身体だけの関係です‐原田巴について‐

みのりすい

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原田巴について

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 弓槻さんと僕は中学生の頃からの付き合いだった。
 付き合いと言ってもそんなに接点はない。一年生の頃は、存在は知っていても話したことはなかった。二年生の頃に同じクラスになって、時々事務的な会話程度はするようになった。
 弓槻さんはクラスの一番上のカーストのグループリーダーだったし、僕はどの派閥にも所属しないはぐれ者だった。
 派閥に属さない者はおのずとカースト最下位におかれるものだ。カースト上位の存在には逆らえないし、大きな声で話したり自己主張したりすることもできない。
 僕は一人で静かに過ごせればよかった。どうせ僕と話が合う相手もいないのだし、わいわい騒ぐ一団の仲間に入れてもらいたいとも思わない。
 何かを人に求めることもしなかった代わりに干渉されることも嫌っていた僕は、カースト上位の女子たちから見れば、無視はできるけれど面白くもない存在だっただろう。
 もしかしたら弓槻さんは、そうした派閥争い、支配被支配の関係性に疲れていたのかもしれない。
 二年生の秋ごろになって、彼女は僕に話しかけるようになった。僕が一人でいて、周りにも誰もいない時にこっそりとだ。
 そういう時は大抵、僕に読んでしまいたい本があって、放課後になっても自分の席でページを捲っている時だった。
 夕暮れの校舎の三階の教室にはまばゆい黄金色の光が差し込んでいた。誰かがもう教室の照明は落としていたけれど、窓から差し込む光は明るく、本を読むには十分だった。
 弓槻さんは部活動をサボって僕のところに来た。用事があるとか何とか言って、途中で抜け出してくるのだ。
 彼女が僕のところに来るのは、もうじき四時半になるくらいの頃だった。少し汗を流した白い体操着姿で、部室はきちんとあるのに、どうせ誰も来ないからと僕の隣で制服に着替えた。
 僕が教室に残っているのは本を読むためだったから、大抵の場合、僕はあまり弓槻さんに愛想よくしなかった。挨拶くらいはしたけれど、それっきりで、いつの間にかいなくなっていることも多々あった。
 僕が話を聞いてあげる素振りを見せると、弓槻さんは途端に饒舌になった。教室でグチ、部活でのグチ、家庭でのグチ。彼女の話題は大抵グチだった。
 聞いていて気分が良くなる話題ではないと思うけれど、僕は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。たぶん弓槻さんは、僕と何を話せばいいのか分からなかったのだと思う。いつも彼女が付き合っている人種と僕は、あまりに違っていたから。
 そうした日々が過ぎて三年生になった頃、弓槻さんの話題に弟の話が出てきた。もう六年生になるのにまだ子ども用の特撮が好きなのだと、呆れたように言っていた。
 弓槻さんは僕が特撮好きなことを知らなかったと思う。周りの女の子が僕の話に誰も耳を貸してくれないことを小学生の頃には悟っていたから、僕はそんな話題を出したことはなかったし、男の子たちも、女子と話すのを恥ずかしがって僕と話をしてくれなくなっていた。
 僕はつい、弓槻さんの話を遮った。曖昧な感じだったと思う。弓槻さんもちゃんと見てみたら、良さが分かるんじゃないかな~、みたいな。
 もしかしたら僕が彼女の話に口をはさむのはその時が初めてだったかもしれない。
 弓槻さんはびっくりした顔をして、すぐに真剣な表情になって、分かった、と頷いた。そして次の週には、僕に感想を教えてくれた。
 大賛成、みたいな感想じゃなかった。まあ面白かったけど、あんまり趣味じゃないかな、みたいな。でも僕にはその正直さが逆に好ましく思えた。好きなものは好きでいいし、合わないのに無理に合わせようとする必要はない。
 その日から、僕からも弓槻さんに話をするようになった。たぶん、彼女にとってはどうでもいいようなことだ。特撮ヒーローのこと、好きな本のこと、お姉ちゃんのこと。
 まあ、僕も弓槻さんの持ってくる話題には興味がなかったからお互い様だろう。
 弓槻さんは自分で話をする時の饒舌さを引っ込めて、僕の話を興味なさそうに聞いてくれた。たまに校庭のサッカー部や野球部の姿を見たり、爪の手入れを始めたりしながら、でも最後まで聞いてくれた。
 彼女と過ごす時間はなんだか居心地がいいように感じられた。ただの教室という名前の場所に、色と手触りが付くような。
 二人で話をしたから何かが変わったとか、何か心動くことがあったわけではない。でも多分、あの時間、あの場所で、僕たちは友だちだったのだと思う。


