヨーデルの言葉に少し苦笑いを零した騎士は、陛下たちに背を向け、船へ向かいます。
「シュバリエ」
そんな騎士の背中に陛下がお声を投げます。
「其方の戻るべき場所は分かっておるな。戻らぬことは決して許さんぞ。いいな」
振り向き、その御言葉を聞いた騎士は、胸が温かくなる思いで、
「はい、行って参ります!」
と大きくひと声、ひとつ手を振り、船へと消えていったのでした。
無事港を出航した豪華客船の一等客室のなか、騎士は懐から一枚の紙を、荷物から写真立てを取り出します。
騎士が懐から出したのは、一枚の写真でした。
それは、騎士が肌身離さず持っている写真でした。
騎士が『騎士』になったときに、陛下と御一緒に撮らせていただいた写真でした。
(陛下……)
写真のなかの陛下の御姿をそっと撫でます。
これから半年、お会いすることができない陛下に思いを馳せます。
『この国を離れられない我に代わり、その眼で、その耳で、日本を見てきてほしい。我の耳目になっておくれ』
そう、陛下は我が国を離れることができない。だから私がすべてを見、感じてくるのだ。
むんっと気合いをひとつ、写真立てに写真を入れ、そっと机に置きました。
船での往路も半ばを過ぎたころでした。
騎士はベッドでごろりと寝返りをうちました。
(眠れない……)
自国の港を出てからこちら、眠れない日は少なからずありました。そんなときは、適当に強い酒をあおって、無理矢理に寝付くのでした。
しかし、今日はそんな気も起きません。
ふらりと船の甲板に出ます。
潮気を含んだ夜気は、思っていたよりも心地の良いものでした。
柵に腕を預けながら、騎士は思います。
(もうずっと陛下のお声を聞いていない……御姿は、あの写真があるけれど……)
黒く闇に沈んだ海を見ながら考えます。
(日本へ行って帰ってくるまでにはおよそ半年……まだその行程のほんの少ししか過ぎていないというのに)
最初のころこそ、生まれて初めて見る海に少し興奮を覚えたものの、海の景色はあまり代わり映えしません。すぐに飽きてしまったのでした。
(陛下……今頃はどうしていらっしゃるのでしょう。あぁ、陛下にお会いしたい。今すぐこの眼に御姿を焼き付けたい。お声を聞きたい)
騎士は完全に陛下ロスに陥っていたのでした。
「やぁ、どうもこんばんは。お嬢さん」
その声に、騎士は反射的に戦闘態勢に入ります。
何故なら。
(今、気配がなかった。何か近づいてきたら絶対に分かるはずなのに)
いくら陛下ロスとはいえ、そこは黒薔薇の騎士ですから、周囲の警戒は怠っていませんでした。
(それにこの声……まさか)
人影が、ずるりと影から出てきます。
「そのまさか、さ。いやぁこんなところで会うだなんて、嬉しいなぁ」
不倶戴天の仲である、ユール・タマージュが、そこには居たのでした。
(事前にチェックした乗客リストにこいつの名前はなかった。ということは……)
「今回は別の名前を使っているのだけどね、キミのことだ。事前に乗客のチェックはしたんだろう? でもまだ詰めが甘いねぇ。僕のような人間はいくつも名前を持ってることぐらい予想できるだろうに」
にこにこと、ゆっくりこちらへ歩み寄ってきます。
今騎士は、護身用のナイフ一本しか装備がありません。
(くそ、ナイフ一本じゃ心許ないな……)
じり、と後退してしまいます。
「ほんとにあの貧民街の子が、黒薔薇まで登り詰めるとはねぇ。僕としても鼻が高いよ。今は確か……そうだ、シュバリエだったかな。シュバリエ・ロゼルタ」
「貴様が、その名を気安く口にするなよ……!」
騎士が低く唸ります。
彼女の名前は、陛下から賜った大事な大事な宝物なのです。
「おぉ怖いなぁ。今は僕ひとりだから、そんな風にされると恐ろしくて泣き出してしまいそうだよ」
などと思ってもいないのが丸分かりのことを言います。
「あ、でも黒兎はこっそり連れてきたのだった。そうだそうだ。まあしかし彼女は「 」だからなぁ」
ふいに吹きつけた海風で彼の言葉の一部は聞き取れません。
「そんなに警戒しなくても、ここでは何もしないよ。ここでは、ね。どうせ日本に着くまでずっと海の上、密室状態なんだから、そんなところで事を構えるのは僕でも嫌だよ」
