アポロ・ファーマシー

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3-7 ベリリの溜息

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おそい」

 長くきつい坂道をへいこら言いながらようやく上りきり、死ぬ思いで我が家の玄関げんかんを開けてリビングに足をみ入れたわたしに対するねぎらいは、意味もなくえらそうに腕を組み仁王におう立ちなどしていた兄さんが投げつけるようにかけてきやがった温かい言葉でした。

「お帰りー、宮部みやべ

 一方渋谷しぶやさんはまるで自分の家でもあるかのごとく優雅ゆうがにソファでくつろぎ、来客用カップにれられたコーヒーを美味おいしそうに飲んでいます。

 どうでもいいですけど、このコーヒーって普通に考えてやっばり兄さんが淹れたんでしょうね? 実の妹であるわたしにはコーヒーどころか水一杯いっぱいだっていれてくれたことなんかないくせに。

「なにグズグズしてやがったんだ、麻幌まほろ! 待ちくたびれたぞ。あの程度の坂道を上ってくるのにどれだけ時間をかけてるんだ?」

「……すみませんね! バイクで楽して帰ってきた誰かさんたちと違って、わたしはあの心臓しんぞう破りの坂を二本の足だけでコツコツと上ってきたものですから!」

 わたしはイヤミたっぷりの口ぶりでき捨てるように言いましたが、残念ながら兄さんはこの程度の皮肉ひにくで恐れ入るような可愛げのあるタマではありません。兄さんはさりげなくも図々ずうずうしく渋谷さんのとなり腰掛こしかけると、わたしに向けては偉そうにあごなどをしゃくって見せます。

「さて、早速だが麻幌。くわしい話を聞かせてもらおうか」

「ちょ、ちょっと休ませてくださいよ。わたしはいま滅茶めちゃ苦茶くちゃつかれているんですから!」

「バカ野郎! そんな悠長ゆうちょうなことを言ってる場合か。俺の駿介しゅんすけたんがどこの馬の骨とも知れない女にたぶらかされ、もてあそばれてるかもしれないって時に!!」

 右のこぶしを強くにぎめ、下口唇くちびるをぎゅっとみながら、兄さんは牛乳がたっぷりしみこんだ雑巾ぞうきんにおいをいだ犬みたいな表情を浮かべて、うめくような声をあげました。

「……『俺の』? 駿介『たん』?」

 兄さんの言葉を聞いた渋谷さんは目を蜜蜂ミツバチのような八角形にしながら、わたしと兄さんの顔を交互こうごに見やり、ほうけた口ぶりで声をあげました。

 ああ。そう言えば彼女にはまだ言っていませんでしたねと思い出し、わたしはおもむろにうなずいてから説明のため口を開きます。

「そうなんですよ、渋谷さん。兄さんは以前から自分の実の弟である駿介のことを、恥ずかしげもなく駿介たんなんて呼びかたをしているんです。おかしいですよね?」

「うん。おかしい」

 わたしの正論せいろんに、大きく首肯しゅこうしながら、間髪かんはつを入れずそのように応える渋谷さんでした。しかしわたしが『そうでしょう?』と勝ちほこって鼻を鳴らす前に、彼女は真面目な表情を浮かべたまま、さらに言葉を続けたのでした。

誰々だれだれ『たん』というのは女の子に対する敬称けいしょうですからね。弟くんは男の子なんだから駿介『たん』ではなく駿介『きゅん』とつけるべきだと思いますよ、静馬しずまさん」

 重要なのそこ!? 

「むぅ。確かに」

 兄さんは兄さんで渋谷さんの提言ていげん(?)に、目をつむりうでを組みながら真剣な面持おももちでうなずき呟いていますし。

「だけど、ひかりちゃん。『たん』とか『きゅん』っていうのは敬称と言っていいのかな? いや、それぞれの元になった『ちゃん』や『くん』は一応敬称なんだからそれはそれであってると思わなくもないが。しかしなんと言うか、ちょっと違うような気がするんだよな俺は」

「う~ん。言われてみればそうですねえ」

 今度は兄さんの言葉に、渋谷さんがもっともらしく首をたてっていますが……。いや、それも重要なところじゃねぇだろです!

「渋谷さん。実は兄さんはブラコンなんです。それも頭に超の字がつくくらいの変態へんたい的な」

 このままわたしがだまり続けていたら話が脱線しまくってとんでもない所に連れていかれそうでしたので、そのように口をはさんで、無理矢理にと言うか強引に話を元の路線ろせんへと引きもどしました。

「ふぅん」

 渋谷さんはどこか意味ありげにちらりと兄さん、続いて何故かわたしの顔を見やりながら、なんとなくそうだと思っていたよとでも言いたげに湿しめった吐息といきをこぼします。

「ブラコンって。それはつまり、宮部みたいなってことだよね?」

「違う! こいつと一緒にしないでくれ!!」

「違いますよ! 兄さんと一緒にしないでください!!」

 かなり微妙びみょうな顔つきになり、恐る恐るというふうにたずねてきた渋谷さんに対して、兄さんとわたしはせずして同時にそう声をあげました。

「俺はブラコンなんかじゃねえ! ただ兄として、駿介たんのことをいつくしみ心配して守ってやりたいと思ってるだけのことで。ブラコンなのは姉のくせに、駿介たんに対していかがわしい感情をいだいてる、むっつりスケベの麻幌のほうだ!!」

「わたしだってブラコンじゃありませんよ! ついでにむっつりスケベでもありません! 兄のくせに、弟べたべたで恥ずかしげもなく駿介たんなんて気持ち悪い呼びかたをしている残念野郎の兄さんのほうが、どう考えたってブラコンのむっつりスケベじゃないですか!!」

 わたしと兄さんはつばを飛ばしながら、おたがいに自分の言葉こそ正当であり相手の言っていることが間違っているのだと主張しあいます。

 もっとも渋谷さんは何故だかどっちの言葉もまるで信じていないようで、もう一度兄さんとわたしの顔を順番に一瞥いちべつした後、両目を閉じて深々とため息をついたのでした。



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