 弓槻さんの顔を見てしまってから、一人でさっさと歩いて行くことができなくなった。まるで置いて行こうとしているみたいで、弓槻さんを傷つけてしまうような気がしたからだ。
 僕は弓槻さんが付いてきやすいようにゆっくりと歩いている。そうすると自然足取りも重くなって、そぞろ歩きも斯くやとなる。
 僕、何かしたっけ。
 内心、ちょっと焦っている。女の涙に弱いのは男の専売特許かもしれないが、女だって目の前で泣かれたら焦るに決まってる。いや、別に泣いてなんてないのだけど。そんな風に見えたってだけで。
 言いたいことがあるならさっさと言ってほしかった。何か気に障ることがあったならさっさと吐き出してもらって、直せることなら直すし、無理そうなら距離を取る。それだけのことだ。
 でも黙って睨んでいるだけじゃ、なにも伝わらない。
 自慢じゃないが僕なんて他人の気持ちには疎い方だ。大して興味がないからね。だから言ってもらわないと分からない。
 気が付けばお姉ちゃんが働いている塾が見えてきた。いつしか道を駅の方へと辿っていたらしい。
 どれだけの時間歩いたろう。陽は暮れかけて街の明かりが夕闇を際立てる。家まで帰り着く頃にはもう辺りは真っ暗だろう。お母さんに怒られる。
 僕は塾の正面に立って自動ドアから中を覗く。塾はこのビルの三階だ。当然お姉ちゃんの姿は見えない。
 立ち止まった僕の背中を弓槻さんがつんと引っ張った。
「どこまで歩くの?」
 たまたま行き先が一緒のふりは諦めたのだろうか。
「どうしよ。帰る?」
 僕は少々疲れてきていたこともあってそう提案した。僕も用事があるふりなんて止めよう。お互い嘘つきなんだから、意地を張っても不毛なだけだ。
 弓槻さんは、うん、と小さく頷いた。
 僕らは今度は裏道じゃない明るい大きな道をとぼとぼと歩き出した。
「弓槻さん、家、どの辺だっけ」
「あっち」
「そ」
 僕は弓槻さんを家まで送り届けた。だって僕が連れまわしてしまったんだからね、仕方ない。
 たっぷり一時間ほども歩いた。
 弓槻さんは僕が家まで送るつもりだと分かると遠慮したけれど、ありがと、と呟いて僕の横に並んだ。ちょっとだけ機嫌が直った気配がして、ほっとした。
 弓槻さんは家の前まで送らせてはくれなかった。四つ角の電信柱の下で少し先の家を指さして、あそこだから、と手を振った。
「今日はありがとね」
「いや、こっちこそごめん」
 僕が謝ると、何で謝るの、と弓槻さんはくすぐったそうに笑った。
「気を付けて」
「すぐそこだから、大丈夫。っていうか、巴だよ、気を付けるのは」
 変なの、と弓槻さんは笑う。でも僕が変だとしたら、君が変にさせているんだと思う。だって君はまだ何か言いたげで、全然立ち去ろうとしない。
 でも少し沈黙があって、どうにも言い出しそうにないと感じたから僕は背を向けた。
「じゃあ」
「う、うん。じゃあ」
 なんとなく、呼び止められるような気がしていた。でも十歩ほど離れても何も言われなかった。
 僕はそのことに安堵していた。だって今日は無駄に歩いてもう眠たいし、何か言われても気の利いた答えができる気がしない。それにこれから三十分ほど歩いて家まで帰らなくちゃいけないんだ。
 もう辺りは真っ暗だった。
 外灯の切れかけの電球がジーと音を立てて、夏の虫がその下にたかっている。この辺りまで来ると畑も多くなって、辺りの家の明かりの届かない場所も出てくる。
 ふと開けた場所で顔を上げると、国道の街路灯のオレンジが行き過ぎるヘッドライトと共に遠くに浮かび上がっている。
 ふとばたばたと走ってくる音が聞こえるのに気が付いた。