そう言って、男はへらへらと笑うのでした。
それでも騎士は警戒を解くことはありません。
「まぁお互い背後に気をつけながら海の旅を楽しもうじゃないか」
じゃあね、とひと言言い置いて、くるりと身を翻し、ユールは出てきたときと同様に、気配を殺したまま、去っていったのでした。
彼が去ってから、たっぷり三〇秒は数えたでしょうか。
「ふーーーー…………」
詰めていた息を吐き出します。
それでも男が去っていった方向への視線は外しません。
嫌な汗が、背中を伝うのが分かります。
周囲をいつも以上に警戒しながら客室に戻るも、その夜は一睡もできなかったのでした。
自国の港を出航して約三ヶ月。
もう少しで日本の海の玄関口、「ヨコハマ」というところに着くようです。
解いていた荷を再び纏めながら、騎士はひとりつぶやきます。
「はぁ……大丈夫かな。優しい人が多いといいのだけれど」
写真立てに入れていた写真も、取り出して大切に懐へ。
「ご乗船の皆さまにお知らせ致します。本船は、まもなく「ヨコハマ」に到着致します」
繰り返されるアナウンスのなか、騎士は
(どうやら、そろそろ私も腹を括らなくてはならないらしい)
と思いました。
まだ腹を括っていなかったのかというツッコミをくれる人は、側にいませんでした。
そうして、騎士はついに、生まれて初めて、他国の土を踏むのでした。
ヨコハマに降り立った騎士は、まず外国人の多さに驚きました。
港で力仕事に従事している屈強な男たちを指揮している人のほとんどが、明らかにアジア系の顔かたちをしていません。
(近代化が進んでいくなかで、技術的指導力が必要とされたのかな……。これが「お雇い外国人」というやつか)
ふむふむ、と周りを観察しながら歩いていると、すれ違う人々がチラチラ騎士を見、遠巻きにこちらを見ているらしき視線も感じます。
最初は自分の服装に何か問題があるのかしらんと考えました。しかし、今の服装は自国から着てきた普通のスリーピースのスーツです。男装をしているので、女性に見られないように胸をサラシで潰している以外は、おかしな着方もしていないはずです。
うーむと騎士はヨコハマの街並みを横目に歩きながら考えます。
そして、ハッと気づきました。
こちらに視線を投げてくる彼ら彼女らの視線の先にあるものは。
果たして、騎士の透明に近い白髪なのでした。
日本人、またはアジア系の顔立ちからして、黒髪黒眼が基本であると教わりました。
そして自国のなかでも、プラチナブロンドやブラウンは多くとも、白髪は大変に珍しいのでした。
(これは良くないな……どこかに帽子屋でもないものか)
地図は一応持ってはいるものの、どこにどの店があると書いてあるわけもありません。
現地の人間に聞くしかないかと、適当な人を探します。
よし、(話を聞いてもらえそうな)第一日本人発見、となりましたのは、木陰のベンチで談笑していたふたりのご婦人方でした。
そのご婦人方も例に漏れず、騎士のほうをチラチラ見ていました。
これを利用しない手はないと、騎士はご婦人方に近づきます。
「もし、麗しいご婦人方。少しお聞きしたいことがあるのですが」
ふいに近づいてきて、流暢な日本語を話す騎士に、ご婦人方は呆気に取られてしまいました。
騎士は、己の容姿が女性に有効であるとよくよく知っているのでした。
「もし? いかがされましたか?」
と、ぼぅっとしていたご婦人方にもう一度優しく声をかけます。
ご婦人方は、やっとのことで状況を飲み込めたのか、
「あ、あら、外国の方が私たちに何のご用でしょうか」
と片方が言いました。
その頬が少し赤らんでいるのを見逃す騎士ではありません。
「手頃な帽子屋を探しているのですが、ついさっき日本に着いたばかりで……」
ここでしゅんとした雰囲気を醸し出すのも忘れません。
「それはさぞ不自由なさっていることでしょう……。私たちでよろしければご案内させていただけません?」
先ほどとは違うほうのご婦人がそう言います。
「いえ、そんな、ご婦人方にお手間をおかけするわけには……」
きちんと一度は遠慮しておきます。