 やっぱりなにかあったかと、僕はちょっと諦めた気持ちで振り返った。そしてほとんど同時に突き飛ばされてたたらを踏んだ。
 弓槻さんはほとんど勢いも殺さずに僕のことを抱きしめていた。僕は数歩後ずさってようやく止まれた。押し付けられた胸のふくらみの柔らかさや体温が僕の頬に伝わっている。心臓の鼓動が響く。
「好きです」
 真っ直ぐなあいの言葉だった。僕には恥ずかしくなってしまうような。
 ずっと言いたそうにしていたのはその言葉だったのだろうか。それにしては、あまりにも唐突な告白だった。
 でも、弓槻さんが真剣なことは僕にも分かった。まるで水を入れすぎたグラスからあふれ出るように一滴、僕を放して顔を俯けた彼女の目許から涙が零れた。
 僕はそれを美しいと思った。僕のような奴には見合わないとも。
 僕は何かを言わなければいけないと思った。言葉が見つからないのであれば黙っておけばよかったのに、僕はその美しさの対価に、僕の何かを差し出さなければならないと感じたのだ。
「――僕は、男の子になりたいわけじゃないよ」
 どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。僕は弓槻さんが、そんな風に思って言ってくれたんじゃないことくらい分かっていたのに。
 その言葉を聞いた瞬間、弓槻さんは弾かれるように顔を上げた。僕は僕の苦し紛れの言葉が彼女を傷つけたことが分かった。でもそれがどれだけ彼女の心を傷つけたのか、僕には分からなかった。
「忘れてください」
 弓槻さんは震える声で言って、僕がなにか言うのも待たずに走って行ってしまった。
 取り残された僕はとても寂しい気持ちになった。
 思った通りだった。今日の僕にはなにも気の利いたことなんて言えやしない。
 胸が苦しくて、重く塞がる。僕はこの感情を知っている。後悔だ。そして後悔などいくらしたところで、言ってしまった言葉もやってしまったことも、もうその前には戻れないんだ。
 僕は爪の先が手のひらに食い込むくらいにぎゅっとこぶしを握った。
 そしてふと思い出した。
『忘れてください』
 僕の前に身体を伏したお姉ちゃんの姿。全然状況は違うのに、弓槻さんの言葉と重なって聞こえる。
 今からでも追いかけて、何か弁解した方がいいだろうか。でも、僕には自信がない。弓槻さんになんて言っていいか分からない。もっと傷つけてしまうかもしれない。もう取り返しなんてつかないのかもしれない。
 ――怖い。
『忘れてください』
 何で!
 忘れていいの?
 その程度のことだったの?
 僕は叫ぶ。
 僕はお姉ちゃんに抱かれて、怖かったけど、本当はほんの少しだけ、嬉しかった。酔ったらこんな風に飛びついて、僕のこと、めちゃくちゃにしてしまうくらい、僕を……、身体だけだっていいんだ、僕を欲しいと思ってくれていたんだと思って、嬉しかった。
 僕はお姉ちゃんのこと、すごく尊敬して、憧れてた。僕には恋愛感情なんて分からない。もしかしたら憧れと恋を一緒くたにしていただけかもしれない。いや、僕にはきっと恋なんて存在しなかった。嬉しいと思ったこの気持ちは、あの時、あの瞬間に勘違いしただけなのかもしれない。もしかしたら恐怖を紛らすための自己防衛だったのかもしれない。
 いずれにしろ僕は、きっとあの瞬間、お姉ちゃんのことが好きだった。
 だから忘れてくださいと頭を下げられた時、ひどく裏切られた気持ちがした。思い知らせてやらなきゃいけなくなった。
 消して忘れてなるものか、忘れさせてなんてやるものか。生まれ出ることさえできずに消えた、淡くちっぽけな気持ちのために。

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