「手間だなんて……ちょうど私たちも暇を持て余していたところでしたのよ」
ねぇ、とふたりのご婦人は肯定しあいます。
騎士はそういった答えが返ってくるのを予想していました。
「では、ありがたくお言葉に甘えさせていただきます」
そして困り眉で微笑をすれば完璧です。これで騎士に落ちなかった女性はいません。
ご婦人方に連れていかれたのは、明らかに外国人向けに構えられた小さな帽子屋でした。
本来ならここでご婦人方とお別れするはずでしたが、ご婦人方の勢いに押されるまま、店内までずるずると引っ張られてしまいました。
適当に選んでさっさと店を出るはずが、ご婦人方にあれもいいこれも似合うと、人形遊びが如く、帽子を被せられては変えられ、被せられては変えられを繰り返していました。
嵐よ早く過ぎ去ってくれと願ってから小一時間ほど経ったでしょうか。ようやくご婦人方の納得する帽子が決まったようです。
それは、モスグリーンの生地に、紺色のリボンがあしらわれた中折れ帽でした。
勢いに押されたとは言え、帽子を選んでくれたご婦人方それぞれに造花があしらわれた帽子をプレゼントし、騎士はようやっと解放されたのでした。
(ご婦人方の押しが強いのはどの国も同じか……)
と、少しくたびれながら騎士は思いました。
港近辺を離れ、繁華街に向かう道すがら、騎士は考えます。
(やはりサムライ、はいないか)
日本人男性らしき人々は、皆、背広を着ています。着物に袴姿で帯刀している人などどこにも見当たりません。
騎士は少しだけ残念な気持ちになったのでした。
ところでどうして、この日本という国はとても暑いのでした。何せ湿度が高い。海の近くということを除いても大変に湿度が高いのです。暑さが質量を持って体にへばりついてくるようでした。
限界だと思った騎士は、スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖を捲ります。
それでもジリジリと照る太陽は容赦なく騎士を襲います。歩いていると汗が滝のように体を伝うのが分かるのです。
(我が国ではここまでの湿度はないぞ……)
と心のなかで愚痴を言いながら繁華街へと頑張って歩むのでした。
ようやく繁華街へ入ってきたなと思っていると、グゥと腹の虫が起床を伝えてきます。
たしかに朝食以降食事を取っていない上に、水分も取っていませんでした。
出自のおかげで空腹には慣れているとはいえ、さすがにこれはまずいと思い、道行く男性に声をかけます。
「もし、そこのミスタ。この辺りにテンプラを食べられるお店はありませんか?」
話しかけられた男性は、見た目が完全に外国人である騎士から流暢な日本語が出てきたことに驚いて、一瞬固まってしまいました。それでも丁寧に、天ぷらを提供するお店への道順を教えてくれたのでした。
ちなみに何故天ぷらなのかというと、ヨーデルが日本に行ったら一度は食べてみたいということを零していたからでした。
天ぷら屋さんまでの道を教えてくれた男性は、
「俺も仕事帰りにはよく行くんだ。旦那みたいな綺麗な外人さんだと大将もきっとまけてくれるよ」
と言いました。
「大将」? 「負ける」?
騎士にはなんのことだかさっぱり分かりません。
(この国は食事を取るのに決闘をするのか? しかしレイピアは置いてきてしまったし……。護身用のナイフならあるが、うっかり殺してしまいかねないからなぁ……。まぁ最悪素手で殴ればいいか)
なかなか物騒なことを考えています。
そんなことを思っていると、お店の前に到着しました。
少しだけ緊張と警戒をしながら店内に入ります。
「いらっしゃい————っと、おや外人さんだね」
「あ、はい、ちょっと旅行に来ていまして」
非公式の訪問です。素直に「視察」とは言えません。
「ここに来ればテンプラが食べられると聞いたのですが……」
「おうとも、ここは天ぷら屋だからな!」
店の主らしき男性は呵呵と笑います。
カウンターの内側には、日本の料理を作るときに使うナイフ、ホウチョウがちらりと見えます。
(やはり店主と決闘をして勝たねば食事にありつけないのか……?)
それにしても旦那、日本語が上手いねえと言っていた店主が、騎士の視線の先に気づきました。
「どうしたい? なんか気になることでもあるのかい」
と聞いてくれました。
なので、先ほど考えたことをそのまま店主に伝えたのでした。
「フッ、ハハハハハ、それは大層怖かったろうに。その人も悪気はねぇんだろうが、外の国の人間にはそう思われても仕方ねぇわな。そうさね、「大将」は「オーナー」。店主のことだな。「まける」は「ディスカウント」。これでどうだい」
なるほど、騎士は盛大な勘違いをしていました。
「さぁ、誤解も解けたようだし、さて、何を揚げようか。外の人間なら「つくり」は無理だよなぁ?」
「つくり」。また騎士の知らない単語が出てきました。
「あの、「つくり」とはなんでしょうか? すいません、これでも日本語は勉強してきたのですが……」
「あぁ、いいよいいよ、気にするない! 魚を捌いて、生で食うっていうのがこの国の食文化なのさ。確かに天ぷらも美味いが。生の魚には敵わないねぇ」
「生魚ですか。それなら大丈夫です。昔色々ありまして、生の海産物を食べることもあったので」
胃袋の丈夫さには自信がありますと胸を張ります。
「へぇ、旦那にも色々あったんだねぇ。昔を思い出しちまうなら、「つくり」はやめておくかい?」
「いえ、興味がありますので。タイショー、お願いします」
「よし、わかった、ちょっと、待ってておくんな! その間に日本酒をっと……サービスだ、飲んでくれ。他の客には内緒ですぜ?」
そう言って、大将はイタズラっぽく笑うのでした。
騎士はせっかくなので、出された日本酒を飲むことにしました。
「あの、タイショー。この小さなカップはなんですか?」
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。日本酒ってのは度数が強いもんで、この「おちょこ」ってので少しずつ飲むんさね」
ふむふむとおちょこに日本酒を注ぎ、チビチビと飲んでいますと、「つくり」が出てきました。
思っていたよりも美味しそうな見た目に、唾液が口に広がります。騎士は早速箸(もちろん持ち方はヨーデルに教えてもらいました。彼はとても優秀なのです)で食べようとすると、
「ああ、待った待った。「つくり」はね、この「醤油」と「サビ」で食うんだ」
ショーユ……たしか大豆を発酵させて作る調味料のひとつだったか……。サビは……なんだろう、緑色だけれども。
首を傾げたまま、停止している騎士に、
「まあまあ、食ってごらんよ」
と大将が勧めます。
醤油とサビをつけたつくりを、箸でひとつ頬ばります。
その瞬間。
「ゲホ!! エッホ、ゴホッゴホッ」
盛大に噎せました。慌ててお茶を含みます。
それを見て大将が呵呵と笑います。
「ケホッ、あの、これは一体……」
騎士は毒でも盛られたのかと訝ります。
「すまねぇすまねぇ。外国の人の反応が見たくてなぁ。それは「わさび」だよ」
「わさび……」
辛い、と素直に表現していいものか、騎士は悩みました。
唐辛子などの辛さとはまったくの別物だったからです。
ツーンと鼻にくる辛さは、唐辛子などにはありません。
(どちらかというとマスタードのような……)
少し落ち着いたので、今度は少量、つけて口に含みます。
今度は噎せずにすみました。
それどころか。
(なんだろう。この味は。魚自体に味付けが施されているわけではないのに、どんどんと箸が進む)
「お、どうやら気に入ってくれたようだね」
わさびに順応した騎士を見て、大将も嬉しそうです。
騎士はふと気づきます。
「この「つくり」というのは素材の味を活かしたまま、「ショーユ」と「サビ」で食べるから美味しいのですね」
「そうだよ、よく気がついたもんだ。いやぁ、外の人はあまり生の魚を食べたがらないから、なかなか話すことはねぇんだが、旦那の言うとおり「醤油」と「サビ」で「つくり」の味は決まるのさ」
(ふむ、日本の食事情というのは実に興味深い。一般人でも生の魚を食べるのか)
つくりをひと通り堪能した騎士は、
「大変美味でした」
と言い、
「テンプラもよろしくお願いします」
と大将に告げたのでした。
まだ食べるのかと、一瞬大将は呆気に取られましたが、また呵呵と笑い、色々な具材を天ぷらにして出してくれたのでした。
「タイショー、今日はありがとうございました。どれも大変美味しかったです。祖国に戻った際の良い土産話ができました」
「おいおい、嬉しいことを言ってくれるねぇ! 今日はまけておくよ! またいつでも来ておくんな!」
お腹いっぱいになった騎士は、ほくほく顔で繁華街を先に進みます。
……騎士さん、騎士さん、そんなお顔をしてますけどちゃんと視察してくださいね。
ヨコハマから、トウキョウに移動した騎士は、皇居や国会議事堂、寺社仏閣、鹿鳴館などの社交場等々、日本の中枢にある施設をできる限りたくさん見学しました。
今回騎士は、ひとりの外国人観光客なので、入れないところももちろん多くありました。それでも日本という国の性格を知るには、とても役に立ちました。
ヨコハマに降り立ってから、ひと月と少し経ったころ、騎士はトウキョウから、その昔政治の中心であった都が置かれていたキョウトに移動しました。
キョウトはトウキョウとはまた違い、特に寺社仏閣の数が桁違いでした。
キヨミズ、ヤサカ、ロクオンジなどなど……騎士はこれが「ワビサビ」かと学びました。
またトウキョウと違う点は他にもありました。緑の量が圧倒的に多いのです。行く先々で季節の花が咲き乱れ、木々は青々とその葉を揺らします。草木の生い茂る匂いに、何故か、郷愁に駆られたのでした。
街を行くと、チリン、チリンとどこからか涼しげな音もします。それは「フウリン」という、音で涼を取るものなのだと、騎士は後から知りました。
何よりも驚いたのは、人々が川の上に高床式で床を作り、そこで涼を取りながら、食事やお酒を楽しんでいたことでした。
騎士もおっかなびっくりその「ノウリョウユカ」とやらの上で食事を取りました。するとどうでしょう。川の上であるために、大変涼しいのです。日本人は合理的だなと感じたのでした。
さてキョウトでももちろん情報収集はしなくてはなりません。観光に来たのではないのです。美味しい料理とお酒をめいっぱい楽しんでいる騎士ですが、観光に来たのではないのです。
情報収集とくれば、やはり社交界でしょうかと思い至った騎士は、近場のカフェーに入ります。社交界が行われている場所は、地元の人間に聞くのが手っ取り早いという考えでした。
席に着いて、コーヒーを頼みます。コーヒーが運ばれてくまでには時間がありました。そこで、働いている女性に社交場のことを聞くことにしました。
「すいません、そこのレディ」
と、声をかけると、ふたりの女給さんがこちらを振り返りました。
一方は、黒い髪を肩ぐらいで切り揃え、もう一方は黒い髪をふたつ結びにしています。騎士が驚いたのは、ふたりが瓜二つの顔をしていることでした。
そのとき騎士の脳裏に過ぎったのは、陛下のことでしたが、まさかこのような街中で働いている女性に、影武者も何もないだろうと思い直しました。
「何かご用でしょうか?」
騎士が彼女らが瓜二つであることに驚いて声を続けそびれていたので、女給さんに訝しがられてしまいました。
「あ、いえ、失礼、僕はアルヴィスといいます。ええとミス……」
「うめかです」
と、髪の短いほうの女性が答えます。
「私が足利うめか、彼女は妹のてふこです」
うめかさんの紹介に、てふこさんがぺこりと会釈をします。
アルヴィスという名前は、今回の視察のために用意された騎士の偽名です。
「では、ミス・ウメカ、ミス・チョウコ、失礼にあたったら申し訳ありませんが、おふたりは双子でしょうか」
騎士さん、聞きたいことはそうではないのでは……。
明らかに外国人である騎士から流暢な日本語が出てくることに、うめかさんとてふこさんは少し驚いたようでした。
「はい」
それでも、てふこさんはにこやかに答えます。
「私たちが髪形をそれぞれ変えているのは、見分けてもらうためなんです」
と、てふこさん。
「昔は髪形も服も同じにされたものですが、そのときの周りの反応といったら……」
くすくすとうめかさんが笑います。
ふたりは所謂、一卵性双生児なのでした。
「日本にも、双子は凶兆だという迷信があると聞いているのですが、おふたりは大丈夫だったのですか?」
騎士の知識の偏りはヨーデルのせいでもありました。ヨーデルは大変優秀なので、たまにこういった知識も教えてくれるのです。
「あ、すいません、不躾な質問をしてしまって……。見ず知らずの外国人に話すようなことではありませんよね。答えたくなければ無理に話してくださらなくても大丈夫ですので……」
騎士は、好奇心が先行して、彼女たちへの配慮が疎かになっていました。
そんな騎士にも柔らかく微笑んで、
「いえ、大丈夫ですよ。たしかに、そういうお家が多いと聞きますが、うちはそうではありませんでした」
と、うめかさん。
「私たちはどちらも平等に教育を受け、平等に愛され、大切にされています」
そう断言するてふこさんに、騎士は温かい気持ちになりました。何故なら、双子に生まれついたということだけで、人が虐げられてはいけないと思っていたからです。生まれた子供たちには、なんの罪もないのに、どちらかが殺されるなり幽閉されるなりといった措置が取られることはおかしいことだと、騎士は思っていました。騎士自身、貧民街で生まれ育ちましたから、人を虐げたり、自分が虐げられたりは日常茶飯事でした。しかしそれは、各々が生きていくためでした。生きていくために自分で選択したことでした。しかし、双子に生まれただけの子供を、勝手な周りの大人の都合でどちらかに死、よくても圧倒的な格差の中で育てるなど、悪魔の所業だと感じました。人が人を、畜生に貶めてはいけないのです。ヒトを辞めた騎士でさえ、そう思うのですから、やはり現世こそ地獄なのではないかと、考えるのでした。
カフェーはあまり混んでいませんでしたので、騎士はコーヒーが来てからも、足利姉妹と談笑を続けていました。
騎士は、天ぷら屋さんの大将のことや、トウキョウで見てきた数多くの施設、キョウトを巡って初めて「ワビサビ」というものを感じたこと、自国のことなどなど。
足利姉妹は、通っている女子高等師範学校のこと、家族のこと、ふたりが生まれ育ったキョウトの街のこと、方言のことなどなど。
三人は、たくさんのことを話しました。そういうときの時間の流れというものは早いもので、あっという間に一時間半ほどが経っていました。
「すいません、お仕事中なのに長々と話をしてしまって」
「いえいえ、今はお客さんも少ないですし、私たちも楽しかったので。ね、てふこ」
「はい、とても興味深いお話でした」
ふたりはにっこり笑ってそう言ってくれました。
それでお開きになりそうでしたが、騎士は、ハッと思い出します。
「最後にひとつお尋ねしたいのですが、この辺りで社交界を開いているところを、ご存知ありませんか?」
そうそう、そっちが本題です。
ふたりは、んー、とそっくりな思案顔をしたあと、同時に同じ場所を教えてくれたのでした。
『蒼颯館』。
足利姉妹が教えてくれたのは、定期的に社交界が開かれているという場所でした。蒼颯館で行われる社交界には、外国人も多く参加しているため、「きっと違和感なく溶け込めますよ」と言われました。
なんでも、トウキョウで見てきた鹿鳴館と並ぶ、「西の社交場」なのだそう。
国賓の接待や舞踏会、夜会など、広く外交の場になっているのだとか。
騎士が探りを入れると、どうやら次の催しは舞踏会。そして、それは一週間後に行われるようでした。
とりあえず場所の下見をしようと騎士は蒼颯館へ赴きました。
騎士は現地に到着するより前、足利姉妹から蒼颯館の名前を聞いたときから、既にその場所を気に入っていました。
何故なら、蒼颯館の名前のなかに「蒼」という文字が含まれていたからです。
(蒼……。陛下の御眼の色だ……)
そうです。陛下は真の御姿では、御眼が蒼いのでした。
肌身離さず持っている写真に、色は写っていませんが、その色はしっかりと騎士のなかに焼き付いています。
日本視察をわりとエンジョイしている騎士ですが、ふとした折に陛下を思い出しては、遠い遠い祖国におられる己が主を想うのでした。
蒼颯館は、どうやらお雇い外国人が設計したようで、キョウトの古い街並みと比べると随分と浮いて見えました。
(ルネッサンス様式かな……しかし我が祖国の雰囲気も感じ取れる)
怪しまれないよう、遠くから黙々と観察を続ける騎士でしたが、祖国の雰囲気を感じ取ってしまい、また少ししょんぼりとするのでした。
しかし目的の舞踏会は一週間後。しょんぼりし続けているわけにもいきません。これから舞踏会への招待状を手に入れなくてはならないのです。
騎士が潜入しようとしている舞踏会は、上流階級や政府高官がメインの催しなので、一般人のままでは参加できません。
ふむ、とひとつ騎士は考えると、招待状の手配を始めたのでした。
さて、時は経ちまして一週間後。舞踏会当日の夜になりました。
騎士はいつかのデビュタント、夜会に初めて招かれたときと同じ衣装を身に纏っています。同じ、と言いましても、やはり騎士も成長しますから、何度か仕立て直しをしてはいるものの、ここぞというときには必ず、この衣装なのでした。
問題の招待状も、しっかりと用意できました。どこの国でも裏社会というのはあるもので、騎士はそういうところの渡り方がとても上手なのでした。
「ようこそおいでくださいました。お手数ですが、招待状を拝見させていただけますでしょうか」
蒼颯館の入口で、屈強な男たちが警備をするなか、受付係の男がそう言います。
騎士はにこりと笑み、用意した招待状を手渡します。
受付係は招待状の中を検めます。
「アルヴィス・メディウム様ですね、たしかにご確認させていただきました。ありがとうございます」
にこやかな笑顔で、受付係は招待状を騎士に返しました。
周りの警備の人間の気配も探っていましたが、無事、なんの疑いもなく騎士は会場に潜入することができたのでした。
会場となる大広間はざっと三三〇平方メートルといったところでしょうか。
日本風に言えばおよそ一〇〇坪ですが、二五メートルプール約ひとつ分と言えば想像しやすいでしょうか。
(やはりかなり狭いな……)
外観を見ていて分かっていたはずですが、内部に入ってみると、また感覚は違いました。日頃から、王宮の大広間ばかりを見ていると、感覚が麻痺してしまうようです。
今回騎士が手に入れた仮初の身分は、「政府高官の友人」というものでした。当の政府高官にはあらかじめ、暗示をかけてあります。騎士は、暗示や催眠術といったものも嗜んでいるのです。
「おぉ、アルヴィスくん。今日はよく来てくれたね」
小太りの政府高官は騎士に声をかけます。
「ミスタ・ワダ。本日はお招きいただきありがとうございます」
にこりと、誰もが息を呑むような美しい笑顔を携えて、応えます。
「この舞踏会は、君の国のものとも肩を並べられるほどだと自負しておるよ、ははは。わしの娘とも一曲踊ってやってくれたまえ」
「ええ、それはもう是非」
傲慢、と笑顔の仮面の下で冷たく思います。
列強諸国と並ぼうと、日本が独自に努力していることは認めますが、こうも自慢げに言われると、反感を覚えてしまうのが騎士の性格なのでした。
この催しは舞踏会ですから、もちろんダンスもしなくてはなりません。昔はたどたどしかった騎士のダンスも、今では立派に踊れるようになっています。ワルツはもちろん、タンゴやスロー・フォックストロットなどお手の物です。ヨーデルからは、男性側も女性側もどちらも仕込まれていますが、今回の騎士は男性側です。
五フィート三インチ(約一六〇センチ)もの身長と、透明に近い白髪、柔和な黄緑の眼、整った中性的な顔立ちに優しげな微笑をたたえる騎士は、外国人の招待客のなかでも、それはそれは目立つのでした。
紳士淑女の皆さんからの熱のこもった視線を受けつつ、騎士は記憶を辿ります。
(あちらのお嬢さんが外交官の娘、あちらは華族の一人娘でしたか。あそこにいるのは……)
と、ひとりひとり、事前に覚えた顔や情報と実物を照らし合わせていきます。
観察ついでに目を合わせて微笑むと、若いお嬢様方は皆さん一様に頬を朱に染めて、さっと目を逸らしてしまうのでした。
自分の見た目がどれほどの威力になるのかを自覚している騎士ですが、覿面具合に少し驚きます。
(さて、誰をダンスに誘うのが手っ取り早いかな)
まず目をつけたのは、華族であり、父親が政府高官という娘さんでした。
「こんばんは、良い夜ですね、レディ」
と、柔らかく声をかけます。
まさか自分が声をかけられると思っていなかった様子のお嬢さん。口をぱくぱくさせて、まるで金魚のよう。
「失礼、ご挨拶が遅れましたね。僕はアルヴィス。アルヴィス・メディウムと申します」
気軽にアルヴィスとお呼びください、と付け加えるのも忘れません。
「よろしければ、僕と一曲、踊ってはくださいませんか?」
その夜騎士は、何人もの有力者の娘さんと親しくなり、日本の政治事情の裏話や、噂話、軍の内部事情など様々な情報を手にすることができたのでした。
それからも複数回に及び、蒼颯館での催しに参加し、得た情報の裏付けなどをしていきました。
キョウトでの情報収集を始めてふた月半を少し過ぎた程度の時が経ちました。
度々催される夜会や、個人宅で行われるパーティーなどで日本の内情をかなり深いところまで知ることができました。
(現状得られる情報はこんなところか)
各方面で、必要な情報は手に入りました。これでやっと、陛下のおられる祖国に帰ることができます。
(あぁ、やっと、やっと帰れる……。陛下は御元気にしておられるだろうか)
そっと懐にしまわれている写真を服の上からなぞります。
日本視察をエンジョイしていましたが、やはり騎士は陛下のことをずっとずっと想っていたのでした。
キョウトからヨコハマに帰ってきました。
視察は思っていたよりも少し長引いてしまっていました。祖国へ到着するころには、陛下のもとを離れてから半年以上の月日が経っていることでしょう。
今回は、前回のユールの件もありましたから、乗客のチェックはより厳しく済ませました。
(そういえば、日本に来てから奴に遭遇することも、噂を聞くこともなかったな)
船の上で事を構える気はないと言っていたため、日本国内で何かしらあるかと一応警戒していましたが、何もありませんでした。拍子抜けです。しかし、行きの船の二の舞は避けねばなりません。偽名だけならまだしも、変装されていたらと考えると、気を引き締め直す騎士なのでした。
***
「もしもし? あぁ、ごきげんよう、僕だよ。うん、そうか。ふぅん、ちゃんと蒼颯館へ誘導できたんだね、よかったよかった。いやいや、ありがとう。今度ふたりには、珍しい耳飾りをプレゼントするよ。え? ちゃんとプレゼントするとも。はは、すっぽかさないって。僕ったら信用無いなぁ。まったく、悲しいよ、くすん。僕? 僕はもう少しこっちにいるつもりだよ。帰りの船まで一緒にしたら、それはもう怪しさ満載じゃないか。それにほら、可哀想だろう? 健気にもひとりで日本を視察して、ようやく帰れると思ったらまた僕に出くわすなんてさ。いやぁ、それでもいいんだけれどね、僕は。今回は初めてのおつかいみたいなものみたいだし、あんまりいじめるのもね。うん、そっちにもそのうち寄るよ、ありがとう。じゃあまた」
***
代わり映えのしない海の風景を横目に、またおよそひと月半。退屈ではありましたが、陛下のもとへ帰れるのだと考えると、心がじんわりと温かくなるのでした。
ようやく祖国の港に到着した騎士は、下船しようとするところでした。もうそわそわが抑えきれていません。早く早く一刻も早く陛下にお会いしたい。
と、その視界に紅を見つけました。
それはこの約半年と少しの間、焦がれ続けていた紅でした。
ぶわっと堪えていた想いが溢れます。
瞳は涙で滲み、脚は勝手に駆け出します。
やっと、帰ってきたのです。
***
日本から帰港した豪華客船が、港に錨を下ろし、何本もの太いロープで係留されます。
「船は無事に到着したようですね」
と、隣でヨーデルがそう言います。その声が安堵を含んでいることに、陛下は気づいていました。
「ああ」
乗客の下船の準備が進められている船を見上げながら、陛下は思います。
(さて、我が『騎士』は如何ほどに成長したかな)
きっと土産話がそれはもうたくさんあるだろうと、その報告を受ける情景が、今からありありと浮かぶようです。それを思うと、自然と口元が綻ぶ陛下でありました。
目立たないよう帽子を目深に被った陛下に、隣のヨーデルがこっそりと視線を向けます。
陛下御自身は自覚がないようでしたが、騎士が旅立ってからこちら、陛下が日々不安や期待、意味もなく書斎をうろうろする、新聞の上下を間違えるなど様々な想いを胸に過ごしてきたことを、彼は知っています。
ヨーデルは、やはりとても優秀なのでした。
そしてもちろん、今日という日を、心待ちにしていたことも、元青薔薇の騎士は先刻ご承知です。
くすり、と口元だけで笑い、視線を船へと向けます。
「陛下、乗客の下船が始まったようですよ」
「ああ」
ひとり、またひとりと船から人々が下りてきます。
しばらくすると、モスグリーンの生地に紺色のリボンのついた中折れ帽を被った人物が、船の出口に来ていました。
現地で買ったのでしょうその帽子で隠れてはいますが、それは半年以上もの間、見ることのできなかった、透明に近い白髪なのでした。
(帰って、きたのだな)
初めて外の国へ出した自分の『騎士』の姿を見つけて、半身が戻ったような気持ちになる陛下です。
そう、焦がれていたのは、騎士だけではありませんでした。
これから先、己と永劫を共にする者が、自分を見つけて嬉しそうにこちらへ駆けてきます。
(まったく、我もつくづく絆されておるのかもしれんな)
そう思った陛下の口元は、やはりまた、綻んでいたのでした。
***
人混みをかき分けかき分け、全速力で陛下のもとへ駆け寄った騎士です。
被っていた帽子を取り、何かを言おうとするものの、様々な感情が溢れていて、なかなか先が紡げません。
「よく戻った、シュバリエ」
もう半年以上耳にしていなかった、陛下の低く柔らかなお声が、騎士の鼓膜を震わせ、優しい紅の瞳が、揺れる黄緑の瞳を捉えます。
溢れてとどまることを知らない想いが、いっそう黄緑を濡らし、帰ってきたのだということをひしひしと感じました。
そうして騎士は、満面の笑みで応えたのでした。
「はい! ただいま戻りました!」
END
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